<20> この封蝋が目に入らぬか

「しゃぁせぇ〜〜」

 午後の気怠い八百屋の声で店員さんが迎えてくれるいつもの文具屋さん。

 契約作家さんの原稿は受け取れず、手ぶらだから寄り道可能の午後のオシゴト。





 今朝はいつもより早くベッドで目覚めて、あぁよく寝たぁ爽快そうかいと転がったまま伸びをして、あれなんで普段着で寝てるんだろう、寝る時はワンピースの夜着なのに、着替えてないって疲れてたんだなぁはははは、は?

 ガバリ飛び起きると、すでに朝食の準備をしているキッチンの社長のところへ走り寄る。

『しゃしゃっしゃしゃしゃしゃしゃちょうぉおお』

『あら、おはようルリルーちゃん。昨日はよく眠れて?』

『あ、あの、あの、ろろろろ』

『落ち着いて。ね?』


 落ち着いてといわれると落ち着いていないことが自覚させられて、なぜにこんなに焦っているのかと脳味噌にちょびっとだけできた隙間、夕飯を食べた後にデザートあるよっていわれた瞬間にできる隙間みたいな隙間に、理由っぽいものを考えるでもなく思うでもなくもっとふわっとしたイメージが湧いた。

 ただただ青かった。


『ちょっと・・・な、なんで』

 顔を覆ってうずくまる。汗が噴き出す。

 どどどどどと、口を開けば辺り一面、建物の外にまで響いていきそうな胸の地鳴り。


『ルリルーちゃん?まさか、何かっ』

『ち、違いますったぶん、何もそんな、そんな訳ないですし』

『あの男・・・命が惜しくないのね・・・』

『社長おぉ、ホントに何もないんですよっただ』

『ただ?』

『っ、ベッドに移してくれたのって・・・』

『私じゃないから、あの男』

『ね、寝顔を、そんな無防備な。いくらなんでも、私・・・ってアレ?』

 そういやお洒落カフェで倒れたし、この間もおでこに負けて倒れたな。今さらか。

すくっと立ち上がった。


『ルリルーちゃんのその立ち直りの速さ、とってもいいけど、とっても残念ね』

『なんかエコー姐さんみたいな物言い止めてくださいね。はぁ、顔洗ってくるっ』

 そんなこんなで。

 さすがに男性と二人きりなのに眠ってしまうなんてマズイとは思ったけど、そんなカンケイでもあるまいし、隣室には社長もいるのに何かの間違いがあるはずもないし。

 そうだ、焦って損した。うん、でももう少し気を付けよう。睡眠負債を貯めちゃダメだね。





 さて、文具屋さん。

 インクが切れたから寄ったのだけど、新しいペンも買おうかなぁ、可愛いのたくさんあって迷うなぁ。

 あ、便せんと封筒、ここってこんなに種類があったんだ。手紙は書かないから持ってなかったけど、幾つか欲しいなぁ。え?眺める用ですけど、何か?


「こちら、今月入荷したばかりで。小花柄が可愛いですよねっお勧めです」

 いつの間にか背後に忍び寄っていた店員さんがさらりと紹介してくれるの、びくってなった。今どきの女性店員さんは隠密修行もこなしているとかいないとか。


「彼氏さんとのやりとりなら、こちら絶対お勧めですけど、こっちの動物柄もどうですか。お客さん可愛いからあざとくならないですよぉ」

「あ、いえ、手紙のやりとりって、貴族でもないし」

 ねっ、と目と髪を指さす。店員さんはぷふっと軽く吹き出した。


「まさか賢母でもあるまいし、お客さんの落ち着いた髪色で貴族なんて思いませんて。今ね、貴族の風習を真似るの、流行ってるんですよ」

「えーと、婚姻前に手紙をやりとりするっていう?」

「そうそう。自筆の手紙を三度やりとりしないと婚約もできないっていうアレです。面倒ですよねぇ。お貴族様って。で、ですねぇ」


 店員さんの説明によると、若い女の子の間で手紙での告白が流行っているらしい。告白された側も手紙で返せるように便せんと封筒を一緒に送るそうだ。

 ふーん。と、興味がなさそうに返事をしたつもりなのに、爛々とした目で見てくる店員さんの勢いに負けて便せん封筒のセットを三つ、買ってみた。小花柄と子犬柄と無地の三セットだ。

 あとはペン軸とペン先と鉛筆とメモ帳とインクと、って結構な荷物になったなぁ。でも配送してもらうほどじゃない。

 肩下げバッグに全部つっこんで、ありぁとやしぁあ、もはや原型を留めていない文具屋さんの挨拶に手を振って、帰路につく。



「原稿はまた明日か、明後日っていってたなぁ、ええっと」

 仕事の予定を考えながら歩いてて、周囲があまり見えてなかった。

「・・・さん、ルリルーさんっ」

 肩をぽんと叩かれて、突然のことに飛び上がった。おひょっとか変な声も出た。

 真横にいたのは大柄というかほとんど大男といってよいくらいの男性で、服装も話し方も普段と異なるだけでこれだけ違う人物になるのかと、私の心臓を驚かせた。

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