<34> 夜の蝶は葉陰で寝てろ

 本日の夜会の主催者バルニエ子爵は旺盛な活力と明るい人柄で、高位貴族から聖職者、庶民の文化人まで、非常に顔の広い人物だ。自家の商売のために始めた夜会も、今や人脈を広げるための格好の場として参加希望者が引きも切らない。

 さらにファッションリーダーである子爵令嬢の着るドレスは話題になり、すぐに同種の品が売り切れるため、ご令嬢たちから貴婦人までもがやはり列を為すという。



「いってらっしゃいませ」

 差し出された手を取り、馬車を降りた。同乗していた護衛に見送られる。

 ジル、馬車の中でそう呼ぶように言った金髪の貴公子は、ん、と右ヒジを出した。指か腕を絡めて歩く。パートナーなのだから当然だ。

 自分の小さな手を見て、ロディさんの三角に折り曲げた肘を見て、燕尾服越しでも逞しい腕を見て、また自分のちゃちぃ手を見た。

 やっぱり持たなくちゃいけませんかねぇ?と伺って見上げた穏やかな青い目は緩んで、頬に小さな窪みができた。

「ルリのペースでいいんだけど・・・ほかの方も来られるから、逆に目立っちゃうよ?」

「は、ハイ」

 慌てて袖を掴む。

 ふふと笑ってロディさんは左手で私の左手を包み、自分の方に引き寄せた。

 それじゃ皺になっちゃうだろう?といってしっかりと腕と腕を絡ませ、ほとんど密着してから歩き出す。



 玄関ホールの正面にある階段を上ると広間があった。

 すでに二十人ほどの着飾った男女がグラス片手に談笑している。男性貴族主催の社交場に女性だけで来ることはできないため男性の方が多い。これには女性側のメリットもあって、男性は身元がハッキリしている招待客しか来られないが、女性はその連れであれば誰でも来ることができる。招待客が身元保証人ということだから、おかしな女性を連れてくれば男性客の品位、評判に関わるのだが。


 広間の端の方に置かれたソファに座る者は誰もおらず、暗色の燕尾服の男性たちと華やかなドレス姿の女性たちがいくつかの固まりになり、立ったまま話している。その間を色とりどりの酒が入ったグラスを盆に載せた給仕が、ゆったりと抜け目ない様子で行き来している。

 二三人の束が一番多いが、中央辺りに六人ほどが集まり、恰幅の良い中年男性が輪の中心となっていた。


「アダン侯爵家、ジルベール様ご到着です」

 執事の紹介に、皆の視線が集まる。

 ほぉと感嘆の声とともに、厳しい視線が刺さる。

 ホストであるバルニエ子爵、中年男性が輪を抜けてこちらに歩んできた。

「ジルベール様、ようこそおいでくださいました。社交からめっきり遠ざかっておられましたが、我が家の夜会を端緒に戻られるとは光栄です。して、そちらのお連れさまは?」

「彼女は私の大切な方で、ルリルーといいます。ムールス出版社の編集者です」

「あぁ、あの『エル夫人』の。いや、しかし・・・」

「何か?」

「いえ、多少の齟齬のある言葉を耳にするかもしれないと。まぁ、気になさらないでくださいな、では」


 弱小出版社の名まで知っている商売人らしい面を見せたかと思うと、歯切れの悪い言葉を残して次の来客の方に移った。

 子爵が退いたのを待ち構えていた若い男性が入れ替わりに声を掛けてきた。


「ジルベール、久し振りじゃないか。しかし」

 苦笑交じりに私を見ると、ロディさんの肩を抱いて連れて行く。組んでいた腕はするり解けた。


「お前、しばらく大人しくしてたと思ったら、なんで庶民のコなんかに手を出してるんだ?止めとけよ、後々面倒だぞ。見るからにウブなコじゃないか」

ちらちら見ながら話すの、ぜんぶ聞こえているっていうか聞かせてるよね。

「一晩の相手ならいくらでも都合付けてやるぞ?何なら今日だって」

「いや、そういうんじゃないから・・・」

「アダン様、お初にお目にかかります」

 パートナーを置いてきた女性陣が参戦してきた。もちろん目の笑っていない笑みをこちらに向けて牽制するのを忘れない。

 

こちらで一緒に飲みましょうと、先に声を掛けた男性を押しのけて両側からロディさんの腕を掴んで連れて行く。男性はロディさんの背を叩いて、ついていく。

 振り返るロディさんに小さく手を振る。ひとりで壁際のソファまで行くと、背もたれに軽く腰掛けた。

 私の心臓はチクリとも痛まなかった。

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