第154話 人間は、面白い
もちろんいまもまだ心のどこかでは、『エルフの技術を覚えたアルトが、用済みになったエルフ達を根絶やしにするんじゃないか?』と思っている。
それでもなお、ネフィリルは真摯に、彼の行動を見守り続けた。
なぜなら、彼が怒られたときも集中を阻害されたときも、眠りに落ちるときも目が覚めるときも、エルフに無碍に扱われたときも理不尽に罵倒されたときも――。
すべての場面において、彼は一度たりとも『怒』の色を目に滲ませなかったからだ。
そんなことが、あり得るだろうか?
普通の人間ならば怒るだろう。
エルフの自分ですら、間違いなく怒る。
感情操作が上手い人なら、怒った後にすぐその感情を抑えつける。
一見するとまったく怒っていないように見えるが、その目には絶対に怒りの色が現れる。
まるで風が通り抜けたあと、遠くの木々が揺れるように。
その余韻が、アルトからは一切感じ取れない。
(まさか、本当に怒っていないのか?)
もしそのような人間がいたら、ほかの感情も欠落するはずだ。
しかしアルトからは、怒り以外の感情が抜け落ちている様子はない。
(目が曇ったか?)
自分を疑いかけるが、彼の仲間である細身金髪の女性を見て、その疑いがすぐに晴れる。
エルフにすげなくあしらわれた時、彼女は必ず僅かな怒りを目に滲ませた。
細身の彼女のどす黒い感情を認識したネフィリルは、少しだけ安堵する。
「そうだ、これが人間だ」
少しつつけば怒りに溺れ、他者を蹂躙しようと策を巡らせる。
隣にいる、ぎゃーぎゃーと五月蠅いヴァンパイアは……ありゃダメだ。
全部の感情が一気に前に押し寄せている。それを隠そうともしない。
良く言えば裏表のない馬鹿。
悪く言えば愚鈍な馬鹿。
――つまり馬鹿だ。
「あれでよく人間に殺されず、いままで生き延びてきたものだ……」
呆れると同時に、その強運に感心する。
細身の彼女とヴァンパイアを見て、ネフィリルは自分の眼力が些かも衰えていないことが実感できた。なのに、アルトからは一切怒りの感情が読み取れない。
(何故奴からだけは、怒の感情が読み取れないんだ?)
3週目になると、ドワーフ武具の追加分が里に届いた。
これにアルトは歓喜。また拷問のようなペースで《術式製作》を開始した。
工房のエルフ達は、初めは人間ということで恐れ、技術を吸収する速度に恐れ、苦行のような作業を笑顔で続けることに恐れた。
だが3週間経った頃には、それらの恐れは消えて無くなり、そこにいるのが当然という雰囲気が生まれ、誰も隣に人間(アルト)がいることを意識しなくなっていた。
多くのエルフ達に憎悪の視線を向けられたにもかかわらず、彼が何故そこまで泰然自若としていられるのか。
何故恐るべき実力を秘めているにもかかわらず、その一切を見せようともしないのか。
「……わからない」
頭を掻きむしりたい衝動を抑え、ネフィリルはアルトに近づいた。
「貴様は何故、そんなに平然としていられる?」
ネフィリルの威圧に気づいたのか、集中していたはずのアルトが顔を上げた。
憎悪を向けられているにもかかわらず、やはり彼は動じない。
こいつは本当に人間なのか?
よもや自分よりも遙かに年上なのではないか?
あるいは神が遣わした、まったく別の生命体なのではないか?
「平然と……そう、見えますか?」
「感情を隠すのが上手いな」
「隠してるつもりはありませんけど」
「嘘も上手と見える」
「いえいえ。そういうことに意識を向けられないくらい、いっぱいいっぱいです」
困惑や悲しみのような色は見えるが、やはり怒りはない。
(もう少し揺さぶるか……?)
言葉を考えていると、ネフィリルは自分に向けられた多くの視線に気がついた。
工房の職員がみな、ネフィリルがアルトに何を言うのかを気にしている。
その目には、怯えが見て取れた。
(まさか……そんなッ!)
彼らの瞳を見て、ネフィリルが激しく動揺した。
彼らはネフィリルが厳しいことを口にすることで、アルトが不快になることに怯えている。
それもアルトが己の力を振るって暴れることに、ではない。
気分を害したアルトが、この工房から出て行くことに怯えているのだ!
「貴様は何故、《術式製作》に夢中になる?」
「うーん。…………そうしないと超えられない壁があるから、でしょうか?」
そのとき、ふとアルトの目がどこかを見た。
それはここではない、どこか遠くの――遙かなる高み。
初めて見るアルトの目の色に、ネフィリルの身の毛がよだった。
一体彼は、どこに向かおうとしているのだ?
「壁を乗り越えないと、大切なものを守れませんから」
「…………ッ!」
「皆さんに迷惑を掛けてばかりで、すみません」
「いや、いい」
手を軽く上げて会話の終わりを告げる。
アルトの前から離れても、ネフィリルの寒気は収まらない。
『壁を乗り越えないと――守れない』
その言葉を発したときの、アルトの底知れぬ威圧感。
まるで幾万年生きた大木が、枯れた大地を肥やすために自らの意思で倒れゆくような……。
現世の肉体だけでなく、輪廻を繰り返す魂までもを捧げるような決意が満ちていた。
なのに剣呑さはなく、『守る』と言った彼の声は、何故か悲しげに掠れていた。
ネフィリルは、危うく悲鳴を上げるところだった。
それをぐっと飲み込むだけで、精一杯だった。
彼が垣間見せた心の片鱗が、ネフィリルをもってしても推し量ることができなかった。
いや、いままで停滞を続けて来たからこそ、判らないのか。
「まったくどうして、ゼマイティス様は恐ろしいものを我が目の前に送り出してきたのだ……」
気が付くと、心の激しい乾きが消えていることに気がついた。
「ああ、なるほど。工房の作業員も、このようにして心変わりさせられたのだな……」
体が震えるのと同時に、ネフィリルのむっつりしていたはずの口元がつり上がっていった。
ゼマイティス様は、間違ったことなど言っていなかった。
あんな奴が人間にいるとは、想像したこともなかった。
「人間がかくも面白いものだとは……」
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