<3> 個人授業のお代は幾ら

「ちょ、ちょっと離してくださっ」

 腕で押しのけて隙間から見上げる。眼鏡が引っかかってズレる。

 お互いの吐いた息を吸い込む距離に、少しボヤけた男の顔があった。

 潤んだ瞳に視線が吸い込まれる。

 真夏の濃い青空をそのまま貼り付けて遠く遠く遥か先、幾ら背伸びしようと幾ら跳び上がろうと、人など決して触れること許されないその色が、確かに揺らいでいた。

 身体が強ばりと、弛緩する時の浮遊感を覚える。


「どうして」

 何が聞きたかったか。声は掠れていた。

 男はついと顔を背け、私の背中に回していた手を離した。

 何かが口をつきそうになって、慌てて眼鏡を掛け直した。

「マスター、紹介してくれるんでしょう?」

 カウンター前でカトラリーを揃えているエコー姐さんに近づいた。

「アンタ・・・まぁ、そうね。ルリルーちゃん」

「はい。その方、エコー姐さんのお知り合いですか?」

「そうなの。ルリルーちゃん、恋人同士の甘い時間を体験してみたいって言ってたでしょう?この子が指導してくれるって。講師のえーっと?」

「あー忘れてました名前決めるの。んーっと、では、ロディで。私はロディです。よろしく、ルリルーさん」

「いや、今適当に決めましたよね?名前」

「人には色んな事情があるんですよ。ねっ?たい・・・こ・・・あいたっ」

 ロディさんを拳骨で殴りつけたエコー姐さんは、カウンター向こうに入っていった。


「ルリルーちゃん、お昼まだでしょう?アンタは用が済んだらとっとと戻りなさいよ」

 ロディさんはカウンター上に掛かっている丸時計を見上げた。

「あー、確かにマズイですね。では三日後の午後二時イストラ像前で。オープンカフェデートと洒落込みましょう」

 ロディさんは懐から出したサングラスをかけ、椅子に無造作に掛けていたジャケットを持つと、もう一度時計を見上げて、ふぅといかにも気の乗らないため息を溢して足早に扉まで戻る。足が長いからほんの数歩だけど。

「あ、そうだ。先払いで」

 それから状況について行けず、入り口で佇んだままの私の頭に自分の顔を近づけ、軽い接触を置いて去っていった。

 あとにはチリンチリンと呆然と立つ私が残されていた。





「えーっと、要約すると」

「お洒落カフェでイチャコラする彼氏を演じてやってくれるって」

「ずいぶんガタイの良い人でしたけど」

「そこ?まぁ昔の知り合い」

 その場で偽名を決めて名乗った先ほどの男が何者なのか、気にはなる。

 しかし、カフェ・ガルボのマスター、エコー姐さんにしても来歴などは一切知らない。ただ私が勤める出版社の一階でカフェを経営している、コーヒー淹れるのが上手い、料理がうまい、気配りができる男性というだけで、カフェのマスターとしてこれ以上ない才覚を有している以上、他を知る必要がない。

そもそも痛くもない腹を探られても腹が立つのに、人間生きてりゃ腹が痛くなる事くらい幾らでもある。他人から見れば取るに足らなくとも、本人が隠したいのなら立派な痛い腹ひみつだ。

 だから少なくともひとつふたつは大っぴらにできない腹痛を持つ私は他人に対しても詮索しないと決めている。


「今日のオムライス、また最高でしたね」

「愛情が入ってるからよ?はい、食後のコーヒー」

 食べ終わってお冷やを飲んで、ほっと一息ついたタイミングで出てくるコーヒー。お客さんごとに飲みたいタイミングは微妙に違っているけど、一度来店した客についてはすべて覚えているそうだ。

『お客さんの特徴を覚えるのは、何よりも大切なのよ?』

 以前聞いた時の微笑みは深みというか凄みがあった。あれ私、小動物だったっけ、とつい頬や身体を自分でなで回して確認するくらいの。


「しかし。ほへぇ、カフェでイチャコラデートですか。目立ちそうですよね、今の方」

 本日のブレンドの湯気をまず吸い込む。店内に漂う香気がより濃縮されて私の中に満ちていく。覚醒を促すその香気に目を開いた私を、エコー姐さんが覗き込んだ。


「ルリルーちゃん、相手は、貴女よ?」

 ひと言ずつ、区切る。

「はい?」

「だから。イチャコラデートの相手は、あ、な、た」


 心臓から、湯気が出た。

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