第7話下部(しもべ)

一段、また一段と階段を降りるにつれて、頭がぼんやりとしてきた。霞がかかったように自分で考えることができなくなってきた。周りの音も消えて、目の前の色が古い写真みたいに色褪せて見えた。

それでも体は勝手に動く。踏み外すこともなく、私はちゃんと階段を降りきって一階へ戻ってきた。




そう。まるで意識のある夢を見ているみたいに。




操り人形って、きっとこんな気持ちなんだろうね。

自分じゃない、なにかの意思で体が動かされる。それが当然のことのように。運命であるかのように。

それを、不思議に感じない。




埃で被われたフローリングのはずの床が木の板切れへと変わる。

私の足は、滑るようにその木目をなぞっていく。


周りはもう、知らない小屋となっていた。家なんて言えない簡易な見窄らしい小屋。

足の長い食卓が折り畳み式の平たい長机へと変わる。公会堂とかにある、集会を開くときによく使う、あの机。そこへ、一人、また一人と席に着いていく。

でっぷりとした、シャツにネクタイを首に巻いた偉そうな男性。工事現場にいそうな、筋肉ががっちりついた作業着にタオルを頭に巻いた男性。その二人がまず、机を挟んで座りあった。あぐらを組んで座る姿は、いかにも古くさい昔の男性だった。

二人の周りに人が増えていく。シャツのグループと、作業着のグループ。


今、太った男性が机を叩いた。作業着の男性が立ち上がった。どちらも怒っているようだけど、私には何の音も聞こえない。ただ、彼らが言い争っている。その様子しか私には届かない。




何に怒っているのか。何を話しているのか。




何を、しているのか。




何を、しようと、しているのか。




私には、わからない。




私はただそこに立って傍観していた。ただ、それだけだった。




頭の中は真っ白で、その映像という情報だけが視覚を通して送られてきた。







私はそこにはいなかった。


そこには存在していなかった。


だって。


それは、過去の情報に過ぎなかったんだから。




私は立ち続けた。

目の前にあるはずのない過去という情報を、この目にうつしていた。




ふと、私は机の上に目をやった。そこには一枚の紙が広げられていた。

どこかで見たことのある図が描かれていた。

入り口には鳥居のマーク。そこから道を挟んで家が一個、二個、三個。

それは、あの子が住んでいた「あの」分譲地の地図だった。




彼らは、あの場所を作ろうとしている。

私が知るはずもない、不動産と工事関係者たちがそこには集まっていた。多分、そうなんだ。




彼らの言い争いは更に激しくなった。

一体何に怒っているの。何を焦っているの。







そして、とうとう工事は始まってしまった。







始まってしまった。





始めてしまった。








ガラス越しに、重機で穴を掘っている様子が見える。音も、声も、振動も、何も私には届かないけど。

ただ、彼らは、穴を掘っていた。




ガラスという異物を挟んで、私はただ見ていた。

何も思わなかった。




地面を掘る。人が、重機が、シャベルが。掘っていく。黒みがかかった茶色い土が地上へと山になっていく。

地面が、ゆっくりと掘られていく。

穴が、大きくなっていく。




多分、この家のあるところだよ。




視界の隅に木屑と石がまとめられている。枝とかではなく、箱の材料だったもの。そんな風に私は感じた。

大事なもの、じゃ、ないの?

そんな風に、扱って、いいもの、なの?







ざわり。と、胸騒ぎがした。


ヤッテハ、イケナイコト。

このひとたちヤってる。







直感的なものだった。

ううん。地元民っていう本能が、ナニかを感じていた。

ヤバいよ。ヤバい。この人たち、やっちゃいけないこと、してる。




私は、ただ見ているだけだった。




彼らはやってはいけないことをした。

そこにあった小さな祠を壊して、お祓いすらしないで、何にも対策すらしないで、蔑ろにして、そこを掘った。

掘ってしまった。




詳しいことなんて何にも知らないよ。

ただ、最後の最後に残っていたはずの名前を消した時点で。何か悪いことは始まる準備を始めた。

そう思うよ。

地元民でさえ忘れてたのに、無意識で避けていたモノ。

そんなものを、彼らは何にも知らないで、知ろうともおそれようともしないで。


掘り起こした。


知らないよ。

それが何か。昔、其所に何が在ったのか。其処に何が遇ったのか。そこで何をしたのか。

もう、だぁれも知らない。

だぁれも教えてくれない。


だから、知らないの。

知らないままでいなくちゃいけなかったんだ。

なんにも知らない私たちにできることは、知らないまま蓋を閉じ続けること。それだけなんだ。


やってはいけないことをやらせないために、古い旧い地元の人は印をつけた。名前という印を。

それを、無知な外から来た余所者は、いとも容易く破ってみせた。

こんなものこわくなんてないぞ。

それは勇気でも利口でもない。ただの愚かな無謀だ。


だから私は余所者が嫌いなんだ。

私たちのことを、中のことを知ろうともせずに知ったつもりになって、勝手に手を出そうとする。

だから嫌いなんだ。




彼らは掘った。






彼らは。


掘ってしまった。




土の下から木の板が見える。大きい。なんでこんなところに。

彼らはそれを壊した。手は全く止まらなかった。

壊された木の板の下には暗闇がぽっかりと置かれていた。

それは、明らかに人の手によるものだった。


誰かが「こう」した。

なんで? なにを?

なんのために?




知らなくてもいいことだよ。

触れないでいればそれでいいの。

知ってしまえば、触れて開けてしまえば後戻りはできなくなる。




知りたいでしょ。


知りたくないでしょ。


知らなきゃいけないでしょ。


知っちゃいけないでしょ。


どれが正しいのかなんてわかんない。でも、私は確かにそれを見ていた。

彼らが、よそから来た愚か者が、何を仕出かしたのか。見てみろとばかりに、事実が眼前に突き付けられていた。




私からは見えないはずの角度。絶対に見えないはず。でも、なぜかその暗闇の中がどういう造りになっているのか、私にはわかった。

きっと、覗き込んでも見えないはずなのに。



大きな木の板の下、それを本当だったら退けると、ぽっかり暗い四角い穴になる。

そこに明かりを近づけると、四角い穴にぴったりとはまった大きな白い石。そのてっぺんが見える。白い石は穴の奥の奥まで続くほど縦に長く削られている。そう、塞ぐ為にわざわざ削り出された物だよ。塞いで、蓋をして、重石をして。

決して。決して! 何があっても!! 絶対に!!! この世が終わっても二度と開いてはいけないモノが!!!




其所にはある。




一つの木箱が、暗闇の奥深くに埋められている。




たくさんの御札と、呪術の込められた神聖な布。きっと、そんなもので厳重に厳重に箱は包装されて閉じられていたはずの木箱。

絶対に、絶対に、開かないように釘や仕掛けで閉じ込めて、蓋をして、石で封をした木箱。







中に何が入っているかって?











知るわけないじゃん。








知るはずないよ、そんなの。


知っちゃいけないモノが中に入ってるんだ。


だから、箱の中は見ちゃいけない。

開けてみちゃいけないんだ。







二度と開くことのない、永遠の闇の中にあるはずのそれ。そう、真っ暗な。





暗く、黒く、どこまでも続くような闇の中の。





深く、深い、どこまでも落ちていくような闇の奥の。





底のほうに。








なにかが、いた。








何もしなければよかったんだ。触れないで、壊さないで、見ないで、気づかれずにいればそれでよかったんだ。

でも、彼らは禁忌を犯した。


壊された木の板の真下は、一面の白い石のはずだった。でも、なぜか。なんでか。どうしてか。







隙間があった。





暗く冷たい空洞。




その下には。




木の扉が見えていた。







彼らは禁忌を犯した。過ちを犯した。




空洞の奥の方に興味を示した一人が、白い石を退かそうと太い木の棒を差し込んだ。てこの原理で力を加えられた石は、ほんのわずかに隙間を広げた。広げてしまった。

別の一人が空洞を覗き込む。何か言っているようだ。私には聞こえないけれど。

空洞から冷たい空気が吹き上げてくる。

下から、上へ、体温を奪い取るような冷たい空気が上ってくる。血や肉や腐ったものや吐き気のするようなどろどろしたものが、上へ上がってくる。

何かはわからないけれど、何かは解らないけれど、分かりたくもないけれど、きっと、きっと。




ヤバいもの。




彼らは禁忌を犯した。過ちを犯した。取り返しのつかない、悔いることすらできない愚かで大馬鹿な業を犯した。








アレがやって来る。







深い闇の底に埋まる木箱の蓋は、決して開かれることがないはずだった。あれだけ大きく重い石で封じられていたのだから。

でも、彼らはそれを退かしてしまった。

ほんの少しだけ、アレが出て来れる隙を愚かにも自ら作り出してしまった。


音を例えるなら、そうだな。「するり」、とかかな。

底なんてあるはずのない暗闇の奥底に何かが開く気配がした。石の下に敷かれていた木箱の扉が、ゆっくりと、横に、動いていた。

そんなことにも気づかない彼らは変わらず作業を続ける。石を退かそうと重機を持ち出す。時折、誰かが穴の下を覗き込む。

石が、斜めに大きく傾いた時だった。


ああ、なんて愚かな。


それまで全く音なんて耳に届かなかった私の耳に、誰かの悲鳴が叩きつけられた。


一人が暗闇の下を覗き込んでいる。悲鳴をあげた。別の一人がそれを聞いて駆けつけてきた。別の悲鳴があがる。

下から何かが上がってくる。下から何かが上ってくる。暗闇からアレが上ってくる!

音もなく、気配もなく、浮かび上がるように、それはゆっくりと、彼らの前に姿を現した。




闇からすらりと見えたものは真っ白な、血の気の通わない手だった。いっそ美しいと思うくらい真っ白で、傷なんてない、生きていない死者の手だった。

それが穴の入り口に手をかけた。

指が一本、二本、三本と闇から形を現した。

また、別の悲鳴があがる。

白い腕が完全に光の下へ這い出した。誰もが腕の先には肩が、胸が、胴体が、頭があると思っただろう。続いて姿を現したものは同じような白い指、白い腕だった。

一本、二本、三本と同じようにそれらは闇から姿を現した。

指が?

違う。腕が。

いくつもの腕が闇から這い出した。そして、それらの先は一つのまるいものに繋がっていた。


今、音もなくアレが彼らの目の前に姿を現した。


円い、鏡のような形の物。それの縁にいくつも白い腕がくっついていた。違う。くっついているんじゃない。花のように、枝のように、腕はそれから生えていた。

そして、その円の中心には。


人の顔があった。


誰かのようで誰でもない顔。

それが、怒るわけでも泣くわけでも悲しむわけでもない、ただ穏やかに微笑む表情でそこにあった。

やけにその表情が頭にこびりついている。ただ笑っているだけの顔なのに。ただ、笑っているだけなんだよ。何も見ないでただ笑ってる。

それが、私には恐ろしかった。

この世のものではない異形な形をしたアレ。それを見た瞬間、私は一瞬にして全身に鳥肌をたてた。でも、動けなかった。足も、指も、瞬きだってできなかった。

アレから目を離すことができなかった。


誰かがまた悲鳴をあげた。今度はそれが波紋のように伝染していく。

全身を地上に見せたアレは、いくつも生やした手を動かして信じられないスピードで動き出した。

歩くというより泳ぐ、滑空するっていう表現が近いかもしれない。腕がわさわさと動く。全部が別の動きを。一本ずつが、別の人の物のように。別の人の意思があるかのように。

気持ち悪い生き物だった。いや、生きてないんだけど、物と言っていいのかもわかんない。


それが、ぴょんと一人の男に飛びついた。


悲鳴が、絶叫が響いたんだろう。

私には聞こえなかったけど。


でも、それは何かするというわけでもなくすぐに近くにいた別の男に飛びついた。

そうして次々と工事現場にいた男たちに飛びついては離れていく。それはもう軽々と。風に煽られた蜘蛛のようだった。

あっという間にそれは全員に触れ、とうとう部屋の中にまで飛び込んできた。

すい、と私のすぐ横を通過して、机に手をつき立ち上がりかけていた不動産の男たちにも飛びついていった。

悲鳴をあげて哀れなくらい怯える男たち。手で払おうとした次の瞬間には、もう、別の所にいる。

それが飛びついたのは、なにも男に限った者じゃなかった。現場には男しかいなかったけど、お手伝いとしてだろうか、着物にエプロンをした女たちが数人廊下を歩いていた。たまたまだったんだろう。

男たちにしたように、それは女にも飛びついた。甲高い悲鳴が次々とあがっていった。


その中で、二人の若い女にそれが飛びついた時だった。

ぴょんと女の顔に飛びつき、悲鳴をあげて手で追い払おうとした女の手を掻い潜り、隣の女へ飛び移った時に私は見た。

アレが、それまでとは微妙に違うニヤリとした笑みに変わったんだ。

気持ちの悪い、気味の悪い笑みでそれは女の胴を伝って床に降り、サカサカとどこかへ消え去った。


でも、そのすぐ一瞬の後、がくりと女が膝から崩れ落ちてガクガクと震え出した。顔は真っ青で、目の焦点も合っていない。隣の女は支えながらこう叫んだ。

「彼女、妊娠してるの」

次の瞬間、震える女の股から赤い液が垂れてきた。そして、そして。

女は。

女は。




口から唾液や胃液、腸液なんかと一緒に吐き出した。




ウズラの卵ほどの大きさ。丸い、ぶよぶよした半透明の何か。

私には、カエルの卵のようにも見えた。




人の体から出てくる物じゃない。出てきていい物じゃない。そんなものが、女の口から次々と吐き出された。

支えていた女は、もちろん悲鳴をあげて泣きながら飛び退いた。





あっという間のことだった。







私は理解した。

アレは、ただ闇雲に飛びついていったんじゃない。厄を纏って取り憑いていったんだ。

人の手で払えるモノじゃなかったんだ。祓うことができないんだから。




アレが何なのか、私にはわからない。

わからないけど、全くわからないけど。

ほんの少しだけ、可哀想だと思った。

身勝手な人に無理矢理ああいう形にさせられた何か。あんな異形な姿にさせられて、土のずっと下に閉じ込められて。

ああ、駄目だ。同情なんてしちゃったら、自分もアレの一部になっちゃう。




これはただの想像なんだけどね。

アレは、元々何処かに祀られていた神聖な鏡だと思うんだ。一瞬だけ私から見えた、顔のない側の様子。真っ黒で何も写していない顔の裏。あれは鏡だよ。円い形の鏡。

そして、アレに生えたたくさんの腕。死んだ人の、腕。きっと一人の物じゃない。たくさんの人の物だ。




想像してみる。

冷たくて、暗い、土の下の木箱の中に、鏡が一枚。それと、人。




そこで何があったかなんて知らないよ!

でも、きっと何か悪いことがあって、それを納めようとして、誰かを、生け贄にしたんだ。

生きたまま木箱の中に入れて、一緒に祀る鏡を入れて、蓋をして、埋めて、重石をして。

それでも、おさまらなくて。

同じようにその木箱の中に、人を、生け贄を入れて。何度も何度も繰り返して。

おさまらなくて。どうにもなんなくて。

どうすることもできなくて!


もう、引き返せなくなっちゃったんだね。

昔の人は、箱を事実と一緒に深い穴に埋めて、隠してしまった。

開いちゃいけないよ、って。

それができる唯一のことだったんだろうね。


箱の中はいろんなモノが混ざってバケモノになっちゃった。

とんでもないものをつくってしまった。

そんな後悔と一緒に、きっと埋めたんだろうな。土で隠して、掘り起こしちゃいけないっていう印もつけて、簡単な祠も立てて。


『アレを外に出すべからず。』


そんな声が聞こえる気がする。




でも、結局、そんなことも知らない余所者はそんな思いも壊してアレを出してしまった。

余所者じゃなくても、誰かが出してしまったかもしれない。しょうがないよね。しょうがないんだよね。


私の友人は、もう、戻って来ないんだから。

もう、取り返しがつかないことになってしまった。

あの、私が大好きだった家族は、消えてしまった。もう、どんなことをしても、どこを探しても、戻ってこない。




悪いことの繰り返しじゃないか! これじゃ、ただの悪循環を生んだだけだ!




かえしてよ。あの子たちを、あの家族の幸せを、未来をかえして!!!

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