<50> 君が守ったUNKNOWN

『突然このような手紙を差し上げる非礼をお許しいただきたい。

 素性は明かせませんが私はとある貴族家の者です。

 貴女の本を手に取ったのは偶然です。母か兄嫁がダイニングに置き忘れた一冊をなぜ手に取ったのか。薔薇の描かれた表紙は明らかに女性向けで、普段指南書程度しか読まない私の好みに合致する要素など何もありませんでした。

 強いていうならば題名の文字に興味を覚えたのかもしれません。

 ともかく、私は貴女の本を手に取り、開いた。真ん中より少し手前のページを、読むつもりもあまりなく粗雑に開いたのです。

 目に入ってきた文字に、驚いて本を閉じました。

 私はどうやら女性の文字を読めないようなのです。幾人かの令嬢から頂戴した手紙に返事を書くどころか、まず手紙が読めない。女性の手書き文字に吐き気を覚え、内容を読み取ることができません。

 何か過去に心理的な衝撃を受けたことがあるのかもしれませんが、私自身の記憶にはなく、家族にとっても好ましい話ではなさそうな為、理由を知ることすらできません。


 貴族の婚姻に関する風習はご存知でしょうか。想いを手紙にしたため、三度交換するという風習で、正式な婚約は文を交わした後になります。つまり、文の交換なくして女性との婚姻は為せないというものです。

 私の絶望の幾らかはご理解していただけると存じます。少なくともこの恐怖症とも呼べる心の病を克服できない限り、妻を娶ることができない。生涯独身かもしれません。


 貴女の本も明らかに女性の手書き文字であり、閉じてすぐに吐き気を抑える為、口元を覆いました。しかし私は少しも気分に変化がないと気づいたのです。

 もう一度本を開きました。初めの、一行目。

『とんでもない裏切りだわ』

 いきなり詰られた私は怯みましたが、貴女の美しい文字、流麗な文字を一文字ずつゆっくりと舐めるように目の中に入れ、脳でじっくりと咀嚼いたしましても、気分は悪くならず、むしろ高揚してきたのです。


 もう一度本を閉じました。薔薇の表紙は最初に見た時よりも艶を持ち、芳香すら漂ってきます。涙が滲んできました。流れ出さないよう目を大きく開き、天を仰ぎました。シャンデリアはぼやけ、その水は頬を伝いました。私は、私の穢れで貴女の本を汚さないようにしっかりと胸に抱きました。

 貴女自身を掻き抱いているような感覚に震えました。

 それから時間を掛けて少しずつ貴女を理解しようと、毎日毎日貴女の手紙を拝見しています。


 貴女は恋愛巧者のフリをしたお嬢さん、もしかしたらまだ子どもかもしれない、段々とそう感じるようになりました。

 たとえば、エル夫人の振る舞いの変遷。気持ちが変われば相手への言葉や態度も変わります。機嫌や気分にもよるし、誰かが同席しているかにも依るでしょう。しかし時折相容れない感情の起伏が見られます。私は合理的な説明として、違う人物の行動と結論付けました。つまりは貴女自身の経験や価値観による創作ではなく、これが他者の経験、しかも複数の人物をモデルとしていると考え、いえ確信したのです。

 であるならば、巷間の噂のような幾人とも情を交わす女などではなく、真逆の純朴さを持った女性なのではないかと推察し、より一層貴女に惹かれるようになりました。


 貴女の文字のひとつひとつが艶かしく、私を幸せな夢に誘います。何度読み返しても飽きることはなく、ひと文字ひと文字に指を這わすだけで甘美な時間が過ごせます。

 しかし、少しだけ物足りなく感じるのです。エル夫人の哀しみ、怒りといった強い感情以外の慕情、哀切、秘めた焦燥も、貴女はその文章と文字により表現しているのかもしれませんが、私にはやはり児戯に等しく思え、例えば私が抱き締めて耳元で愛しいと囁けば、貴女の描く文字もまた愛を知った世界の眩しさを表す、そう変わっていくと思うのです。

 より一層貴女の文字は色艶を持ち、私以外の誰かをも虜にすると、考えたくはありませんが、きっと多くの人を魅了するでしょう。

 いつかそのような機会が持てたらと切に願いながら。


 貴女に心を救われた名もない男より』



 匿名といいつつ、なぜかアダン家の封蝋が押されたこの手紙を私より先に見つけて実家に報告したガラ社長(私が書いた手紙もすり替えて渡していた)が私の幸福に大きく寄与したことを付け加えてこの物語を終えようと思う。

 正直な話、この手紙を読んだのが婚約を了承したあとで良かった。

 念のため付け加えると、この手紙は一作目へのファンレター、つまり一通目だからね。ね。

 私の心臓が飛び出さずに済んだのは愛ゆえのことだろう。

 めでたしめでたし。

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