第8話 父親殺し
「私の少し前のあだ名」
彼女は確かにそう口にした。
あだ名じゃないんじゃないかと思いながらも、僕は黙ったままワイングラスに口をつける。薄い甘さと渋さとアルコールが口の中に広がる。
どう言葉を返せばよいかわからなかった。
彼女は笑う。
「聞いたこと無い?」
嫌な振りだった。
「さあ」
嘘をつく。陽樹に聞いていなければ良かった。
「あながち嘘ではないのかもしれない」
「どういうことですか」
二つ目のデキャンタがやってきた。
「私はお父さん血が繋がっていないの」
彼女はリングに触れる。一瞬テープルに手が当たり赤ワインが波立つ。
「連れ子とか、養子とか」
言いきる前に彼女は首を横に振る。
「お父さんは母親を愛したわ」
僕は唯頷く。
「母親は一度だけ他の男とセックスをしたの。ゴムも使わずに」
セックスと言う言葉は、彼女から発せられるとそれは唯の言葉だった。
「浮気ですか」
上ずった声で聞くと彼女は頷いた。
「いつそれを知ったのですか」
「七歳のとき、母親は原因不明の病気で入院するとみるみる弱っていったわ。半年ほどしてそのことを私に言うとあっけなく死んでしまったわ」
彼女の言葉は無機的だった。そして、きっと僕に出来ることなんて何も無かった。あのサラリーマンはこういう話をどういった顔で聞いているのだろうか。でも、なぜ母親は死ぬ間際にそんなことをいったのだろう。
「それでお父さんは」
「話を大事に育ててくれたわ」
彼女はやさしい顔をした。
冷たくて優しい顔。
「良かったじゃないですか」
父親殺しのことを忘れながらそんな言葉が漏れた。彼女の優しい顔に。
「そうね」
そして彼女は悲しそうに笑った。
「お父さんのこと嫌いですか」
頭が混乱してくる。
「すきよ」
「じゃあ、何故父親殺しだなんて」
何だか本当に彼女は殺したんじゃないか。と言う気持ちになってきた。
「ねえ、私はお父さんと血が繋がっていないのよ」
いやな予感がした。
「ねえ、私は母親の分までお父さんを愛さないといけないと思わない?」
彼女は愉快そうに笑う。
冗談なのだろうか、だったらいいのに。そう思いながら彼女を見る。
「じゃあ、あなたはお父さんのことを、父親としてではなく男として愛してると?」
「ごめいとう」
彼女はしきりにリングを薬指につけたままくるくると廻した。ワインを一気に空けると胃の辺りから駆け上がってくるのを感じた。
「ちょっとすみません」
そう言って僕はトイレへ向かった。
何度も途中で吐きそうになりながら何とか便器にたどり着く。消化し切れなかった焼き蕎麦がワインと一緒にぐちゃぐちゃになって吐き出された。
洗面所まで行き、顔を水で洗い情報を整理しようと試みる。
考えれば考えるほど頭はぐらぐらとゆれた。
席に戻るのが怖かった。
トイレを出るとそこに彼女はいた。後ずさりしようとするのをなんとか堪える。
「だいじょうぶ?」
そう言った彼女に僕は何とか笑って答える。
「大丈夫です」
彼女の顔もうっすら紅く染まっていた。
「じゃあ、わたしをころしてくれる?」
何かむかついた。
「殺しませんよ」
僕は続ける。
「誰もあなたを殺しませんよ」
自分で言っていることが解らなかった。
そろそろ出ましょうか。そう言って会計を済ませ外に出る。
月が綺麗にだけど曖昧に存在する。
彼女の髪の毛が目に映ったと思った瞬間彼女はキスをした。
触れるか触れないかの軽いキスはまるで彼女の存在そのままのような気がした。
そのままの存在にただただ敗北した。
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