第86話 ハンナ育成計画5

 ハンナは、必死だった。

 折角知り合ったばかりのリオンが魔物に囲まれていて、殺されそうになっている。


 助けなきゃ……と思った。

 ただそれだけで短剣を振りまわし、ゴブリンの背中に傷を作る。

 けれどそれはためらい傷のように浅く、致命傷には至らない。


 あと一歩が、踏み込めない。


(なんで、魔物を倒すの?)

(魔物だって生きてるのに)

(人間の都合で、一方的に殺してしまって良いの?)


 ハンナは迷っていた。

 人間が……自分が、強くなりたい。

 ただそれだけのために、魔物を蹂躙して良いのだろうか? と……。


 事実として魔物は人間を襲う。

 実際に王都は何度も襲われたと聞くし、地方では毎日のように魔物に襲われて命を落としている。

 だから、魔物を倒さなければいけない理屈はわかる。


 しかし、だからといって、無闇に殺してはいけない気がしてしまう。


 命を奪ってはいけない。

 そんなお為ごかしを言うつもりはない。


 人間は絶対に命を奪う。

 けれどそれは、人間が生きるため、命を繋ぐためだ。


 殺された動物は解体され、それが口に入る。

 口に入れていた人間はいずれ地に還り、動物たちの口に入る。

 そこには命の輪がある。


 けれど、ゴブリンにはそれがない。

 ゴブリンの討伐は、フォルテミス神の説く正しい行いと言えるのだろうか?


 ゴブリンの命を奪うことは、人間が善と判断しているだけで、本当は人間の欲望を満たすだけの行為ではないのか?

 そんな思いが去来して、ハンナを押しとどめる。


 しかし、考えている暇はハンナに与えられなかった。

 いままで見えていたリオンの姿が、ゴブリンの中に完全に消えてしまった。


「り、リオンさん!」


 呼びかけても答えない。

 慌ててハンナは短剣を振るう。


 一撃、また一撃。

 足りない。

 前に進まない。

 ゴブリンが死なない。

 倒れない。


 不器用で、非力で、あと一歩が踏み出せない自分が情けない。

 ハンナの目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

 それでも、前へ。


 ハンナはもう、命について考えていなかった。

 リオンを救わなければ、という焦燥も、最後には消失した。


 あったのはただ一つ。


『――前へ』


 それだけだった。


 いままでにない手応えに気づいて、ハンナは我を取り戻した。


 そこには、自分が斬ったと思われるゴブリンが倒れていた。

 肩から斜めに入った傷が、脇腹へと抜けていた。


 ゴブリンの体が、ゆっくりと横にズレた。

 上と下とで、体が分離する。


 瞬間、目の前が緑に染まった。

 ゴブリンの血液だ。


「――――ッ!!」


 悲鳴を上げなかったのは、自力で押さえつけられたからではない。

 こんな光景を目にしていても、意識のどこかで『この血が口に入ったら嫌だな』と考えたからだ。


 息を止めて、血液が噴出し終えるのを待つ。

 吹き上がっていた血液が収まり、少しして、やっとハンナは呼吸を取り戻す。


 一度、二度。

 深く呼吸をする。

 呼吸が落ち着くと、現実がどっと押し寄せた。


(ボクは、命を奪ったんだ)


 突如、喉に熱いものがこみ上げた。


「うえ…………がはっ!」


 堪えきれず、ハンナは胃液を吐き出した。

 激しい吐き気に、膝が折れる。手をついて、胃の中を空っぽにする。

 少し落ち着いたころ、目の前のゴブリンの死体が目に入って、また吐いた。


 空っぽの胃をひっくり返して、それでも吐き気が止まらず、延々と嘔吐いた。


 ふと、背中の温もりに気づいた。

 いつの間にか傍にやってきていたアルトが、ハンナの背中をさすっていたのだ。

 その優しさが胸に染みこんでいく。

 アルトの手がなければ元に戻れない自分が悔しくて、ぼろぼろと涙をこぼす。


(ボクはなんで、こんなにも弱いんだろう……)



  □ □ □ □ □ ■ □ □ □ □ □



 ハンナがゴブリンを退治し、命を奪った不快感のために嘔吐した。

 アルトが背中をさすっているうちに、安心したのかそれともレベルアップの疲労感からか、ハンナは気を失ってしまった。


「モブ男さん。そろそろ良いですよ」


 声をかけると、突然ゴブリンがポンポンと空に打ち上がった。

 空を飛んだ40体のゴブリン達は、地面に落ちたまま立ち上がらない。

 それもそのはず。

 投げ飛ばされたすべてのゴブリンの首が、綺麗にへし折られていた。


「お疲れ様です」

「まったく。師匠って勇者使い荒いよな」

「すみませんね」


 嬉しい誤算だったのが、リオンの反応だ。


 当初リオンがゴブリンに囲まれたときは、さすがのアルトも唖然とした。

 だが彼はゴブリンごときに捕縛されるほど弱くない。

 彼の腕力はゴブリンの1000倍はあるのだ。

 ドラゴンが木造の柵をなぎ倒す如く、押しのけるくらい平気でやってのけられる力はある。


 だが、彼はそれをしなかった。


 ヘイトを上手く管理しつつ、泣き叫ぶことでハンナにゴブリン討伐を仕向けた。

 結果、アルトが想像していたよりも安全に、ハンナがゴブリンを倒すことができた。


 ルゥ生け贄大作戦が不発に終わってしまったけど、不発で良かったと言える結果が生まれた。

 すべてリオンのおかげである。


「ありがとうございます、リオンさん」

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