ようかい

神庭

1

 とける。

 声にならない呟きは、微風となって乾いた歯列の間を通りすぎていった。


 今から二十分ほど前。

 終礼のチャイムが鳴って、ようやっとつまらない一日をやり過ごした。束の間の自由だ――そう思った。あの瞬間の解放感は、まるで風呂上がりに現れた、よく冷えたサイダーみたいだったのに。


 放課後の爽やかな気分は、この地獄のごとき猛暑によって、すっかり失われてしまった。ひとけのない住宅街を、なめくじのように進む。


 ああ、うんざりだ。


 夏というのはどうしてこう飽きもせず、毎年欠かさずやって来ては、容赦ない陽射しで我ら下界の民を焼くのだろう。


 バーベキューでもしたいのだろうか?


 じりじりと焦がされる真っ黒なアスファルトは、まぶしい太陽の光を充分に吸収している。ローファーの靴底からも、熱が伝わってくるほどだ。


 肉くらい焼けてしまってもおかしくはない。


 陽炎が見えるほどの猛烈な熱気とともに、雑草の青臭さと、アスファルト独特の嫌な臭いが立ちのぼる。


 肉の調理に適しているとは思えないが、やつらはこの殺人的熱射攻撃を止めようとしない。


 いやがらせか。それとも、地上へ向けた試練のつもりか。……なにを偉そうに。


 まさか、車の排気ガスと土埃、散歩中の犬のフンだってついてるかもしれない雑食動物の焼き肉を、本当に食べたいってわけ? とんだ物好き、変態だわ。理解できない。


 いや、よそう。そうじゃない。

 私は今、このクソみたいな暑さのせいで、思考が正常の範囲から少し離れているようだ。

 気温よりもまず、この直射日光がよくない。


 すっかり熱くなった革の学生鞄を頭上に掲げて、気休めの日除けにする。以前、日傘なんてものを使ってみたこともあるが、精神年齢低めのクラスメイトたちに『お嬢様』などとからかわれてやめた。


 バカらしい思い出に蓋をして、帰路を急ぐ。


 早く。早く、建物に入らないと。こんな場所で動けなくなったりしたら、焼き肉どころか、瞬く間に腐ってしまうかも。年頃の乙女として、それは避けたい。許しがたい。



 命からがら、一軒家の前に辿り着く。

 長さ五十センチほどのドアハンドルを掴むと、やはり鍵は掛かっていない。

 いつも注意を促しているというのに、本当に不用心である。


 おそらく犯人は妹だろう。とはいえ、この暑さの中では、犯罪をおかすためにわざわざ外をうろつきまわる人間も、そう居ないのかもしれない。


 泥棒なんかに入るより、涼を求めて忍び込んだと言われたほうが、余程納得がいく。

 エアコンで冷えた心地よい空気を求め、私は重い扉を一気に引き開けた。


「うっ……」


 屋内から漏れ出した生温かさに、私は低く呻いた。


 なんだこれ。


 外気よりは、ほんの少しマシかもしれないけれど。

 この真夏日の炎天下に、冷房も入れないで何をしているのだ。


 玄関のたたきには、ふたりぶんの靴がある。すっかり履き潰され薄汚れた婦人もののサンダルと、パステルブルーのおしゃれな女児用スニーカー。


 スニーカーはつま先がそれぞれ別の方向を向いており、その片方は蹴飛ばすように脱ぎ捨てられ、無造作に転がっていた。


 私は小さなため息をつきながら、妹の靴を揃えて右端に寄せた。

 それから、ローファーを左端に寄せて脱ぎ、床に上がった。


 汗で湿った靴下越しに触れた木のフローリングは、僅かに冷たかった。しかし、すぐに足の裏が慣れてしまって、なんの救いにもならない。


「ただいま……」


 独り言のように唱えながら、リビングを目指す。返事はない。


 この時間、母はいつもリビングにいるはずだ。どうせソファの定位置に座り込んで、スマホのゲームに夢中になっているのだろう。


 先日、推しのキャラクターがどうのとか言ってきたが、にやけた表情と軟体動物のような仕草が死ぬほど気持ち悪かったので、無視した。


「ちょっと、お母さん。エアコン……うげぇ」


 中学生の女の子が発するには、あまりふさわしくない声が漏れた。


 停止したエアコンの真下に設置された、古い布張りのソファ。その毛羽立つ座面にたっぷりと、だらしなく広がる液状の肉を見つけてしまったからだ。


 それは遠目に見る限り、全体的に黄みの強いピンク色をしていた。

 こぼれて大きく広がっていたが、強い表面張力でもったりと厚みを保っている。ソファの座面左端から真ん中に掛けて、収まりきらなかったぶんが、日光に照らされたイエローオーカーの床面に垂れている。


 近付いてみると、ぼんやり透けたピンクの中に、濃い赤や紫の塊が埋もれており、それらは微かに脈打っていた。


 物体の体積は、成人女性一人ぶん。目測したわけでも計測したわけでもないが、それだけは間違いないだろう。


「あーあ……こんなところで、エアコンもつけずに昼寝するから」


 見るからに温かく、どろっとしている。


 正直、触りたくない。


 たとえるなら、小さいころにテレビで見たダイラタンシーの実験……、手の中で握るのをやめた瞬間に解けて垂れ落ちる水溶き片栗粉。

 あるいは、甘くて不味そうな匂いのする、まとまらないタイプのスライムといったところか。


 どちらにしても、子供がカーペットの上にこぼしたりすると大惨事だ。

 はらはらしながら見守っていた母親の顔が、一瞬にして青くなる。


 まあ、いまこぼれているのは、その母親なんだけどね。


 幸いリビングにカーペットは敷かれていなかったが、ソファのほうの被害は甚大だ。


 カバーを掛けていなかったため、水洗いすることは不可能。


 へらのようなものでこそいだり、濡れ布巾で拭き取ったり、ブラシっぽいもので擦ってみたり、かなり根気強い清掃が必要になるだろう。


「ま、いいや。あとにしよ」


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