第2話 バイト先で

 一日一日の過ぎ方が大学が始まった途端に早まった。大学生活は何事も無く過ぎて行き、結局サークルに興味を持てなかった僕は直ぐにダイニングバーのバイトを始めた。


 小洒落た客席八十程の店は落ち着いていて、ピークの時以外それほど忙しくなかった。最初のころは声も酒を持って行く手も震えていたが、一ヶ月ほどすると次第に慣れ、暇な時は客の簡単な話し相手が出来るくらいになった。大抵の話はどうでも良かったし、大抵の僕の笑いは愛想で作り出したものだった。特に楽しいというわけでもなかったけれど、暇つぶしにはなっていた。


 暇な時には、学食の彼女のことを考えた。もしも彼女とだったならどんな会話をするのだろうか。彼女の名前は千穂子といい、イギリスに一年留学していたこと、サークルに入っていないこと、バイトもしていないこと、お酒はワインが好きなのだということを陽樹が教えてくれた。それがどう。というわけでもなかったけれど、その情報は色褪せなかった。大学やバイトには慣れてきたのに、大学のレポートとバイトの人手不足で日常が少しずつ忙しくなってきた。だから彼女のことを考える頻度は少なくなり、学食へも行かなくなっていった。


 その日は静かに雨が降り、いつも以上に客入りは少なかった。六月に降る雨は少ししつこいがこの日の雨は湿気た空気を浄化しているようだった。


 そんな日に、


 彼女はバイト先に来た。


 いらっしゃいませという案内係りの木村さんに答えたのはスーツを着た男で、二人です。という丁寧で太い声だった。彼女とスーツを着た男の二人はそのまま木村さんに連れられ僕の担当テーブルにやってきた。少し後ろを歩く彼女は、いらっしゃいませと言う僕の言葉を素通りした。雨と香水の混ざった匂いだが彼女にまとわりついていた。


 心の中で舌打ちをしてから少し遅れてテーブル担当の挨拶をすると、ファーストドリンクを受けた。スーツ姿の男の人はこの店で二番目に高い白いワインボトルを頼み、同時に生ハムとクリームチーズのサラダも頼んだ。その間彼女は一度もこちらを見ることなく、唯メニューを眺めていた。


 食堂での読書のように。


 そんな彼女にちりちりとした怒りが込み上げる。この人は店員の顔すら見ないのか。そう思いながら戻ろうした瞬間、ふと顔を上げた彼女と僕の目が合った。


 一瞬、

 動きが止まる。


 勝手に期待する自分がいる。

 何を期待しているのかさえよくわからなかったけれど。


「しりあいか?」


 スーツ男の声は無駄にでかくて低い。


「いえ」


 静かに答える彼女とは対照的に。


「あの、グラスは二つでよろしいですか?」


 取り繕うように当たり前の質問をする。


「はい、お願いします」


 スーツ男はさわやかな笑顔で返したから、僕も営業スマイルで応えるとその場を去った。名残惜しいように彼女を気にしながら。


「やっぱ、ありゃカップルですよね」


 キッチンとホールの境目、料理が出されるデシャップに戻ると、木村さんに声をかける。


「友達って感じじゃないだろう」


 そうだけど、兄弟かもしれないじゃないか。そう思った自分を少し滑稽に思いながらお通しとワイン、ワイングラスをトレンチに乗せる。


 彼女の座るテーブルまで向かうと、スーツの男がやたらと喋っていた。


「失礼します」


 話をさえぎるにグラスを置きながら目の端に彼女の姿を捉える。


 彼女は大学の学食にいるときより綺麗だった。上品に着こなす白くて細いニットの上着に銀色のネックレスは小さく輝いていた。


 そして薬指にはめられたシルバーのリングが僕の胸に突き刺さった。


 暇になればなるほど二人のテーブルが目に映る。スーツの男はほとんどの料理を綺麗に平らげ注文する時は力強く通る声で僕を呼んだ。彼女は時折薬指のリングに触れ、スーツ男の話を退屈そうに聞き、時々思い出したように笑った。


 そう思いながらも、初めて見る彼女の笑顔に僕の心はざらついた。


 彼女に対する観察はここで終えた。


 あまりにも暇過ぎ、僕は早上がりとなった。彼女のことを気にしながら、ゆっくりと着替えるとそのまま外に出た。最後まで彼女と話すことも無かった。当然なのだけれど。陽樹に彼女が来たことをメールでも入れようかと思ったけど、やめて携帯をポケットにしまう。


 店を出ても雨はまだ降りつづけた。


 ちたちたと降る雨は、僕の服を出来るだけやさしく触れていった。やさしく撫でた雨は服の上で広がり、色をわずかに濃くする。


 人通りが少なくなった細い道に入ると、暗闇にぼんやりと滲んだ街頭が雨を照らした。スクーターにまたがり、メットもかぶらず、エンジンもかけず、そのまま雨に打たれた。服がぴったりと皮膚に吸い付くように身体を舐めた。


 雨が少し強くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る