第72話 ハンナ・カーネル
ハンナ・カーネルは小さい体をさらに縮めて講堂を進む。
ハンナにとって、この学校に受かったことは奇跡だった。
カーネル家は由緒正しいユーフォニア王国の貴族である。
貴族とはいっても下級貴族である男爵から、上級貴族である公爵まで様々だ。
しかし、カーネル家は頂点――公爵としてユーフォニアに君臨している。
公爵としての地位にあるのは一重に、ユーフォニアを建国したときの一人であることと、それまでの当主が有能だったためだ……とハンナは考えている。
おそらく今後、近いうちにカーネル家は没落する。
その原因は間違いなく、自分になる。
カーネル家において、ハンナは歴代最低の人物と称されている。
父も祖父も、使用人ですらハンナを陰でこう呼んでいる。
『無能』、あるいは『無才』。
ハンナには、天賦がなかった。
最低限【格】は☆4と高かったが、それだけ。
天賦がないせいか、なにをしても上手くいかない。
両親は力の限りを尽くして有能な家庭教師を雇ったが、その誰もがハンナの力を見て匙を投げた。
『言いにくいことですが、わたしではどうにもなりませんでした……』
ある家庭教師は去り際に一言ハンナに言い残した。
『何故お前は生きていられるんだ?』
それは決して、生命を喜ぶ言葉ではない。
『自分がカーネル家に生まれてキミと同じ程度ならば、わたしは恥ずかしくて自殺しているだろう』という言葉だ。
そんなハンナが宮廷学校に合格できたのは、勉学に打ち込んで成績を残せたからでは、きっとない。
公爵であるカーネル家の子どもを落とすわけにはいかないという、政治的配慮があったためだ。
だからこそ、ハンナは怯えていた。
(こんな場所に、ボクが足を踏み入れて良いのかな?)
張りぼての自分が見破られたらどうしようかとか、カーネル家の汚点となるのではないかとか……。
ハンナは自分は空気と言い聞かせて授業を受け、実習を受けるつもりだった。
誰からも見えないように、息を殺して。
誰からも反論されないように、意見を殺して。
誰にも笑われないように、存在を殺して……。
肩を丸めたハンナがビクビクしながら辺りを見回したとき、ふと一人の生徒に目が留まった。
その瞬間だった、
(――ッ!?)
まるで、体に電撃が走ったような衝撃を受けた。
心臓がバクバク胸を叩き、体温がみるみる上がっていく。
呼吸が浅くなり、頭がふらふらした。
その生徒は、なんの変哲もない少年だった。
顔立ちは平凡だし、目立つような出で立ちをしているわけでもない。
だが、ハンナはその少年から目を離せなくなった。
かつて、寝物語を語る母が口にした言葉がある。
『良い? ハンナ。いつかアナタも運命の人に出会うわ。それも、予想もしないタイミングでね』
『運命の人って、どんな人?』
『運命の人は、まだわからないの。けど、出会った瞬間に、その人が運命の人なんだってわかるわ』
『わからないのに、わかるの?』
『ええ。けど、すぐにわかるわよ』
――その瞬間、世界が色づくから。
その当時だって、世界は色に満ちていた。
だからハンナは『変なの』としか思わなかった。
しかし実際にその時を迎えたハンナは、母の言葉に納得した。
そうして、ハンナは確信する。
(あの人が、ボクの運命の人なんだ……)
――1年D組 アルト。
その少年の胸章に書かれた名前を、ハンナは胸に刻み込むのだった。
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