第267話 教皇アシュトレイト
セレネ皇国に食い込むようにあるレアティス山脈。
地上1000メートルの山の上にある大聖堂から、男は地上を睥睨する。
そして人間界におけるフォルセルス教の頂点に君臨する教皇アシュトレイト・F・ファルセットは、何本もの皺が寄った口元を僅かにへの字に曲げた
アシュレイ(親しい者は彼をこう呼ぶ)は常に、神の声に耳を傾けている。
だが近年、その神の声が徐々に断片的になってきている。
彼の齢は85。もう引退をしても良い頃合いである。だが神の声が聞こえる限り、教皇はその責務をまっとうしなければいけない。
それこそが教皇――神に選ばれた者の務めである。
エアルガルドにおいて最も力のあるフォルセルス神は、その御業で直接教皇を選出する。
教皇に選ばれたものは、次の教皇の選出までが任期とされる。
特別問題がなければ、死ぬまで教皇として在位する。
神の声が断片的になってきたのは、神の力が弱まったから、などということはないはずだ。
これまで盤石だったものが、突如弱体化するなど決してあり得ない。
もちろんアシュレイはフォルセルスの信者ではあるが、通常の信者と違ってフォルセルスを完璧な存在だと盲信してはいない。
神代戦争ではいくつもの神が隠れ、いくつもの神が弱体化したのだ。
フォルセルスもそうならないとは、人間の身であるアシュレイが断言出来るはずがない。
しかし、いくら断片的であろうとも神のお告げはいつも正しい。
ミストルがアヌトリアと好戦することも、神はアシュレイに告げていた。
『ミストルがアヌトリアに仕掛け、因子を討ち滅ぼすだろう』
ミストルがアヌトリアに戦争を仕掛けて、因子――教皇庁指定危険因子を討ち滅ぼす。
かの国にいる危険因子は皇帝テミス。
おそらく彼は、死ぬのだろう。
「失礼いたします」
ある日、恰幅の良すぎる1人の男がアシュレイの元に懺悔に訪れた。
男はミストル連邦国国王の1人……いや、この場ではあくまで彼。
懺悔に名前も立場も国も関係ないのだ。
「アヌトリアに不穏な動きあり。おそらくかの国はこの世の天秤を大きく動かす存在でしょう。このまま見過ごすことは出来ません」
「ふむ」
アシュレイは一度紅茶で喉を潤して、口を開く。
「……して、本心は?」
「わたしはフォルセルス教の敬虔な信者。神以外のものが己の欲望に従い天秤を動かすことに耐えられません」
「……」
「ただ、すこぉしばかり強く天秤を戻してしまうかもしれませんけどねぇ」
「ほぅ?」
彼の目が怪しげに光ったのを見て、アシュレイは小さく首を振った。
(強く天秤を戻す……なるほど、略奪が目当てか)
アヌトリアは鉱山資源が豊富で、首都ではドワーフの工房を抱えている。
噂ではエルフの街もあり、そこでドワーフ製の武具を魔武具化しているらしい。
魔武具はかなり高価であり、ドワーフ・エルフ製となると価格は青天井だ。
もはや彼の目には、戦後の倉庫に積み上がった金品しか見えてないに違いない。
「ただ、天秤を戻すとあなた様の不安も解消されるかと存じます」
「……特に不安はないのだがのぅ?」
彼の言葉を要約すると「危険因子(不安)を殺害(解消)する」だ。
だがアシュレイは危険因子に頭を悩ませたことは1度もない。
そも危険因子とは、教皇庁が勝手に判断して指定しているものではないのだ。
神が判断したものであり、神がなにかしらの沙汰を下すものである。故に、教皇庁として悩むことも不安になることも、まったくない。
また教皇庁指定危険因子は、危険度の序列ではない。
No1とNo4、No5は規格外であるが、No6に力はなくNo7はそもそも何故指定されたのかも判らない小石である。
そして、フォルセルス教の信徒だからといって、指定されないわけではない。
事実、アシュレイは神よりNo2に指定されている。
この世界で生きる限り、誰でも指定される可能性はある。
数字は指定された順番でもない。
No1以外、時折順序が入れ替わることがある。
これらの情報を掴んでいれば、“危険因子”がなんであるのかおぼろげにその姿が見えてくるだろう。
ただしそれは、あくまで人間の憶測にすぎないが……。
「セレネ皇国が支援してくれるとありがたいのですが……」
「ご神託が降りるかどうか。それにかかっておりますな」
「そのように傍観していてよろしいんですかな? すぐ隣で戦が始まるかもしれないんですよ?」
「そのときはそのときじゃ。わしらは、いつでも死ぬ準備は出来ておるのじゃ」
二重になった顎の肉をつまむように撫でる男の目には、アシュレイに対する敬意も畏怖ではない。
ただただ、脂ぎった狂気が満ちている。
表向き『危ないから手を組みませんか?』という言葉を用いているが、本当のところは『隣で戦争をしている手前、兵士がうっかり貴国に攻め入るかもしれませんぞ?』と脅しをかけている。
そうすることで、彼は自分に有利な言葉を引き出そうとしている。
しかし腹芸は出来ても頭の出来は良くないらしい。
もしセレネに踏み入ろうものならば、フォルセルス教を信じる国民が一斉に非難の声を上げるに決まっているというのに。
彼は会話の勝敗しか考えていない。
そのような姿勢では、アシュレイは決して動かないだろう。
結局、男はアシュレイの首を縦に振ることが敵わなかった。
彼が見せるべきは至誠だった。
もしそれが僅かでも見えていれば、アシュレイは首を縦に振ったかもしれない。
が、過ぎたことである。
かの国――ミストル連邦アドリアニ王国は、早晩潰れるだろう。
あの程度が頭であれば、アヌトリアには敵わない。
王が欲望に取り憑かれれば、国は容易く滅ぶのだ。
しかし……だからこそ気になる。
ドワーフ製の武具をエルフの技術で【刻印】した魔武具。それを装備した兵士たちを、どうして退けられると考えているのだろう?
おそらくそれこそが、この事態における最も重要な要素のはずだ。
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