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「ま、いいや。あとにしよ」


 少し放っておいたくらいで、死ぬわけでもなし。

 いったん玄関へと引き返し、そこから階段を上がった。


 二階はリビング以上に蒸し暑くて、こめかみから顎にかけてしたたる汗をぬぐいながら、妹と共同で使っている子供部屋の前までやってくる。


「めるー。下でさ、お母さんが溶けてるんだけど」


 あんた、知ってた?

 軽い口調で訊ねながら、築十年で早くも立て付けの悪い扉を開ける。


 生意気な妹のことだ。返事がないのは気にしない。

 ただ、日頃の憎まれ口と無視の割合から統計すると、本日のリアクションは『うっせークソ姉』説が濃厚なのだが。


 やはり相当蒸し暑い子供部屋に足を踏み入れ、私はさっそく後悔した。


 視界に飛び込んでくる妹の異様な姿を、否応なしに認めてしまった。

 カラフルなキャビネットを挟んで手前と奥、ふたつ並んだ勉強机。その手前側に、彼女はいた。


 ただし、母同様、あの姿で。


 机の下に敷かれた毛足の長い真っ白なラグの上、ベリーピンクの回転椅子からこぼれ落ちた妹が、大きくとろけて広がっている。

 もう、ため息しか出ない。


 暑いのに。疲れているのに。


 私は、机の後ろにある二段ベッドの下段へと、学生鞄をぶち込んだ。物に罪はない。わかってはいるのだ。


「あーー、あーあー、あーーーー! なんなのこれ。マジなんなの」


 信じられない。

 よりによって、ふたりそろって溶けるなんて。

 これでは私が、ひとりで片付けなきゃならない。


 あとひとり、父親がいるけれど、あの人はあてにならない。

 どうせ今日も夜の十時を過ぎた頃に帰ってくる。残業だと言い張っているが、吐く息がいつも酒臭い。


 そして、たぶん目の前の事態に、少しも関心を示さない。


 猛烈にいらいらした。全てを放棄してベッドに寝転がりたい気分だったが、如何せんこの部屋にはエアコンがない。


 我が家のエアコンは、リビングと両親の寝室にひとつずつ設置されている。


 子供部屋についても一応検討はされたのだが、母親曰く、『子供は暑くても元気だからいいのよぉ』ということで。


 じゃあ、暑さで溶けた自分の子供を片付けてくれ。


 妹も妹だ。

 いくら母親が口うるさく、顔を合わせるたびにネイルを落とせだの、スカートが短いだの言われるからって、こんな日当たり良好な部屋にこもっていたら、溶けるに決まっている。


 ふたりともバカ過ぎ。うんざりだ。せめて別々の日にしてよ!


 頭の中で家族をひとしきり罵倒したのち、二段ベッドの柵に腰掛け、妹をチラ見。

 リップクリームを塗る甲斐性すらなく乾燥した唇をへの字に曲げて、鼻息だけで唸る。腰が重かった。


 休みたい。とにかくいったん、寝たい。


 しかし前述の通り、エアコンのないこの部屋で昼寝などしようものなら、私も同じ轍を踏みかねない。


 休憩場所として真っ先に思いつくのはリビングだが、今はドロドロの母親がいる。


 正直、肉親であっても気持ち悪いうえに、目の前にいられるとさっさと片付けなければならない気がして落ち着かない。


 親の寝室という手も考えたが、この年齢になるとまあ色々複雑で、あまり立ち入りたいとは思わない。


 使った形跡が残れば、あとあと母親に文句を言われるし。やっぱり、やめておくのがベターだ。


 しばし迷ったあと、私はこれでもかというほど汗を吸った紺色の制服を脱ぎ捨て――これを明日も着なきゃいけないなんで信じられる?――再びリビングを目指した。



 非常事態発生!

 エアコン様がお仕事をなさらない。


 一年間の中で、一番気合を入れて、部屋中の空気を冷やさなきゃいけないこの時季に。


 ふざけているのか? もちろん、そんなわけがない。


 休みなく襲ってくる暑さから私たちを守るため、来る日も来る日も大真面目に働き詰めだった。


 加えて、あまりメンテナンスもしなかったものだから、とうとうガタがきたのだ。それも最悪のタイミングで。


 リモコンの操作に反応はするものの、吐き出される空気は生ぬるい。辛抱強く待ってみても、一向に冷える気配がない。


 残酷な現実に直面し、しばし放心する。


 脱力して目を閉じると、ほんのひとときだけ、この肉体を蝕む暑さから解放されるような気がした。もちろん、気がしただけだ。


 すぐにまた、全身の毛穴から汗が溢れ出し、今度はガチで意識が朦朧としはじめる。


 やばい。これはやばい。


 いい加減諦めることにして、私は手汗で湿ったリモコンを、ソファの上に放り出した。

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