第11話 冷たくて温かい生き物

 ふと、頬に冷たくて柔らかいものが当たっているのに気がついた。

 ひんやりしていて、すべすべしていて、とても心地良い。


(誰かが水嚢(すいのう)で顔を冷やしてくれているのかな?)


 アルトの予想は、しかし外れた。


「……ん?」


 瞼を開くと、頬の辺りに水色のプニプニした生物がいた。

 まるで水を固めたような体の中心に、紫色のコアが漂っている。


「……すら、いむ?」


 その生物の正体は、スライムだった。

 スライムは主に、森や水場に生息している魔物だ。


 魔物とはいっても、小さいうちは人間を攻撃する手段を持たない。

 スライムは水中のゴミや、虫、動物の死骸などを食べて生きている。その生態から、別名『掃除屋』とも呼ばれている。


 アルトの目の前にいるスライムは、まるでアルトを起こそうとするかのように、何度もぽよんぽよんと頬に体を当てている。


 しかし、目が覚めないと見るや、スライムはぽんぽん跳ねながら森の奥へと消えていった。


(なんだったんだろう……?)


 スライムは特段人なつこい生き物ではない。

 かといって、人に敵対してもいない。


 先ほどの体当たりは、攻撃行動ではないはずだ。スライムが人間に攻撃するといった話を、アルトは未だかつて耳にしたことがない。


「うーん……?」


 謎の行動に首を傾げつつ、アルトは身を起こそうとする。

 だが、


「ぐっ……!」


 成長痛が、体中を苛んだ。


 一度に大量にレベルが上昇すると、肉体の変化が痛みとして現われる。

 これが成長痛だ。

 通常であれば数秒で痛みは消える。


 アルトがどれほど気を失っていたかは不明だが、数秒ではないはずだ。

 かなりの時間成長痛が残るとなると、常識では考えられないほどレベルが上昇したはずだ。


「あぁ。どうしようかなあ」


 アルトは仰向けになり、空を見上げた。

 空の星の輝きを、眺めながらため息を吐く。


 体が痛くなくなるまで休憩していたい。

 だが、このまま休憩していると朝まで眠ってしまいそうだ。


 朝になれば村人が、この場に倒れているアルトを発見するだろうし、そうなればアルトは両親の元に引き戻されてしまう。


 アルトはこれから、レベリングをしながら自らを鍛えたいと考えている。

 猶予は七年あるが、七年あっても十分には届かない。


 世の中、自分だけが努力しているわけじゃない。

 誰だって、努力しながら生きている。

 ――あの黒衣の魔術士だってそうだ。


 皆が努力する中で、自分一人が抜きん出るためには、誰もやらない密度で、正しい努力をするしかない。


 正しい方法は、前世で既に学んでいる。

 今だって、正しい努力を実践している。


 ただ、実家に居たままの訓練は、成長効率に限界がある。


 アルトが正攻法で家を出ようとしても、一定の年齢になるまで両親は決して認めてはくれないだろう。それは、これまでの両親を見て確信している。


 両親は人一倍、アルトに愛情を注いでくれていた。


(ありがたいし、本当に恩返しをしたいとは思ってるけど……)


 ハンナを助けるためには、その愛情が足かせになってしまう。


 だから、アルトは誰にも悟られずにこの村を出る。

 そのはずだったのだが、体の痛みはちっともなくならない。


「どれくらいで痛みが消えるかなぁ……」


 アルトが大きくため息を吐いた時だった。

 森の中に戻っていたはずのスライムが、すりすりと這いずるようにして戻って来た。


 スライムの体が僅かに変形している。

 頭を指で強く押されているような形だ。


「ん? あれ、なんか持ってる?」


 目をこらすと、スライムの頭に、透明な液体が波打っているのが見えた。


「もしかして、水を運んでるのかな?」


 アルトは前世を含めて八十年近く生きてきた。その人生の中で、スライムを飼育したこともある。


 しかし、水を運ぶスライムというものを見たのは初めてのことだった。

 全身が水みたいな生物が水を運ぶなど、世にも珍しい光景である。


「一体なにがしたいんだろう……」


 スライムの行動に訝っている時だった。

 森の奥から音もなく、黒い物体が滑空してきた。


「モンスター!」


 音も無く忍び寄り、得物を狩る。

 静かな狩人――サイレントオウルだった。


「このままじゃ――くっ!!」


 即座に臨戦態勢を取ろうとするも、あまりの激痛に体が硬直する。

 ギリギリと奥歯を噛みながら、アルトは体を動かす。


 ゴブリンが持っていた短剣をたぐり寄せ、ゆっくりと立ち膝の姿勢になる。


 魔物は、弱っている相手を狙う習性がある。

 普段は人間に危害を加えない動物だって、相手が弱ったと見るや襲いかかってくる場合がある。


 サイレントオウルは決して強い魔物じゃない。

 アルトが元気だと見るや、引き返す可能性がある。


(来るなら、来い!)


 闘志を燃やしながら、アルトはオウルを待ち構える。

 現時点で、アルトの体は満足に動かない。


 オウルは戦って勝てない相手ではない。

 だが万が一がある。

 戦わずに去ってくれるのが一番だ。


 そんな願いが通じたか。

 アルトよりかなり手前で、オウルの高度ががくっと下がった。


「――ん?」


 どうも、オウルの狙いはアルトではなさそうだ。


(なら、一体何を――)


 考えたアルトは、すぐにその答えにたどり着いた。


 ――魔物は、弱い相手を狙う。


 オウルが狙っているのは、体を引きずりながら進む、水色の生物だった。


「――ッ!?」


 あのスライムが狙われている。

 それに気がつくとほぼ同時に、アルトの体は自然と動いていた。

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