第10話 炭酸
次の日授業が終わるといつものように学食に行く。
昼休みにはいなかった彼女がいつもの場所で本を広げていた。
コーラを買い、彼女の前に行くと彼女は本を閉じた。
「どうも」
僕の言葉に
彼女も答える。
思ったより元気そうだった。
その瞬間キスしたことを思い出す。
「この前はごめんなさい。少し飲み過ぎちゃったみたいね」
少しずつ彼女の人間さに触れるたびに彼女も確かに人間なんだと安堵した。ふとリングのことを思い出して覗きこむ。
「このリング彼氏からもらったものじゃないの」
彼女はそう答える。僕の視線に気がついて
「お父さんのこと愛してるんですね」
「穢れてる?」
彼女は再び笑顔をみせるけれど、それはひどく不自然にみえる。
だから
「穢れていますね」
そう答えた。
「正直ね」
そう言って彼女は表情をゆるませた。
「彼氏の事はきらいなんですか」
「嫌いじゃないわ」
「そう」
僕はそっけなく答える。
もう全部くだらない。
そう思い始めていた。
「で、どうしたいんですか」
「このままがいいわ」
「そんなん無理ですよ」
「知ってるわ」
そう言うとなんて言ってよいか解らず沈黙が流れる。
誰もいない学食で沈黙が流れると、何だか一気に暗くなったように感じる。時間が経つと電気も少しずつ消され本当に暗くなっていく。自動販売機の光だけが無意味に光り、時折なるモーター音に次の言葉をせっつかされている気がした。
どうでもいい。
だけど、やっぱり気になる。
「お父さんは何て言っているんですか」
「お父さんはまだ、知らないわ」
私が好きだということも、母親から話を聞いていることも。
「言ってみたらいいんじゃないんですか」
僕は適当に答える。だけど間違っていないと思った。
「それもありかもしれない」
すでに炭酸が抜け甘たるくなったコーラを流し込む。
「うみ、きれいだった?」
彼女は話題をかえた。
「きれいでしたよ。とても」
「ねえ、こんどつれていって」
僕は少し困った。
「うみ、みたいな」
彼氏に連れて行ってもらえばいいのに。
そう思いながらも僕は頷いた。
彼女は無邪気に笑う。
静寂が歪む。こんな笑い方も出来る人なんだ。だけど、残酷な笑いだった。無邪気さは残酷さを共有するのだと思った。
三日間、週末の土曜日曜を入れると五日間彼女は大学に来なかった。
すっぽりとあいた彼女の空間は唯一の主をなくして悲しそうだった。
「そんなに心配なら携帯くらい聞いておけばよかったのにな」
陽樹の言葉がささる
「もう来なかったりしてな」
陽樹は笑ったが、笑えなかった。何で陽樹はそんなことを言えるのだろうかとすら思った。
そして彼女がいつもの席に来た日。
「行ってきなさい」
ほとんど一週間ぶりに出来た風景を見て陽気は僕にそう言った。
「行ってくる」
まるで夫婦のような会話を交わし、彼女の方へ行こうとしたが、やめた。
陽樹に、大勢の人に話しているところを見られるのが少し恥ずかしいと思いなおした。理由はわからないけれど、何となくそんな気がした。
すべての授業を終え学食へ行くと、彼女はいつものように文庫本を読んでいた。
少し高鳴る鼓動を何とか落ち着かせ近づくと、慣れない場所に初めてきたような異質な感じがした。
彼女は本を読んでいるのではなく、ただ眺めていた。本と自分との間の空間を眺める彼女の指には相変わらずリングが鈍く光っている。
「おひさしぶりです」
彼女はびくっと小さく肩を震わせていた。そして僕を見ると不器用に笑った。
僕は言葉を探す。
「うみ、いつ行きますか」
やっと探しあてた言葉は間違っていただろうか。
「あの日」
彼女がゆっくりと口を開く。
「あの日お父さんに話したわ」
「それで」
僕は覚悟を決めるように静かに椅子に座った。
彼女は続ける。
「一言だけ、ごめんて」
彼女の顔はきれいだ。でも、機械のように冷たい美しさだった。彼女が言葉をとぎらせる度にカリカリとパソコンような音が聞こえてきそうだった。
「それだけ?」
促すと一瞬視線を落とした気がすた。
「お前はここで住めって言って家を出ちゃったわ」
彼女は笑おうとして失敗する。
彼女は死んでしまうのではないかと思った。縁日で死んでしまったひよこを思い出す。夜に死んでしまったひよこは、そのまま部屋に置いておくのが嫌だったので玄関に置いた。
次の日にはたくさんの赤蟻がひよこにたかっていて足が半分もって行かれていた。
怖くなった僕は泣きながら庭に穴を掘りひよこを埋め、割り箸をさした。
割り箸にはひよこごめんなさい。と汚い文字で書いた。
そして今回、相手が人間になっても僕は何もできない。ひよこすら守れない人間がどうやって人を救えるのだろうか。
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