<18> 吊り橋擬似体験記

 鉛筆を鼻と唇で挟んでうんうん唸る。

「メモも取れないほど大変な場面かい?」

 脳天直撃のバリトンボイス。深みのある低音が鼓膜を揺するたび、差し出される花束の幻覚がよぎり、鼻に甘い香りが抜ける。

 あ、この鉛筆子どもの時に買ってもらった香り付きかってそんな鉛筆あるかっ。


「ルリが字を書いてるところ、好きだなぁ」

 微妙な癖の告白なのか、そういう設定なのか。正直、よく分からない背後の男、黒髪の貴公子ロディさん、本日はおうちデート二回目というか前回は私の後頭部がロディさんの額に負けるという、あれ、普通は後頭部のが硬いよね、おかしくね?惨事により無効試合で今回が初めてのおうちデートってことでもういいよね。


 でだ、ロディさんが家に来るにあたり、社長が在宅時、という条件が付いた。若い男女を二人きりなんて保護者としてあり得ません!と、特に異論もなかったのに強い口調で仰って、ついでにロディさんまで、俺の理性がハートブレイクなんでそれでお願いします、とむしろ頼んでた。

 え、異論ないから。なんか私がアレトカソレトカ期待してるフシダラみたいじゃんと釈然としない。


 そういう訳で、時刻は午後八時を回り、仕事帰りに寄ってくれたロディさんに抱き抱えられて唸ってる。

 何故に抱き抱えられているか。それは、これがおうちデート鉄板だとロディさんが言い張るから。講師だからね。先生。

 私、教わる方だからほら。

 先生、それって本当ですか?なんてイチイチ聞かない。亀の甲より年の功、先人はあらまほしき事なり。


 素直に聞く。これが学ぶ上で重要な姿勢だと考えたことをそろそろ真面目に後悔しだして、仕事だからメモを取らなきゃと鉛筆を持ったはいいが、書くことに集中すればイチャコラが疎かになって感情や感覚がどこかに行くし、イチャコラに集中なんぞしたらもうなんかね、膝の上に乗せられてるの揺れてるよねってこれが吊橋効果ってやつか違うわってやっぱり集中できないし。

 あ、駄目だ、なんか力抜けてきた。



「ルリってば、緊張しすぎ・・・」

 ぽてん。

 彼の唇が私の名前を形作るところを、目よりも耳がはっきりと覚えて、ルリのルが言葉として発せられる前の、息を吸うその仕草だけでもう。

 完全に力が抜けて、後ろに体重を預けた。

 目を瞑る。

 頭という感覚器官の集合体が、目や耳や鼻や舌、その明らかに感覚として外部の刺激を取り込む視覚、聴覚、嗅覚、味覚のみならず、固い後ろ頭に、浮かぶ耳の横に、頼りない頬に、触れた誰かの温もりと震えと体内の僅かな動きを、あるいは手指よりも如実に受け取るものだと初めて気づいた。


 あぁこの感覚か。

 これをしたためなくては。

 けれど身体はまだ心地良い夢の中に浸っていたいと、ぴくりとも動きやしない。

 微睡みがやってきて、いよいよどこもかしこも活動を諦めて、意識を手放そうか手放すのは惜しいかと躊躇うのすらまた夢の時間で。


「ルリ・・・」

「はい、」

 ゆっくりとまぶたを開けば、そこにはロディさんの、何故だかもの凄く辛そうな顔が見えて、一気に現実に戻ってきた。


 どとどどどと後頭部に響く心音が、いつか聞いた太鼓のようで。

「え、もしかして、重、かったです?」

「う、うん」

 イエスがノーかハッキリしない返事で、ロディさんは私を軽く持ち上げて、一人座らせた。


「いや、ちょ、っとお腹が痛くなって、さ。あと、飲み物!のどが渇いたから、入れてもらってくるっ」

 立ち上がり素早く背を向けると、応えを待たずに部屋を出て行ってしまった。

 あれ、何か変なことした、かな?怒らせ、た?

 困ったような辛いような、あんな顔して出て行ったのに、社長と笑って話していたら、イヤだな。

 そして実際、きちんと閉まっていない扉の隙間から、社長の大笑いが聞こえてきて、私は拳を胸に当てた。

 了見の狭い小さな自分が本当に嫌い。


 歪んだ顔を弾け飛ばすかぶりを振って。

 魔力の糸に鉛筆を結わえた。

 この心臓の絡まった糸を、書くことで解きほぐそう。

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