第9話出よう。

そうしてどれくらい時間が経ったのか。ゆっくりと、その手たちは離れていった。


ここから出よう。

自分にはどうすることもできないから。

この家から出ようと、ふらふらした足取りで玄関に向かおうとした時だった。


カサ……カサ……


何処からかかわいた音がした。




その瞬間、ドキリと心臓が跳ね上がった。

乾いてる音。アレの手がカサカサと木の葉の様に動いてる。渇いてる音。命が尽きて潤っていない。そんな、音がする。


家の何処かの隅にある暗闇から、アレが私の方に向かって這ってきた。

過去の映像の中では決して私に向かなかったあの顔が。私を決して見ることがなかったあの目が。

現実の今、私に向かってきている。

あの空虚な薄気味悪い笑顔が、今度は私に向かってきている。


逃げなきゃ!


私は必死に足を動かした。水の中を掻き分けるみたいにすごく重かった。けど、どんなに重くても私は足を玄関に進めなきゃいけなかった。

どうしても今、家から出ないと二度と外へは戻れない。




そう思ったの。





やっとの思いで玄関に着いて、並べられた一足しかない自分の靴に足を突っ込んだ。そのまま倒れるように扉に寄り掛かってノブを掴んだ。でも、開かない。

何度も何度もノブを回そうとしたけど、少しも回らないの。

どうしても、入り口から外に出られない!

後ろからはアレが近づく音がだんだん大きくなってくる。虚像の中では物音一つ聞こえさせなかったアイツが、よりによって今、私の恐怖心を逆撫でするような音を立てて近づいてくる。

開け! 開け!

どんなにガチャガチャ回しても扉は開かない。もちろん、鍵なんてかかっていない。

そこで気がついた。

あんなにうるさいくらい聞こえていたはずの、アイツのカサカサいう音が、止まっていた。

私は振り向いた。心臓はまだどきどき走っていたけど、体は冷えきっていた。

振り向いた先の、玄関から見える廊下の突き当たりの、何もないはずの影になっている角の、深い深い闇の中。

私は、其所にアレを見つけた。

そうして。


目が。


二つの光を失った目が。


私の目と。


私の視線と。


かち合った。




私はアレよりも近くにあった部屋へ飛び込んだ。その部屋からは玄関の先にある門が見えていたはずだ。玄関の扉からは出られない。

アイツが出してくれない。

私には聞こえた。アレが何を言っているのか。

他の人たちと同じようにお前も外へ出すわけにはいかない。

ゆるさない。

頭の中に、直接響いてきた。それは、声ではなかったけれど。


その家に住んだあの家族を閉じ込めたのはそいつだった。外に、別の場所に逃げられないように閉じ込めた。

きっと、かつて自分が木箱の中でされたように。狭くて暗い空間に押し込んで、詰め込んで、どこにも逃げられないようにした。

だから、今回もきっと。外から入ってきた私を帰さない。




アレはわらっていた。

何を見てわらっているのか、そんなのはわからない。でも、私を見ているんじゃない。私なんかを見ていないの。

なにも、みていない。なにも、うつしていないの。




少しだけ、ほんの少しだけ可哀想に思った。胸が、きゅっと締め付けられた。


アレは、外に溢れている光を、綺麗な景色を知らないのか。そう思うと。







飛び込んだ部屋からは、記憶通り正面玄関が見えていた。

外と中を遮るベランダのガラス扉に私はすがりついた。手のひらも頬もべったりと付けて、外の様子を見つめた。


玄関の扉の先にある門。その更に向こうには知らないお坊さんが立っていた。

彼は数珠を手に絡ませて、お経かな、額から汗を垂らしながら一心不乱に何かを唱えていた。


後ろからはカサカサとアレが近づいてきている。


不意にかたんと音がして、ガラス扉が動くようになった。今だ! 私はおもいっきり扉を横にスライドした。扉は途中で止まることも引っ掛かることもなく、それまでの重みが嘘のように軽々と開いた。

私は門に向かって駆け出した。

門は私たちが入ってきた時のまま、開きっぱなしになっていた。私はスピードを落とすことなく、その門を潜ろうとした。でも、そこを通過することはできなかった。

門の開いた口には見えない透明な膜が張っていて、それが私を外に出れないようにしていた。出れると思って勢いよくぶつかって行った私は今にも泣きそうな顔をしていたんだろうな。もしかしたら、もうその時には泣いていたかもしれない。

だって、門の外は当たり前のようにちゃんと見えているんだよ。あと一歩、たった一歩足が進めば「普通の」日常に戻れるんだ。

やっとここから出れる! 正直、そういう期待があったんだ。

でもその希望も弾かれた瞬間、もうダメかもしれないっていう絶望に塗り替えられそうになった。白が、黒に、一瞬にして塗り替えられそうになったんだ。




その時、私の肩を骨張った女性の手が触れた。その手には、ちゃんと生きている人の温かさがあった。


私をこの家に招いた彼女、その人だった。




彼女は力強く、私の背を押した。

後ろを振り向くと、彼女の険しい顔がすぐそこにあった。

彼女は言った。


「出ていけ」


彼女の後ろには、家の建物から出ることができないアレが見えた。笑ってはいるけど、どことなく悔しそうな顔。アレはベランダの扉から少しも出ることができずにいた。

私は彼女の顔を見た。皺がたくさん刻まれて痩せ細った顔。私が、全く知らない人の顔。

でも、強くて安心するような雰囲気がそこにはあった。

彼女はアレと私の間で壁になって、もう一度言った。


「ここから出ていきなさい」


ぐいぐいと私を押し出す手には、更に力がこもる。すると、急に体が前へ倒れ出した。


私は、家の外に押し出された。


驚いた私は彼女を見た。

開いた門の間に立つ、家の外と内側の狭間に立つ彼女を見た。そして、彼女も私を見ていた。


彼女は最後にこう言った。


「あなたは知ろうとしてくれた」


私を見て、笑って、そう言った。


他の人は知ろうともわかろうともしないで逃げた。でも、私は気の狂ったババアとして真実を語ろう。たとえ信じてもらえなくても、語ろう。

そのために外と中を自分は行き来するの。




私に対して言ったことではないかもしれない。でも、その言葉は今でも私の中に残っている。彼女の顔と声と一緒に、しっかり残ってるんだ。

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