<30> 髪切ったら失恋とかいうヤツ
「どれくらいの長さに切られますか?」
「えーと、肩に付くくらいで」
今日も繁盛している髪結い屋さんは予約に来た時と同じように、待合で三人の奥様方がコーヒー飲みながらちらちらとカッティングしているイケメンを眺めている。
あの方たちは予約が取れないんじゃなくて、取らずに来店してタップリと眺めていたいんだろう。
落ち着きなくソワソワしている人は目当てのイケメンが休みなのかな。
カッティングルームには大きな鏡と、背もたれは低めだが座り心地の良さそうな革張りの椅子が、壁に沿って三つずつ置かれている。後ろの座席と鏡越しに目が合わないように、間隔を開けた三つと背面の三つはずらして置いてある。そんな心配は要らないほど部屋自体が広いけど。
六つある席のうち四つはすでに埋まっていて、妙齢の女性一人とマダム三人が、髪結いさんと談笑しながらカットやセットを施してもらっている。
イケメンの白い歯と煌めいた笑顔にめろめろの様に、なるほどこれが付加価値というヤツかと非常に感心する。
商売をする事になったらぜひとも導入したい。
イケメンを横目にカウンターまで進んで受付を済ます。金髪ぱつぱつショートカットの方が本日の担当ですと挨拶をくれ、空いている一番奥の席に案内された。その奥は壁一面に腰高の出窓があり、薄いカーテンの向こうにぼんやりと隣の建物の壁が見える。
ロディさんには負けるけれど、とっても整った顔の担当さんは特殊加工のカバーを着せてくれて、それから長さを聞いてくれた。
「え?そんなに切られるんですか?」
下ろせば腰近くまである髪を一度に切るからだろう。相手の驚きに、鏡越しに笑んだ。
「すっきりしたくて」
私の眼鏡を受け取って、凝った彫刻の木箱に入れながら担当さんは言う。
「人間関係の清算ですか、なーんて聞くのもヤボですね」
言ってますやん。
髪切ると失恋ってのは何だろうな。でもあながち間違ってもいないのがツライ。
生まれついて中途半端な者はどこまで行っても中途半端で、未練たらしく髪だけは長く保ってた。迎えが来るのを待っていたのだろうか。さっさと切ってれば良かった。眼鏡の代わりに耳を挟んだイヤーカフが少し痛んだ。
ぱちり。パサリ。ぱちり。パサリ。
ある程度短くしてから整えますね、とやはり鏡越しに笑いかけてから、担当さんはハサミを持った。
肩甲骨の少し上あたりを一気に切り進む。ぱちりと音がする度に頭が軽くなって、首も肩も、何より凝り固まった因習から解き放たれる。
ふふふと、笑みが溢れた。心の底から楽しい。
担当さんの手さばきも、切られた髪がするするとカバーを滑るさまも、鏡越しにちらり見える斜め後ろの髪結いさんの姿も。
嬉しそうな私に、担当さんはハサミを振るう手を止めずに話しかけた。
「たかが髪、されど髪。しがらみは意外と簡単に取り除けるものかもしれませんね」
「本当に。今まで思い至らなかったコトが不思議で」
近辺のお洒落カフェ情報など、他愛ない会話を交わしながらざっくり切り終えた担当さんは、こちらサービスで洗浄してるんです、と眼鏡入れを持った。
少々お待ち下さいね、と和やかに立ち去る。
切ってもらっているうちは動けないから、ここぞとばかり首を左右に振る。
軽やかな髪が頬を打つ。長いときはできなかった芸当。なんだこれ、超楽しい。
ぺしんぺしんぺしんぺしんぺしんついでにぺしん。
しかし私は常識人なので、ひとりで首を振り続けていれば周りの目がカワイソウな感じに変わっていくの知っている。このあたりでやめておくか、と窓の方を見て止まったとき、いや、カワイソウな目で見られてるのが怖くて他のお客さんや髪結いさんのいる方を見られなかったわけじゃないからね、そこら辺は誤解なきよう。とにかく、窓の方を見た。その時に、だ。
薄いカーテンに透けた向こう側からふたつの瞳が覗いていた。
え、とぱちぱち瞬きすると、その青い瞳もぱちぱち瞬きして。
なんだか見てはいけないモノを見た気がしたから、鏡の方に向き直った。そっと角度を変えて周りを伺うが、誰も何もいわない処をみると、錯覚だったのだろう。そうに違いない。
目を閉じて一度深呼吸して、もう一度そちらに視線だけをやったが、今度は何も見えなかった。
私の心臓は胸を撫で下ろした。
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