<2> 舌禍アフターカーニバル
十日前。
「ルリルーちゃん、新作進んでないんだって?」
カフェ・ガルボのマスター、エコー姐さんが、ゴツイ見かけによらず繊細な布巾使いでお冷や用のコップを丁寧に拭き上げながら尋ねる。
昼食後のコーヒーを飲んだ後、テーブルにほっぺを付けて脱力していた私は、無というため息を付いた。
「少し趣向を変えたいと思いまして」
「あら?『夫人』の続きじゃないの?楽しみにしているのに」
「そう言って頂けるのは嬉しいんですけど、飽きてきたというか」
「ネタ切れね?」
「世の中的にはそういう表現もありますかねぇ〜〜」
照明にコップをかざして一つ頷いたエコー姐さんが次のコップに手を伸ばす。
印刷所に寄ってから昼食に来たため、他にお客さんはいない。誰もいないから本業についての話もできる。
念のため表には休憩中の札を提げてある。
「なーんもないの?アイデア」
「あるんですけど、資料というか体験というか。無い袖は振れぬでして」
「ふーん。大人の恋愛模様をあれだけ書いておいて?」
「あれは耳年増というか、むかし事細かに聞いたことがありまして」
「大人の恋愛模様を?」
「といっても片恋ですし。噂話の継ぎ接ぎですから」
ふーん、ともう一度気のあるような無いような返事をしてコップを仕舞った。
次は夜の店、バー部門の仕込みだ。酒の肴をシコタマ作る。包丁さばきが華麗で見事。惚れ惚れするから見ていたいが、こちらもそろそろ仕事に戻る時間だ。
「じゃあここに、お代置いときますね」
「ちなみに、どんな体験?」
「え?」
「資料に欲しいのって。まさか」
「いえいえいえいえ、そんなアレヤコレヤソレヤじゃないです。ただ」
「ただ?」
「恋人同士の甘い時間、みたいな。いわゆるイチャイチャラブラブというものの描写が分からないから書けない、というだけのコトです。はい、また、ではっ」
自分でも驚くほどの素早い動きで店を飛び出す。何でだろう胸がドンドンいうほど焦った。上がった心拍数で外階段を軽快に上る。
二階が我らがムールス出版の事務所、三階が社長の家で私の居候先。
三階建てのこの建物は社長のもので、つまりカフェ・ガルボは店子なのだ。
で、店子サービスで他のお客さんがいないときはコーヒーをタダで付けてくれたり、お昼代が半額になったり、仕事の相談に乗ってもらえたりする。
たんっと最後は両足で着地した掃除の行き届いた二階の踊り場、三歩進んで事務所扉の取っ手を握る手が微かに震えた。
さっき、エコー姐さんの低い声が私の声に被さった。動悸はそれに引き起こされたのだと思いつく。
『そう、ちょうど良かった』
そんな会話をしたことさえ忘れていた一週間後。
カフェ・ガルボの扉を開けるチリンチリンに、耳慣れない男の声が混じった。
「ルリルーさんですね?」
チリンチリンに被るタイミングで話しかけるとはどれほどのフライングか、お分かりになるだろうか。
開けてすぐ。店内に足を踏み入れるかどうか。
つまり。
そのままチリンチリンの音とともに扉が閉まったとしても、仕方がないタイミングといえる。
「あれ?CLOSEDになってるのに・・・」
閉じた扉に掛かる札を手に取り首を傾げた。この状態で他のお客さんがいることなんてないのに。
ガラスの入った格子扉、中の様子が見える。外の方が明るいからはっきりとはしないけれど、奥から手前、つまりは扉に向かって歩いてくる長身の男性の姿くらいは視認できた。
普段はいない客、男は、扉の前まで来て立ち止まると、笑った。
シルエットから抜け出した顔が、まるで初めてお日様の下に這い出した獣の赤ちゃんがあまりの眩しさに目を細めるように、くしゃりと形を崩したのだ。
見蕩れた。
ぽかんと口を開けて、見蕩れていた。
だから不意に扉が内側に開かれたとき、札を持ったままの私は完全に体勢を崩した。
「おっと、危ない」
男にぶつかる寸前で抱きとめられ、そのまま腕と胸に挟まれて、両手で背を支えられる。
「会いたかった。ルリルーさん」
世の中ではきっと抱擁という姿勢で、赤の他人相手に初めてそれを体験した私の心臓は、もげた。
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