第12話 出産
駅から出ると母親からのメール。
―すぐに病院に来るように―
姉貴のことだと思った。
僕は興奮しながら病院へ向かう。自転車ですぐの病院では親父が心配そうに白いドアを眺めていた。
すでに中から姉貴のうめき声が聞こえる。
静かに細長く広がる廊下に姉貴の声が響く。
泣き叫ぶ姉貴に助産婦さんが励ます。
大丈夫。頑張れ。
僕も心の中で応援する。
助産婦がラマーズ法を指示する。
一秒一秒が永い。きっと義兄さんだったらもっと永く感じただろう。手が汗ばんでくる。その義兄さんは仕事が終わってこちらへ向かっている。
姉貴は僕が来る前から苦しんでいる。子供を産むという苦しみに。
誰だって母親が苦しんて生まれたんだ。僕だって彼女だって。彼女の苦しみは解らないけれど、同じように彼女だって、彼女の母親の苦しみは解らないだろう。
一瞬時が止まったような静けさが広がった。
んなぁ、んなぁ。
猫のようななき声が聞こえた。
おめでとうございます。助産婦さんの声だった。ありがとうございます。そう言った姉貴の声は湿っていた。
いつのまにか僕も泣いていた。おめでとう。今日から姉貴は母親になった。
外に出て、携帯で電話をする。
相手は彼女だ。
少しでもいいから子供が生まれた感動を伝えたかった。
「もしもし」
きっと僕の声は震えていた。
「もしもし、どうしたの」
彼女の声は落ち着いていてはっきりしていた。
「たったいま、姉貴に赤ちゃんが生まれたんです」
「そう、おめでとう」
彼女の声は相変わらず冷静だった。けど、どこかに暖かさを感じたのは、この病院前があまりに静かだったからだろうか。
「ねえ、あなたはきっと愛されていたんだと思う」
「どうかしら」
「だって、もしそうでなかったら、貴方は生まれていなかったと思うんだ」
返事まで時間がかかる。
「そうかもしれないわ。けど、私の感情はなかなか言うことを聞いてくれないのよ」
そこまできいて、彼女は解っていたのだと思った。愛されていることも、そしてそう言った理屈でないことも。
「ごめん、突然電話して。迷惑だったかな」
少しずつ冷静になる。
「そんなことないわ」
すでに言葉を探し始めた。何でそんな人と今こうして電話しているのだろうか。
言葉を見つけたのは彼女の方だった。
「これから彼氏にあうの」
大学での言葉を思い出す。
「スーツ姿のですか」
「そう、あの時のスーツ男」
僕の質問に彼女はうっすら笑って答える。
「頑張ってください」
なにを頑張るんだか分らなかったけれど、そんな言葉しか出せなかった。なんでも頑張れば解決するわけでもないのだけれど。
「ありがとう、もう少しで彼が来るから」
お姉さん本当におめでとう、最後にそう言って電話は切れた。
切れた瞬間、余韻が残った。彼女の声の残像が耳にこびりついたようだった。
携帯をしまい、再び病院に入るとおばあちゃんになった母親が僕を呼んだ。
「見てみる?あかちゃん」
僕は頷き分娩室に入った。
姉貴の横で、小さなしわくちゃな物体が寝ていた。これが赤ちゃんなんだ。
「どう、私のあかちゃん」
姉貴が笑った。
「うん、さるみたい」
そうでしょ。姉貴はまた笑った。
裏口から足音が近づいてきた。
遅れてきた義兄さんだった。
「がんばったね」
開口一番姉貴にそう言うと、姉貴はパパだよ。と言って赤ちゃんを少し起こした。
陽樹にもメールを入れると、おめでとう。と返ってきた。
月を見ながら、僕は出来るだけ過去を振り返った。どんなに頑張っても幼稚園より前は思い出せなかった。
幼稚園の時はやんちゃだった。
仲のいい友達と棒きれを振り回し、毛虫を集め、泥団子を作っては好きな女の子にぶつけていた。
そして十年後を考えた。赤ちゃんは生意気ながきになっているだろう。親父は定年退職をし、おじいちゃんは元気で生きているだろうか。そして、僕は何をしているだろうか。ちゃんと生きているだろうか。
不安になると悲しくなった。
月に隠れるように少しだけ泣いた。
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