第73話 学園生活のはじまり

 D組のアルトについての噂は絶えない。

 学校の中で唯一の農民だとか、☆1の劣等者だとか、試験官に賄賂を送って合格点を貰ったとか。


 真偽は定かでは無い。

 しかし彼は噂が事実に思えるような、特徴のない人物だった。


 ハンナが出会う人物のほとんどは、優秀さが強く感じられた。存在感や、自信や、言葉では表せない独特の雰囲気が、表面に現れるのだ。


 しかしアルトからはなにも感じられなかった。

 まるで、自分と同じように、空虚だった。


 なのに彼は、息を潜めるわけでもなく、姿を隠すわけでもなく、自然体のまま学校生活を送っていた。


 気がつくと、ハンナは彼を目で追っていた。


(ちち、違う違う!)

(これはわたしとアルトくんの、何が違うのか知りたいからであって)

(別にす……好きだからとかそんなんじゃなくてっ!)


 自分と同じ雰囲気を持っているのに、自分とは生き方が全く異なっている。

 その違いがなんなのか、ハンナは気になった。


(わたしもあんな風に、堂々としていたい)


 ユーフォニアを代表する公爵家の娘が、底辺であるD組に在籍しているなど、とんでもないことだ。

 家に居ても外に出ても、

『カーネル家の子がねぇ……』

 そんな視線が怖くて、塞ぎ込んでしまう。


 もしアルトに尋ねれば、自分が求める答えが得られるかもしれない。

 他人にどう思われようと、堂々と生きて行けるかもしれない。


(い、一度声をかけてみようっ)


 ハンナは数日かけてなけなしの勇気をかき集め、アルトに話しかける決意を固めた。

 しかし、ハンナの行動は予期せぬ出来事で頓挫した。


 一学期の中頃。

 アルトが、いじめの的になった。



  □ □ □ □ □ ■ □ □ □ □ □



 マギカとリオンと三人で食事をしているとき、アルトは妙な気配を感じて立ち上がった。

 同時に、背後をなにかが通り抜けた。


「……あっ」


 通り抜けたのは、アツアツのシチューだった。

 器ごと飛んできたシチューがアルトを素通りし、地面に落下して器が割れた。


 シチューのしぶきをもろに被ったマギカが、恨みがましそうな視線をアルトに向けた。


(えっ、僕が悪いの!?_)

(いやいや、ここは犯人を睨むべきでしょ……)


 内心反論するも、アルトはこの結果を予期出来ていた。


 シチューが飛んでくることも。

 そして、その犯人も。


 それは、アルトが前世で同じ目に遭っていたからだ。

 前世でも、シチューが飛んで来た。


 とはいえ前世の経験がなくても、攻撃の兆候を《気配察知》で捕らえていた。

 それをマギカは怒っているのだ。


『分かっていたなら止めて欲しい』

 彼女の瞳から、そんな恨み節が聞こえてくる。


 しかし、彼女だって飛んでくる危険物を感知していたはずだ。

 それを避けなかったのは、アルトが止めてくれると信じていたからか、あるいは……。


(なるほど、そういうことか)


 彼女の意図に気付いたアルトは、大きな声を上げた。


「マギカ、大丈夫!?」


 少しわざとらしいが、おかげで食堂にいる生徒の視線がマギカに釘付けになった。


「……許さない」


 ぼそっと呟いたその一言で、生徒達が様々な反応を見せた。


「マギカちゃんに、なんてコトするの!?」

「酷いッ!!」


 同じ組に所属するものは彼女の身を案じた。

 犯人が許せないと声を荒げる。


「あれA組の特待生?」

「ちょっ、ヤバイんじゃないの!?」

「うわぁ。ご愁傷様だなあ」


 別の組に所属するものは、耳打ちし合っている。


 この攻撃を仕掛けた本人は、すでに顔が真っ青だ。


 皆、マギカが犯人を許さないと言ったのだと思っているようだ。

 しかしマギカの一言は、アルトに向けられたものだった。


 冷たい声色に冷たい汗を流しつつも、表情は平静を取り繕う。

 事態はアルトの目論見通りに進んでいる。


 入学してから少しすると、アルトを対象にしたいじめが始まった。

 それは足を引っかけたりわざとぶつかったり、机が悪戯書きされたり、上履きを盗まれたり。実に分かりやすいいじめだ。


 アルトが狙われた理由はもちろん、農民だからだ。

 貴族相手のいじめは、即政治問題に発展する。家と家の衝突だけではなく、国を巻き込んだ騒動になると分かっているため、子ども達も他の貴族には手を出さない。


 だが、アルトは違う。

 農民で、なんの後ろ盾もない。

 おまけに☆Ⅰとくれば、嘲笑の的。

 憂さ晴らしできる絶好の相手である。


 的にされたアルトは毎日毎日、陰湿な攻撃を受け続けた。

 ……いや、受ける必要がこれといってないので回避しつづけたのだが、回避すればするほど、いじめはどんどんエスカレートしていった。


 今日巻き起こった騒動のように、虐めッ子達のヤンチャ度はいまや、アツアツのシチューを平気でぶっかけてくるまでに成長していたのである。


「おいおまえ。黙ってねえで説明しろ!!」


 リオンが椅子を蹴飛ばした。妙なところで義侠心に厚い。


(てっきり『ップークスクス。おまえはシチューまみれがお似合いだな!』とでも言うかと思ったんだけど)


 どうやらアルトはまだ、彼女の善性について理解していなかったようだ。

 詰問された犯人の少年は、やっべ!というような表情をしたまま凍り付いている。


「…………」

「答えられねえのか? なら少し、口の滑りを良くしてやろうか」


 そう言ってリオンは腰に据えた剣の束に手を当てた。


 ヤバイヤバイ!!

 アルトは全力で移動し、いままさに抜かれようとした剣を力尽くで抑えた。


「師匠、止めんなよ」

「いいから、リオンさん。落ち着いて」


 アルトが宥めると、まだ怒気を発しながらも手を束から離す。


「……あっ、逃げた!」


 いまの悶着の間に、少年は素早く食堂から逃げ出したようだ。

 生存本能に従った結果だろう。さっきのリオンならば、下手すれば腕の一本くらい切り落としそうだった。


「マギカ。ハンカチで落ちそう?」

「……ん。服にちょっと跳ねただけだから」

「そう。じゃあこれ使って」


 ポケットからハンカチを取り出し、その中心を水魔術の水滴でちょっとだけ濡らした。

 マギカの被害が最小限で収まってよかった。


「じゃあ、食事に戻ろうか」

「じゃあ――じゃっないだろ! なんなんだよアレは!?」


 ずがーん、とリオンは力任せに机を叩いた。

 どこかでミシミシと嫌な音が聞こえる。


「リオン、ステイ」

「俺は犬じゃねえ!」

「いいから座りましょう。みんな怯えて食事ができませんから」


 根気強く宥めてようやく、リオンの怒気が収まりを見せる。


「……で? なんなんだあれは」

「いじめですねぇ」

「暢気なもんだな。いじめですねぇ、じゃないだろ。いじめられてるのって、マギカじゃないんだろ?」

「そうですね」

「ならなんでそんなに落ち着いてるんだよ」

「相手は貴族ですし。農民が一人いると憂さ晴らしになるんですよ」

「師匠は舐められても平気なのか?」

「所詮有象無象ですから」


 アルトが力を振るえば、相手が行動を起こす前に塵に出来る。

 無論、そんなことは天地がひっくり返っても実行しないが、攻撃を回避するなど、目を瞑っていたって行える。


 そんな相手に舐められたところで、アルトは痛くも痒くもない。

 その意図が伝わったか。しぶしぶといった様子でリオンが引き下がるのだった。

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