<37> 聞かぬが花とは真理なりけり
「ええと、帰ります」
フェリシー・バルニエ子爵令嬢は、私が青いドレスに着替えるまで側にいてくれた。
それから侍女さんが執事さんを呼んでくれて、玄関まで送ってくれた。
玄関ではロディさんが待っていて、馬車も待機してくれていた。ロディさんの手を取らずにスタスタ馬車に乗り込んだ。
ええと。何しに来たんだっけ。
頭がこんなに回らないの、久し振りだな。
少しずつ靄が晴れていった子どもの頃の。
靄が濃くて濃くて、微かにオバちゃんの声だけが聞こえた日みたいだ。
色が違うコトに気付いて、外から隠されているコトに気付いて。
気付いていたのに気付いてしまった事実を頼りない薄膜で覆って過ごしていたのに。
『よその子が混じっているよ』
ふんわりとした否定が、形をもった肯定に破られたとき、私の心は一度壊れかけた。
どちらかの不貞行為の末に産まれた子か、それともよそから迎えられた子か。
前者ならば裏切りの証である私の存在価値が裏切った者に楔を打ち続けることにあるという恐怖、後者ならば家族と思っていた大切な人たちの誰とも血の繋がりがないという恐怖。
同じ問いがぐるぐると回り続け、誰の声も聞こえなくなった。
いや、考え続けて本当に壊れてしまうから、思考と心を閉ざしたのかもしれない。
料理人のオバちゃんの声だけが聞こえて、オバちゃんが食べさせてくれるものが私を生かした。
二年。
六歳から八歳までの記憶がほとんどない。
八歳になったある日、自分の呟きが自分の耳に届いた。たぶん二年間、私は私の声を聞いたことがなく、それが自分の声だと認識するのに時間がかかった。
『街を、見たい』
なんでこんなことを思い出したんだろう。
なんでこんなにも苦しいんだろう。
目を開いているつもりが何も見えなくて、必死に吸っている空気はちっとも肺まで届かない。
きっと溺れているんだ。
深い深い湖の中。沈んで沈んでどこまでも沈む。
底はまだ?
足はつくのかな。立って歩けるのなら、一番下まで行ってしまってもいいのかもしれない。だけどその前に。
息は続かなくて身体に残る最後の空気をごぽごぽ吐き出して、その塊が上に上に揺れながら昇っていくのを緩やかに沈降しながら私の心が見送る。目も耳も手指の感覚もすでにぜんぶ失われて、意思とか精神とか魂とか、そういう根拠を欠いた概念的なものだけが見送って、やがてそれすら失って軽くなった身体は逆に浮上に転じる。
ぜんぶ失ってやっと。
水面に浮かぶことができる。
「・・・り、るり・・・」
低い声が呼ぶ。
必死に。
聞きたいけれど聞きたくない声。
身体を痺れさせる甘やかだけれど、心の平穏を脅かす毒に似た声。
あなたは。
「何のために近づいたの?」
固く握られた右手を振りほどく。
馬車の中、隣の席に座って、私の手を握って呼びかけていた金髪の男。
社交界の有名人、名うてのプレイボーイ。
恋愛遊戯のプロフェッショナル。
正式に騎士団に所属してから顔を出すようになった夜会で、後腐れなくアソべる女性を探しては夜の街に消えていったとか。
『浮世の最後の思い出に、と女性の方から寄ってくるのですって』
貴族も若いうちは自由恋愛のご時世、婚姻に純潔は必要ないとはいえ、地方領主に嫁ぐ前に他の男とカンケイを持ちたいという気持ちは分からないし、それを受け入れる側もやっぱり分からない。
深読みすればそう読める物語を書いた私がいうのもおかしいが。
『それも二年前までの話で、今は夜会自体に参加していなかったそうだから、今日のご令嬢たちが浮き足立つのも仕方ないのですよ』
「ルリ、俺は・・・」
普通の女なら、可愛い女なら、とんでもない裏切りだと縋って詰って泣いて、言い訳をさせてまた腕に抱かれて誤魔化されるのだろうか。
そうじゃない。
出会う前の出来事まで裏切りと言ったら、聖人だって悪人に堕ちる。産まれておぎゃぁと泣いた瞬間に空気を震わせて、私たちは世界を汚している。生命は生命を奪い、悪意をばら撒き、そして美しい世界を夢見る。
違う違う。そんな大層な話でもない。
ただの。
「あなたと居たって苦しいばかりで、ちっとも。ちっとも楽しくなんてないっ」
馬車はもう、カフェ・ガルボの前に着いていた。
私は彼を押しのけて、内側から扉を開けた。
「サヨナラ、嘘つき」
素性を偽っているのは自分も同じだというのに、男の嘲りや女の嗤いやふしだらな想像への苛立ちすべてをロディさんのせいにして、私は走り去った。
心臓が動いていようが止まっていようが、もはやどちらでも構わなかった。
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