<35> 踏まれて蹴られてじゃじゃじ
「お嬢さん、こちらをどうぞ」
銀色の髪と碧の眼を持つ爽やかな雰囲気の青年が近づいてきた。ロディさんには劣るがそこそこの男前だ。
男からシャンパングラスを受け取る。飲むつもりがなくとも、挨拶代わりに差し出した飲み物を受け取るのは礼儀というやつだ。
金色の液体からぷくりぷくりと泡が上る。液体越しに見た男の目が細まる。
「可愛らしいお嬢さん、アダン次期侯爵令息とはどこで?」
「・・・あ、こちら、交換してください」
男の問いかけを無視し、通りがかった給仕にグラスの交換をお願いした。
名乗りもしない人物と話すなんてゴメンだ。庶民だと高をくくって礼を失した者の相手をする必要などない。
ありがとう、と給仕には礼を言い、探していた人物の方に歩き出す。私たちの後からも十人ほど参加者が増えて、その中に件の評論家もいた。
さっさと用事を済ませて帰ろう。ここは不躾な視線が多すぎる。
「あの・・・」
「・・・いやぁ参りましたな。あれは貴族女性が書いたという噂を聞いて」
少し距離があったからか声が小さかったからか、評論家ロベルリーニさんは私には気付かなかった。
「ほぉ。『エル夫人』があなたの後押しで売れたとは皆の一致した見解だと思うのですが、意図したことではなかったと?」
「あの金のかかった印刷を見れば、どこぞの貴族女性の恋文を自費でも良いから世に出したかったのだと思うでしょう?実際私も流麗な文字で印刷された本を見て、貴族の道楽だと思ったのですよ。ここだけの話、ちょっと困ってましてね。貴族と懇意になれればと、評価を盛ったんですよ」
「それで貴族からの連絡はありましたかな?」
「一切ありませんな」
あっはっはっはっ、と二人して大笑いだ。
「おや、お嬢さんは・・・何かご用かな?」
ロベルリーニさんと話していた壮年の男性が私に気付いた。評論家も振り返って、知らない顔に首を傾げた。
私が考えていたような方でなかったとしても、お礼をいいたかった気持ちはまた別の問題だ。ロベルリーニさんのおかげで日の目を見た、他の意図があれど、その事実が重要で。
だから笑顔で淑女の礼を取った。
「私、ムールス出版でエルの担当をしています、ルリルーと申します。以前よりロベルリーニさんに一度お礼を申し上げたいと考えておりまして、本日アダン様のご厚意によりこの場に参加させていただきました」
ふたりは少し気まずそうな顔をし、壮年男性は知り合いに呼ばれたという風で立ち去った。
「君は、その、話を聞いて・・・」
「キッカケをいただいた事実は変わりませんし、少なくとも内容を読まずに書かれた評論ではありませんでした。私どもに機会をいただけた、そのことに関してのお礼だと受け取ってください。では、失礼いたします」
もう一度礼を取り、反転した。
言いたいことだけ言うのは礼儀としてよくないが、言い訳を求めているワケでも、困った顔を眺めたいワケでもないのだから、さっさと退散するのが正解だと思う。
しかし、振り返って一歩踏み出してすぐ、誰かとぶつかった。グラスの液体がドレスにかかる。じわり広がる染み。濃青色は濡れても紺にはならなかった。
「あぁ、ゴメンなさい。地味なんで見えなかったわ」
三十人以上いるとはいえ、この広間で他人にぶつかるなんて、よほどお話に夢中になっているか故意かの二択で、まず後者だろう。
貴族らしい金や銀の髪色をした女性が三人、にやにやとこちらを見る。
「可哀想にねぇ、オモチャにされて。ジルベール様も罪作りよね」
「まさか侯爵家の方が庶民を本気で相手にしているなんて思ってないわよね?」
「あ、ハイ、もちろんもちろん。そうですよね」
だから困ってるんですよ、でも下着にまで染みてきたんで退席していいですかね。
「あなたたち、分を弁えなさい」
硬質で耳障りな嗤いを立てる女性たちの背後から、凛と澄んだ声が響いた。
広間中の視線を受けて動じないその女性は、ほかの女たちと明らかに異なるデザインのドレスを纏っていた。流行はこの方の後ろにできるのだから当然だ。
「ルリっ」
大股でやってきたロディさんを制して、女性は名乗った。
「フェリシー・バルニエでございます。他のお客さまの粗相は、ホストである私どもの責でございます。どうか替えのドレスのご用意をさせてくださいませ」
そういって、広間の外へ案内した。
涼やかで毅然とした姿に、私の心臓は近しい人を思い出していた。
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