<32> 我を忘れてトリ頭
「ルリっルリっ」
先ほどの騒ぎで外に避難したお客さんが開け放した髪結い屋さんの入り口から、私の恐怖も後悔も遠くへ消し去る声が聞こえた。
目の奥にまだちらつく尖った先端に喉は締め付けられて苦味が上り、安堵よりも恐怖が、軽々しく動く舌への後悔が、頭のほとんどを占めていたその時に。
どれだけ救いたいんだ。
私を。
必死に名を呼ぶその声は、私の救いで、抱いてはいけない希望そのもの。
だけど。
例えお芝居だとしても、私のこれからにいるはずのない人でも。
今、あなたの温かくて優しくて逞しい腕に包まれることができるのならば。
水の膜が光を屈折させて焦点がぼやける。
ほとんど目の端からはみ出しかけた水分は、しかし、声の主の姿が見えたとき、すぅと引っ込んだ。
「ルリっあぁあ、無事でっいや、なんて可愛いっ髪が、あぁなんてっ」
私を確認するとなしに駆け寄って、ぎゅうと抱きすくめる腕は間違いなくいつもの感触で。耳元で感嘆を吐く声音も、その吐息の揺らぎも、髪を撫でる少し硬い大きな手も。
目を瞑っているか、もしくは、どこまでも高く広い空の色をした瞳だけを見ていれば。
間違いなく、ロディさんだった。
着ているのが騎士服でなく、髪色が金でなければ、彼は確かに私の貴公子だった。
「お前、バカだろ。いやスマン、知ってた」
駆けつけた警吏に、こちらでお待ちくださいと事務室に案内された。ほかのお客さんや髪結いさんとは別で、部屋には私と金髪の貴公子と担当してくれた髪結いさんだけしかいない。担当さんは扉のすぐ側で扉の方を見て立っている。できるだけこちらを目に入れないように気遣って。
どんどんと、ノックというには乱暴に扉が叩かれた。
担当さんが開けて、一礼する。
入室してきたのは、紫色に光る金髪の青年、先日印刷所で出会った公爵令息だった。お供に騎士二人を連れている。
開口一番、金髪の貴公子を貶した口の悪さはとても王弟令息に相応しくなかったが、私も賛意を表明したい。
何しろ金髪の貴公子ときたら、膝の上に女性を置いてぎゅうぎゅうに抱き締めているのだから。
時折り手を離さずに体だけを遠ざけてカットしたての髪型を観察したり、耳元で甘い吐息混じりの安堵の呟きを漏らしたり、身じろぎで顔に掛かった髪を耳に掛けて顔をよく見せてなんて囁いたり、その耳につけているイヤーカフを弄ってみたりと、視線と吐息と指先で女性の耳を真っ赤に湯掻いている。まあ耳だけじゃなくてもう全身が茹でダコ状態なんですけれど。
そう、金髪の貴公子ジルベール・アダンが膝の上に乗せているのは何を隠そう私だ。
もう一度いう。
私を抱っこして焼き海老もかくやという色合いに染めているのは、断じて黒髪の男ではない。もちろん窓から覗いているときから金髪だった。
「だって。ルリが心配だったから」
あまりの恥ずかしさに膝から降りようとする私を阻止したロディさんカッコ仮は私の首筋に鼻先を埋めて、拗ねたようにいった。
衣服の中にまで温かい息が通るから、金輪際その姿勢で喋るなとその鼻先に人差し指を突きつけたい所存。
今は抱き締める腕も胸も暖かくて心地よくて力が抜けてるからそんなコトとてもじゃないけどできやしないって少しだけ震えたらふふって笑って柔らかいモノを押し付けられた気がしたんだけどこれは断じて気のせい。
「それが魔導具もなしに飛び込んだ理由になるかっ」
「どうせ分かってたんだから同じだって。髪色だけで誤魔化される俺のルリじゃない」
「後付けの言い訳だろうがっ。衆目に晒すなどっ。まだ整っていないんだぞ」
口応えを許さない主人のプライドか、慮るゆえの怒りか。王家に連なる年若い男は拳を振り上げる勢いでいう。
ロディさんはゆるゆると動かした顔だけをはっきりとそちらに向けた。
「今日喪われれば明日の心配などできない。俺にできるのは守ることだけなんだ」
声音は胸を締め付けるほどに切なく、けれど眼差しと同じく澄み切っていて。
室内だというのに私の心臓はどこまでも高く遠く吸い込まれていった。
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