<39> 記念日は作るもの

 なんだか良いことがありそうな日。

 朝の目覚めはぱっちり、髪は寝癖なし、目玉焼きがきれいに焼けて、洗濯がよく乾くお天気。

 ワンピースの糊も丁度いい感じ、靴紐は一度で左右の長さがしっかり合って、階段を降りる音も軽やか。

 カフェ・ガルボに食材を届けるお兄さんと爽やかに挨拶して、道を歩いてもけつまずかない。

 こんな日は仕事もだいたい上手く運んで、いつもは遅れる作家さんの原稿はできていたし、本屋さんでは売れ行き順調で追加発注がかかった。出だし悪くて落ち込んでた別の作家さんに今度会う時にはいい報告ができそう。

 るんるん気分の帰り道、女の子が目の前で転んで泣き出しちゃった。助け起こしたら、お姉ちゃんありがとうって飴玉くれた。

 小さな手でポッケから取り出した飴玉、水玉模様の紙包みの小さな一粒。

 ほんの少しの善意で世界はこんなに楽しくなる。




 夕飯後に自室で新作の構想を練っていた。

 集中すれば聞こえなくなる周りの音が、今日はよく聞こえた。目を閉じれば外階段を上るあの足音まで。

 まるで知っていたみたいに。

 いや、ただ一週間ずっと。待っていたんだ。

 あんな風に別れの言葉を伝えたのは自分なのに、謝り方も分からずに悶々として。それなら最初からなかったことにしてしまおうと、忘れる努力と諦める決意をして。

 庶民のルリルーと一般騎士のロディさんでなければ叶わない願いを。

 『浮世の最後の思い出に』彼は私の元に遣わされて、思い出だけを抱き締めて生きていくのだと。

 ぜんぶ。

 無駄な努力と無駄な決意と。

 遠くからの足音だけで高揚してくる胸は、もう、誤魔化しなど利かなかった。



 とんとん。

 遠慮がちなノック。

 玄関を開ける社長の声も、入ってくる挨拶も聞こえているのに、扉の向こうで律儀に名乗る。

「ジルベール・・・ロディだけど、その、入っていいかな」

「どう、ぞ」

 緊張しすぎてつっかえた。

 喉がヤバイ。からからで。潤そうにもテーブル上のティーカップはすっからりん。

 私の頭もすっからりん。からんと何かが転がり落ちた。


 もう、いいんじゃないかな、我慢しなくても。明日どこでどうしろと命じられてもノーと言えない身の上ならば、自由恋愛なんて嘯いて一夜のカンケイでも好きな人と好きにすれば。

 何年か前に夜を過ごした女性の中にはきっとジルベールを本当に愛した人もいたんだろう。だけど、私たちにはどうしようもないから。昔よりも緩くなったとはいえ、家の為の婚姻関係が普通のことで、幾つかの中から選ぶことができれば、それだけでラッキーで。一晩の思い出を支えにその後の人生を送れるのなら、何も悪いことなんてないじゃない。


 私は。


 愛する人に愛していると言いたい。

 その先に道がないのだとしても。

 好きになったのだから仕方ないじゃない。

 今日という日が新しい私の記念日なんて流行遅れでも。

 そんな積もりはないと迷惑がられても。

 そうしよう。そう、するんだ。



 かちゃり扉は開いて、ロディさんが入ってきた。手にはケーキの箱を持って、笑おうとして失敗した泣きそうな顔で。

 ぎゅっと胸を掴まれる。そんな顔じゃない。私が見たいのはそんな顔じゃない。

 ゆるんゆるんのどうしようもなくダラシない貴方の笑顔が見たいから。

 他愛ない話をすれば緊張も解れるかな、お互いに。

 ごくり唾を飲み込んでカラカラ喉を叱咤した。


「あの・・・あの、そう、今日っきょう、仕事の帰り道に女の子と出会って。とっても可愛らしい子、髪を二つに結んだ五つくらいの子で」

 視線も合わせずに上擦った声で突然話し出しておかしいと思われていないかな。

 焦って余計に喉が。

 そうそう、その飴玉が。

「目の前で転んじゃったの。ばたんって、大丈夫?って起こしてあげたら、ありがとうって。キチンとお礼言えるの、えらいですよね」

 動悸がどきどきもう何話しているかも分からない。

 ごそごそポケットもらった飴玉取り出して、テーブル下で包み解いた。

「そ、それでね?お礼にって、飴玉もらったんですよ。可愛いでしょう?」


 カラカラ喉に潤い足したくて、指で挟んだ飴玉見せてすぐ、口に放り込む。

 眉間に皺を寄せて開こうとした口をぎゆっと閉じたロディさんが、ケーキの箱を落として見えなくなった。


「え?にが・・・がっ」

 素早い動きで背後に廻ったロディさんに肩甲骨の真ん中辺りを殴られ、飴玉は飛び出す。苦味は消えない。

 なに、これ、息が、おかしい。

「くる・・・し」

「ルリっ、水を、ゆっくり飲むんだっッガラさんっガラっ!!」

 指先を私の口に含ませる。じわりと魔法で作られた水が広がる。

「がはっごはっ」

「無理かっッくそっ」

 

 喉が詰まって飲むことはできない。

 私を抱き上げたロディさんが怒鳴りながら動く。揺れも温かさも遠ざかり、意識が薄れる。

 いやだ・・・。

 こんな別れ方は嫌だと。せめて伝えたくて。口を開こうと。

 言葉を発することができたのかも分からずに、心臓は動きを止める。

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