第2話 鹿の親子

 ヒースはぼんやりと霞む視界の中、足を引き摺る様にして歩いていた。


 魔族達の追跡を避ける為、すぐに森の中に入った。だがそんなこちらの思惑など容易く見破られたのだろう、暫くすると建設現場方面の森から火の手が上がった。逃がすよりは殺してしまえなのだろう、森ごと焼き尽くそうとするその短絡的且つ効率的な選択にヒースの背筋が凍った。


 幸い今日はまだ体力は有り余っている。ヒースは炎とは反対方面に向かって走って逃げ続けた。だが思ったよりも火の勢いは激しく、どんどん距離が近くなっている気がした。まさか、燻しだして森から出たところをばっさりと斬られるのではないか、ヒースはそんな最悪な想像をしてしまった。そして奴らならやりかねない。反抗的だというだけで斬る様な奴らだ。


 であれば、このまま森の中を進むしか生き残るすべはなかった。段々と煙が近付いてき、目と喉が痛くなってきた。拙い、このままじゃ近い内に追いつかれる。焼け死ぬのは嫌だった。


 ヒースは更に走るスピードを上げた。森の中は先が見通せず走りにくいことこの上ないが、目の前にヒースの先を同じ様に逃げる鹿の親子を見つけてからは一気にスピードが上がった。鹿はまるで遥か先が見えているかの様にスイスイと進んでいたが、子鹿の歩みが遅い為母鹿が時折振り返りつつ待っていた。大人の鹿の足にはついていけないが、子鹿の速度ならヒースもついていくことが出来た。森のことは森の住民の方が絶対詳しい。ヒースは今はこの鹿の親子にすがることにした。


 もう周りは見ず、とにかく子鹿の後を追う。ゼエゼエと聞こえる音は自分の声だ。煙の所為もあるのか、喉がカラカラで唾を呑み込む時に喉が貼り付く。呑み込んだ唾はしょっぱかった。唇から垂れた汗が再びヒースの身体の中に戻っていった。


 どれ位そうして走っていただろうか。後ろはどれ位火が迫っているだろうか。確かめる為に振り返りたかったが、後ろを見た瞬間子鹿を見失ったらと思うと怖くて見れなかった。火のことは考えるな、ただ前を見ろ、ヒースは自分にそう言い聞かせる。すると火の存在の代わりに、先程ヒースの尻を蹴飛ばして逃してくれたジェフの最期の声が頭の中に蘇った。ブワッと涙が溢れてきた。駄目だ、今泣いたら駄目だ、鹿が見えなくなる。ヒースは必死で涙を堪えた。


 後で、助かったら後で思い切り泣こう。そうやって恩人を弔うのだ。ジェフが守ってくれた命をジェフを想って泣くことで捨てるのだけはやってはいけないことだ。


 苦しいが走り続ける。すると、前を走っていた子鹿が何かにつまずき転んでしまった。だが母鹿は後ろにヒースがいるからか警戒して近寄って来ようとしない。


 ヒースは一瞬だけ迷い、そして子鹿に駆け寄ると子鹿を持ち上げ立たせて小さな固い毛の背中をポンと押した。


「ほら、行けよ」


 子鹿は逃げる様に母鹿の元に走って行く。母鹿は再び前を向いて走り出した。子鹿も特にどこも怪我はなかった様だ。ヒースは安心した。もし怪我でもしてたら、抱いて走ろうかなんて思っていたからだ。


 ヒースはようやく背後を一瞬だが確認した。森の遥か先上空は赤黒く燻っているが、先程よりも大分遠い。このままのペースで進めばもしかしたら森を出ることなく助かるかもしれない。


 ヒースは再び鹿の親子を追い始めた。



 もう足が上がらない。それは子鹿も同じなのか、ヒース達はのろのろと歩いていた。すると、ヒースの耳に微かに水の流れる音が入ってきた。


「おい、川じゃないか?」


 鹿の親子に話しかける。勿論伝わる筈がないのは分かっていたが、誰かに話しかけたかった。一人じゃないと思いたかった。


 母鹿も水の音に気が付いたのだろう、いや、もしかしたら元々気付いていてここに向かっていたのかもしれない、ヒースと少し距離を置きつつも同じ方向に進みだした。ヒースはガサガサと背の低い灌木を掻き分けて先へと進むと、あった。小さいが川だ、水だ! ヒースはほっとして思わず足の力が抜けてしまい、それがヒースの命を救うこととなった。


 一歩先に進んだ母鹿が黒い大きな物に物凄い勢いで横倒しにされた。母鹿の叫び声は、すでに死にかけのものだった。


「え……」


 ヒースが目を凝らして見ると、黒い毛むくじゃらの動物が母鹿の首にしっかりと噛み付いていた。あれは魔物だ、目が真っ赤に輝いている。


 子鹿が呆然と突っ立ち、次いで母鹿に向かって鳴いた。母鹿の子鹿を見る目。そして母鹿はヒースを見た。ああ、なんてこった。


 ヒースはまた溢れそうになる涙を、ガクガクいう顎をきつく噛み締め、母鹿に頷いてみせた。伝わるかは分からないけど、でもちゃんと伝えよう。


「お前の子供は任せろ! ここまで連れてきてくれて……ありがとう!」


 ヒースはそう言うと、子鹿を抱いて走り出した。小川をジャブジャブと渡り反対側へと急ぐ。


 子鹿は母鹿を求めて悲しげに鳴く。泣きたいのはヒースも一緒だった。とうとう涙が出てきてしまった。両手が塞がってもう拭けない。


「頼む、泣くな、後で一緒に泣いてやるから! お前の母ちゃんが時間稼ぎしている間に逃げるんだよ!」


 これが火事場の馬鹿力というものなのだろう、先程まで上がらなかった足はまた勢いよく回転を始めた。ヒースは託された、だから逃げるんだ。こいつも一緒に絶対生き延びてみせる。


 口の中にどんどん入ってくる涙は、汗以上にしょっぱかった。


 そんな風に一体何時間走り続けたのだろうか。段々視界が暗くなり先が見えなくなってきたところで、ヒースは背が低いが葉がこんもりと生い茂る一本の木を見つけた。この下に隠れていれば、夜の間はやり過ごせるかもしれない。


 子鹿はもう抵抗しなかった。襲われた母鹿を目の前で見たのだ、幼くとも理解はしているのかもしれない。


「今日はここで寝よう。な?」


 ヒースは木の幹にもたれかかると子鹿を抱き寄せた。温かかった。温かくて涙が出てきた。子鹿がぺろりとそれを舐めた。



 空が白ばみ始めた頃、ヒースと子鹿は木の下からガサゴソと這い出して辺りを見回した。ヒース達が来た方向からはまだ黒い煙が上がっているのが見えたが、鎮火したのか遥か遠くにそれはあった。


「おい、助かったみたいだぞ」


 ヒースが子鹿に話しかけると、子鹿は可愛らしく首を傾げた。ヒースは子鹿の頭を撫でると歩き出した。子鹿は当然の様にヒースの後ろをちょこちょことついてくる。


「水飲みたいな、今日はそれを探そうか」


 子鹿は辺りに生えている葉っぱをバリバリ食べている。こいつに限っては飢えることはなさそうだ。どちらかというと飢える危険性があるのはヒースの方である。折角生き延びた命だ、出来れば目の前のこの子鹿を食べるなんて展開になる前に早めに食糧を確保しておきたかった。


 一人と一頭は煙と反対の方面へと進む。腹は減ったがぐっすり寝れて今日もまた歩けそうだった。昨日とは違い、多分もうヒースは追われていないに違いない。たかが奴隷の一人や二人逃したところであいつらは痛くも痒くもないのだ。森を焼いて方が付いたと思っているだろうし、火ももう落ち着いた。


 魔族に見つからない様にひっそりと逃げれば、この先ヒースは自由に生きられるのではないか。一晩泣いて泣いて泣きつくして、そう思えるようになった。


 それにしても喉が乾いた。時折野いちごが生っていたのでヒースはそれを摘みつつ歩を進めるが、この程度では腹は膨れないし喉の乾きも癒やされない。暫く進むと、低い崖の上に出た。眼下に広がるのはひたすら深い森。


 その崖下の森の一箇所から、小さな煙が立ち昇っているのが見えた。ここは西ダルタン連立王国の国土だ。ということは、こんな森の中に住んでいるとしたら――人間かもしれない!


 ヒースは嬉しくなって笑顔になった。


「おい、助かるかもしれないぞ!」


 人家があるということは水も食べ物もあるということだ。煙が上がっているなら中の人間は生きて生活している。助けを求めたら、一食分位はもしかしたら分けてくれるかもしれない。


 ヒースは崖を上から覗き込んでみたが、子鹿を抱えて降りるには少し急斜面だ。


「回り道を探……!」


 同じ様に覗き込んでいた子鹿の頭にヒースの頭がぶつかってしまい、子鹿がバランスを崩し宙に投げ出された。その潤々うるうるとした黒い瞳がヒースを見つめる。――絶対見捨てられない!


 ヒースは咄嗟に子鹿を腕の中に包み込むと、自分の足と背中を使って斜面を滑った。


「いってええええええ‼」


 岩に背中が擦れて熱を持つ。もう無理だ、そう思って半泣きで背中を少し浮かすと、あと少しという所で思い切りバランスを崩し地面に叩きつけられた!


「ぐふおっ!」


 それでも子鹿は死守した。反動で跳ね上がり、再度落下する勢いで思い切りよく後頭部を地面に打ち付けてしまい、目の前がどんどん白くなってくる。


 ジャリ、と何か近付いてくる音が耳に入ってきたが、段々と意識が遠のいてきた。


「こいつに手を出すな……!」


 それだけ絞り出して言うと、ヒースは意識を手放したのだった。

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