そして私は押し入れで暮らした

水は温度を下げることで凝固し、固体になるが、

本というものは多数集めると液体になるという性質を持ち、

本棚やら段ボールやら、収納することでようやく固体になるという性質を持つ。

どうやったって、気化はしないので、本を雲散霧消させたいなら、

売り払うか、あげるか、実家に送るか、捨ててしまうかしかない。


本っていうのはどう見たって、固体じゃないかと思われる方もいるかも知れないが、

それは例えば、水たまりを見て海であると思うようなものである。

1冊、2冊ぐらいなら、すぐ読むからと本棚から出しっぱなしにしても、

本は固体のままおとなしくしている。

それが、10冊、100冊と積み重なり、

いつまでも、いやすぐに読みたいからね、などと言い訳をしていると、

すぐに部屋中に広がってき、まるで部屋が湖か海になったような心持ちになる。

まっとうに生きていくためには、本をしまい込む他にない。


今の私は、本の殆どを電子書籍で購入しているから、

そのような破滅を逃れているが、大学生時代は大変だった。


引っ越してきた当初は、まだ良かった。

実家から大量の本を新居に運んできたが、段ボールで固体状になっていて、

正六面体に近い美しいバランスを取って押し入れの中で慎ましやかに過ごしていた。

そして私は、時折、押入れに向かっては必要な本を取り出しては戻すという、

互いの領分を弁えた生活を送っていた。

棚はあったが、とても大量の本を収めるには向いていない。

暗い押入れから段ボールの手を引いて、明るい部屋で本と逢瀬する日が続いた。


だが、そのような生活を過ごしている内に、

私の中にムクムクといやらしい欲求が湧いてくる。

本というものは必要な時に、気軽に読めなければならない。

段ボールの中の本を掻き分け、掻き分け、そこに無ければ別の段ボールを探し、

ようやっと本を見つけたと思ったら、再び本を段ボールに封じる。

そのような生活というのは読書家の健康に悪い。

かといって、本棚を買おうにも、

この大量の本の全てを収められるような本棚というのは、

この狭いアパートにはとてもじゃないが入り切らない。


何より、頭の中で甘い声が囁いている。

本棚を買う金があるのならば、その金で本を買って、

読書に対するいじましい思いを発散してしまった方が健康ではないですか、と。


涎がつうと垂れて、しかし拭うのも忘れて、

私は段ボールの一箱を押し入れから取り出して、部屋の中に開放した。


なぁに、本の一箱分ぐらいならば人間が支配できぬということはないと思った。

本は縦に積んでいたのでギリギリ固体の性質を保っていたが、

それがまもなく液体になるということを私は知らない。

いや、知っていて敢えて目を伏せていたのかもしれない。

私は本に描かれた豊満な物語を貪ることに必死であった。


私はすぐに読めるように、ベッドの近くに本を置いた。

買ってきた本もベッドの近くに置いた。

本というのは互いに引き合う性質を持っている。

そこにあるのならば、と私はそこに置いていった。


気づけば私の寝るスペースは少しずつ狭くなっていき、

そして、開放される段ボールは増えていった。

床に少しずつ本が漏れていく。


人の目には美しくないかもしれないが、

私は少しずつ本で埋まっていく部屋を見ても何も思わなかった。

いや、すぐに本を読むことが出来るのだから、

なんと機能的であるのだろう、とすら思った。


ベッドを本が埋める、部屋を本が埋める。

パソコンを置いたデスクに向かう通路だけを確保して、

私はモーセのように、本の海を割って暮らしていた。

本を処分するなり片付けるなりすればよかったが、

私が一人暮らしを初めて、真っ先に失ったものは理性であった。

自由の快楽に脳を焼かれていた。


私は仕送りで本を増やした。

部屋の主である本に、私は従者として良く仕えた。

それでも、人は海の中で生きていくことは出来ない。


空っぽになった押入れが、深い暗闇をたたえて私を待っていた。

入ってみると、ひんやりとして気持ちが良い。

扉を開ければ明るいし、閉めれば心地よい暗闇に包まれる。

暗い部屋でスマートフォンを起動すると、

闇の中でぼんやりと浮かぶ明かりだけがあった。

世界から余分な情報が消えて、インターネットだけに集中することが出来た。


そして、私は部屋に本を明け渡し、押し入れに布団を敷いた。

それは狭い部屋の秘密基地であり、

本の海の中にたった一つだけ存在した孤島だった。


まっとうに生きていかれぬ私は、

押入れの戸を閉めて、自分をしまい込んだ。

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