一章 それぞれの思い

第116話 ルゥの分まで、生きようと決めた。

 ――長い永い、夢を見ていた気がする。


 ダグラと、その妻であるリベットはいつも仲睦まじい。

 時折ダグラがリベットにボコボコにされながらも、まるで我が子のように〝自分〟を扱ってくれる。


 その愛は、実の両親にも勝るとも劣らなかった。


 意識は途切れ途切れだったが、その時々の風景で、時間が猛烈な勢いで流れていることはわかった。

 ダグラとリベットの家で暮らすようになってから、あっという間に二年の月日が流れた。



 意識は時々浮き沈みを繰り返す。

 ダグラが自分に喋りかけていたと思えば、次の瞬間には外に居て、洗濯物を干すリベットを眺めていた。

 石けんの香りが風に舞って、それが心地良かった。


 また次の瞬間には、酔っ払ったダグラが家に転がり込む場面だった。

 ダグラのお酒の臭いに、鼻を摘まんだ。


 気づくと朝で、瞬きをすると夜になる。

〝自分〟の低すぎる意識レベルでは、ゆったりした時間さえ追い切れないのだ。


 ――この夫婦が注いでくれる沢山の愛情を、〝自分〟はこの先も、ずっとずっと、覚えていられるだろうか……。




 意識の調子が良い、ある日のことだった。

 洗濯物をしていたリベットに近づいたとき、何故か、猛烈に悲しくなった。


 リベットになにか言われたわけではない。

 琴線に触れたのは、彼女が手を入れている洗濯桶だ。


 その桶に浮かんだ大きなシャボンが、心を大きく抉った。

 にょんにょんと動くそれが、まるで■■のようだった。


(■■?)

(思い出せない)


 すごく大切なものだった。

 絶対に思い出さなきゃいけない気がした。

 なのに、どんなに考えても思い出せない。


 頑張れば頑張るほど、■■の記憶は遠ざかっていく。

〝自分〟は涙を流し、■■に『行かないで』と叫んだ。


「行かないで。

 いかないで。

 ■■、逝かないで!!」


 ■■は、自分を救うために死んだのだ。

 自分の代わりに犠牲になったのだ。


 ■ゥは、もう……いない。

 どこにも、いない。


 にょんにょん動いてくれることも、プルプル体を震わせることも、ゆらゆら揺れて誤魔化すこともしない。

 魔石を吐き出したり、肉を丸呑みしたり、飛び跳ねて喜ぶこともない。


(……ルゥ?)

(――ルゥ!)


 頭に名前が思い浮かんだ途端に、強烈な喪失感が襲った。

 わんわんと声を上げて泣き叫ぶと、リベットが太い腕で抱きしめてくれた。


 喪失感で、体が麻痺してしまったみたいだ。

 リベットから感じる温もりも、優しさも、感じない。


(大切な友達だったのに……)

(ルゥは死んだ)

(死んでしまったんだ)


(なのに〝自分〟は――ボクは)

(なんで生きているんだ?)


(なんで、死ななかったんだ……!!)




  □ □ □ □ □ ■ □ □ □ □ □




 アルトが意識を取り戻したのは、翌日のことだった。

 いままであやふやだった意識から靄が完全に消えた。


 頭の中が、ずいぶんすっきりしている。

 激しく泣いたせいか、目が少し腫れぼったい。


 体を起こしてリビングに向かうと、不安そうな表情をしたリベットが調理の手を止めた。

 既に食卓に座って朝食を待っているダグラの目の下には、大きなクマが出来ていた。


「おはよう。……その、大丈夫かい?」

「リベットさん、ダグラさん」

「な――!?」

「しゃべった!?」


 アルトが言葉を口にしたことは、2人にとってよほど大事件だったようだ。

 火に掛けた鍋が沸騰しているにも拘らず、リベットが口をあんぐり開けたまま固まった。ダグラは椅子から、大きな音を立てて立ち上がった。


「あの…………ありがとうございました」


 口にした途端に、2人が同時に泣き崩れた。

 リベットは顔に両手を当ててワンワンと声を上げ、ダグラはテーブルに突っ伏して肩を振るわせた。


 その様子を見て、アルトもつられて泣いてしまいそうになる。

 けれど、一緒に泣くことはできない。


 これからは、ルゥの分まで生きる。

 残り少ない人生だけれど、もう泣かないと決めたのだ。

 ルゥの分まで、笑顔でいようと、決めたのだ。

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