第4話
僕の中で薄々感じていた予感はもう確固たるものとなっていた。こんな格好をしていた時点でなんとなくそんな気はしていた。いや、もっと前から。死んだはずの僕が神々しい女と対峙した時から予感はあったんだ。でも、いざ本当にこの身に起こっても、そう簡単に事実としては受け入れられない。
僕が飛ばされたこの世界は異世界だ。ここは日本じゃないし地球でもない。そう思うと僕は不思議と複雑な心境になった。不安を感じているのか期待を抱いているのか。色んな思いがぐちゃぐちゃに混ざり合って混沌としている。もう身体的にも精神的にも疲れ果ててしまって、穏やかな流れの中に身を任せていたいけど、なかなかそうもいかないようだ。
僕を引きずり込もうと蠢いていた手はただの木へと戻っていた。あの全てを飲み込まんとする恐ろしい闇はなりを潜め、木々は規律正しい軍隊のように整列していた。変わり果てた森の様子は廃れたどこかの神殿のような印象を僕に与えた。
「なぜ、お前は木々を切りつけたのだ」
ニアの言っていた、「みんなを傷つけた」の意味がそこでやっとわかった。
「ごめんなさい。怖かったから、目印を付けて安心したかったんです」
「そうか。あの木を見て傷つけようと考える弱者など人間にはいないと思っていた。この森は人にひどく恐れられているからな。基本的に近づくものはいない。我らにとってもそちらの方が好都合なのだ。お前もなかなかに世間知らずだな。まあ、良い。あの程度のかすり傷我らにとって大したことではない。して、なぜお前のような臆病者がこの森に飛ばされることになったんだ。罪でも犯したか?」
「何もしてないです。僕にもなんで森に飛ばされたのか分からないんです。あの女にもう一度会って意図を聞き出してやりたい」
「お前自身も何がなんだか分かっていないようだな」
沈黙が続いた。とても安らかな静寂が辺りを満たしていた。木々の圧迫感も遠くに消え失せ、恐ろしい獣の声もしない。風に揺られる葉がさわさわとこすれ合っていた。
「あの」
僕は前を行くニア、いや別の誰かに声をかける。その人は森に入ってから一度も振り返ることもなく、一定の歩調で悠然と森を歩いていた。綺麗な緑の髪が歩調に合わせて揺れている。それは見惚れてしまうほどに美しかったが、生憎今のニアの雰囲気には似合わない。
「あなたは誰ですか? ニアじゃないですよね?」
「私はヨタ。樹人の長だ」
僕はいやに納得した。樹人とかいう奇妙な奴らの長にふさわしい威厳をこの人物は有していた。ただ、それを知ったことで僕はますます居心地が悪くなった。聞くなら最初に聞くべきだったし、そうでないなら最後まで知りたくなかった。
「ヨタさん、お尋ねしたいことがあるのですが」
「ヨタでよい。その堅苦しいのもよせ、普通にしろ」
一番偉い人だと思ったらなんだか急に緊張してきてしまって、口元がおぼつかない。やはり聞くべきじゃなかった。
「えーと、ヨタ。樹人というのはどういった、存在なの?」
ヨタはそこで初めて振り返る。怪訝そうな顔を僕に向けている。
「樹人を知らないのか?」
「知らない」
「妙なやつだ」
ヨタは再び歩き始めて、続けた。
「樹人は森そのもの、自然の意志の集合体だ。樹人は多くいるが、それらは一つだ」
「うまく理解できない」
「私はヨタでもあり、ニアでもあり、その他大勢でもある。もちろん、肉体はそれぞれ固有のものがちゃんと存在する。私たちは全て繋がっているのだ。精神的にとかいう意味ではなく身体的にだ」
「うん、分かったとおもう」
「もう着く」
ヨタの一面緑だった髪が次第にまばらに白くなっていき、雰囲気が柔らかいものへと変わっていった。全ての変化を終えてから、ニアは歩みを止めた。
「良かった。ヨタはナギを信じてくれたみたいだね」
「ニアだね?」
「うん、そうだよ。もうすぐみんなのとこに着くよ」
数時間前に名前を教えあっただけの間柄なのに、僕はニアに長年付き合った友人のような安心感を覚えた。
それから少し歩いたところで、変わることのなかった景色が不思議な力に導かれて突然変わった。前を行くニアが大きく一歩を踏み出したかと思うと、視界が一気に開けて森の中に暖かで優しい緑色の光が差し込む広場が現れた。大木が数本ずっしりと構えていて、その根元には扉がついている。上の方で幹や蔦が橋となって大木から大木へと繋がっていた。空中にうす緑の玉がふよふよと無数に浮かんでいた。それらは呼吸するように一定の間隔で淡く光を点滅させている。
あまりにも美しい光景に僕は呆然と立ち尽くしていた。ニアが僕の背中をつついたので、はっと気が付いた。
「通れたじゃない、ナギ。森に認められたね」
「普通通れないの?」
「心の汚れた人は通れないよ」
「僕の心って綺麗なんだ」
実感が湧かない。心が綺麗か汚いかなんて考えたこともない。考えるまでもなくある程度年を重ねた人の心は汚いものと思っていた。心が綺麗な人は世界のことを何も知らない赤ちゃんぐらいのものだろう。しかし、今僕の心は綺麗と診断されたようだった。ニアの笑顔を見るかぎり喜ばしいことなのだろうけど、素直に喜ぶような気持ちにもなりにくい。
ニアに導かれるままに、僕は正面にそびえ立つ一際大きい大木へと、その根元の大きな両開きの扉へと向かった。
ニアが重い扉の片側をその軽そうな体重をかけてゆっくりと開けた。大木の中は僕の想像していた豪奢な感じとは全然違って、質素でこじんまりとしていた。部屋の中央にもこっと切り株が置いてあり、そこに鋭い眼光を放つ老人が座っていた。綺麗な緑色の髪に緑の瞳、ニアと同じ若草色のワンピース。額の真ん中で分かれたその長い髪は前に流され、老人の腰のあたりまで垂れていた。樹皮のような皺を刻んだその顔にはめ込まれた玉が僕を見据える。
「通ったぞ。これで異論はないだろう。この男は潔白だ。納得できないものはいるか」
ヨタは僕を見据えるが、僕には言ってなかった。周りに他の誰かの気配は無いけど、他のみんなに向けていた。しばらく、ヨタはじっと待った。やがて、右手を上げ閉廷の合図とした。
ひょこっとニアの無邪気な笑顔が僕の視界に入ってきた。僕は言う。
「ありがとう、ニア」
「どういたしまして」
「さて」ヨタが口を開く。
「この件は無事に終わったが、ニア。私はお前を許してはいないぞ」
ヨタはニアを鋭く睨む。怒りの色が全身を駆け巡っているようだ。ところがニアは余裕そうだ。
「もう、全くヨタは心配性だなぁ。結局何事もなかったんだからいいじゃない。私はナギが安心できる人だって確信していたから森を出てついてったのよ。何も考えなしに出てったわけじゃないって」
「いいや、お前は衝動的に行動する。今回ばかりは運が良かっただけだ。二度と同じまねはするな、よいな」
「うん、わかった。約束するよ」
ニアは僕を連れてそそくさとその場を後にした。僕は息のつまるような思いをしていて、外に出れた瞬間、思いっきり深呼吸をした。
ニアは笑って「怖かったねー」と思って無さそうに言う。
「あんなに怒ることないのに」
「ニアを心配してくれてるんだよ。とても優しい人なんだね、ヨタは」
「うん、ヨタは優しいんだ。すっごく怖いけどね」
そう言ってニアは広場の中央へと元気に歩き出す。しかし、その中途で頭を抑えてニアは倒れた。
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