第8話・わたしたちの恋

 『おつかれさま』


 それだけ。星野さんからの一文よりも短い返信が、その日わたしが送ることが出来た言葉の、全てだった。



   ・・・・・



 予備校に通うことになって驚いたことの一つが、建物の中に学食があることだ。

 といって、毎日温かい食事が提供されている、ってわけじゃなくて、いつもはパンや飲み物くらいを販売して飲食も出来る場所、ってだけなんだけど。

 異彩を放つのは、夏休み期間中。その間は、朝から夜まで学生がひしめき合う、ってことで、簡単な朝食に、昼食はもちろんのこと夜になってもサンドイッチくらいは売っているのだ。

 ただそれも、学校が夏休みの間だけ。なんでもこの期間学食を営業しているのは、普段市内の高校で学食を運営している会社だとか。夏休みの間は学校での営業が無いので予備校の食堂を運営しているとかうんぬん。まあ世の中はうまいこと出来ているものだ。

 で、わたしは、今日最後の授業が終わったので夕食をとりにきている…というのは、今日に限って外でご飯食べてきて、と現金を渡されていたからだ。なんでもお父さんの元同僚のひとが小料理屋を開店したとかで、お祝いに飲みにいっているのだ。別にそんなものお父さんひとりで行けばいいものを、お母さんとおばあちゃんまで一緒に行ってしまって、帰っても何も用意されていないっていう…自分で作れば、って?何が悲しくてこんな遅くまで勉強して帰宅して、自分の分だけの食事を作らなければいけないのか、って思うのだけれど、かといってお外で豪華な外食をする、って気にもなれず(こんな時間に高校生が一人で豪華な外食なんか出来るわけがない)、まあ結局何か買って帰るか、あるいは予備校の食堂で適当に済ませるか、という選択肢から後者を選んだ、というわけだ。

 何せこの選択はお金がかからない。昨日、星野さんたちと出かけてなかなか手元不如意なじょーきょーの我が財布にもたらされた慈雨、というものだ。お釣りは小遣いにしていいから、ってことなので、遠慮なく慎ましい食事をして差額を頂戴するべきだろう。

 …なんてセコイことを思いつつ、そこそこの人混みの中でフルーツサンドをかじっていた時だった。


 「こんな場所で夕食?」

 「んふぇ?………ぶっ!」


 後ろから声をかけられて振り返ったら、昨日一別して以来何も連絡のなかった…ああ、うん、LINEのメッセージが一往復しただけのひとがいた。


 「わたしと顔を合わせると何かと噴き出すわね、中務さんは」

 「…………ごめ」


 四人掛けのテーブルを一人で占領していたわたしだけれど、星野さんは向かいの席に腰掛け、頬杖付いたまま、はよ食えみたいな感じでじーっとこちらを見ている。た、食べにくいなあ……。


 「…もういいの?」

 「うん。小腹空いただけだしね。星野さんはどうしたの?」


 仕方なく残りを口の中に押し込む。まあ正直あんまり美味しいとは思ってなかったから別にいいけど。

 星野さんを前にして水を飲むと、また噴き出すよーな事態になりかねないのでハンカチで口を拭くだけで済ませておく。

 包装のセロファンをポケットに入れ、少し改まって居住まいを正すと自然と緊張感のようなものが、沸く。だって、ね。

 昨日の夜、LINEでの、やりとり…とも言えない短文の往き来のことを思い出す。

 「ふられた」とあったのだからその通りなんだろう。予想というより予定していた流れで、わたしとしては驚きも何も無いのだけれど…。


 「……どうしたの、って?わざとらしい」


 星野さんにはどうにも気に食わない態度のようだった。確かにあんな連絡をもらっておいて「どうしたの?」も何もないものだ。何があったのか聞きたがって当然。むしろ…聞いてもらいたい、とでも考えているのかもしれない。

 ……でもなー。わたし、そう簡単に星野さんの事情に首を突っ込むのが大変申し訳ない状況にあるというか。

 だって、あなたが一人で悩んで苦しんでいた同じ頃、わたしひとりえっちしてましたー、なんて言えるわけないじゃない。別に言う必要は無いのだけれど。でも、星野さんの性格らしからず、昨日あれから何があったのかを、わたしに聞いて欲しがっている。ならばこちらとしても、もー少し誠意的なものを整えた方がいいんじゃないか、と。そういう話なわけだ。


 「ごめん」


 だから、そういう意味合いで伝えた謝罪だったのだけれど。


 「謝ることはないわ。私が突っ掛かってしまったようなものだし」


 星野さんには、どうも上手い具合に伝わってはいないようだった。まあ、正確に伝わってしまって良いことではないんだけどね。

 で、話は結局振り出しにもどってしまうわけだ。

 星野さんは、昨日あった出来事についてわたしに言いたいこと…ちょっと違うか。わたしに言わないとけないことがあると、思い込んでいる。

 わたしは、まあ…星野さんの友だちとしてすべきことがちゃんとできたか、確認しないといけないと思っている。

 細かいことを言えば、わたしと星野さんの思惑を完全に一致させることなんか出来やしないだろうけど、でも星野さんの話を聞くことでわたしの義務感も向かうべき方向を定めることは、可能なのだろう。

 だから、提案した。


 「…話、する?場所に困っているようなら、今日はうちの家族が出かけて帰り遅いし、わたしの家で」

 「………うん、そう、ね。助かる、かも」


 …なんていうか、表現には困るのだけれど。

 このまま、星野さんを家に泊めるようなことになって、秋埜にヤキモチ妬かれたらちょっと困るなあ、って呑気にも思ってしまったわたし、なのだった。




 幸いというかなんというか、家にはまだ誰も帰ってきていなかった。

 多分お父さんが良い感じに酔っ払って、それで話が長引いてるんじゃないかな、って思う。

 星野さんを自分の部屋に入れて、クッションとお茶くらいを出して落ち着くのを待つ。


 「………」

 「………(ずず)」


 黙り込んだまま。お茶をすする音だけが、静かな部屋の中に白々しく響く。こーいう雰囲気、苦手だなあ…。


 「ありがとう」

 「え?」


 …と、思っていたら、湯飲みを両手で包むようにして持っていた星野さんが、正しい正座の姿勢からぽつりと言った。

 顔は、やや伏し目がちだったからはっきりとは分からないのだけれど、少なくとも皮肉を言ったつもりではないっぽい。普段の星野さんからするとひどく憔悴したようで、痛ましくはあったけれど。


 「……昨日は、今村さんと二人で水族館を見て回ったわ。彼女、色々と物知りだから水槽にいちいち立ち止まってあれこれ説明してくれたの。とても楽しかった」

 「うん」

 「水族館ってあまり明るくないでしょう?でも水槽の中は明るいから、その光りに照らされた今村さんの顔に、なんだかついつい見入ってしまって。ころころ表情が変わって、とても可愛い女の子だと思った」


 まあ、それはわたしも思う。

 けして美人ってわけじゃないけれど、その分愛嬌…っていうか、素直にかわいい子だな、って思えてしまう人徳みたいなものが、彼女にはある。そして、折り目正しい物腰を時折見せることでドキリとさせられることも。

 男の子が参ってしまうような女の子とはちょっと違うけど、振り回されながらも大切にしたくなるような女の子なんだと思う。


 「時々、私の視線に気がついた今村さんと目が合って、その度に真面目な顔になっちゃって。私はそれにどんな反応をすればよく分からなかったけど、すぐに彼女はにっこりして、何もなかったみたいに振る舞うの。でも、そんな様子が無理をしているように段々思えてきて。私と一緒にいることでもしかして彼女を苦しめているみたいに思えて、それで、帰ろうか、って言い出したの」

 「…うん」

 「そしたらね?物凄く、怒ってるみたいな、悲しんでるみたいな、よく分からない顔になって、星野先輩は、私に何か言いたいことがあるんじゃないですか、って。それで、気がついてしまった。私は、あの子のことを好きなんだって。学校でどうでもいい話をしてる時も、鵜方さんとじゃれ合いみたくけんかしてるところを見た時も、校内で一人でいる時も、私は彼女の姿を目で追っていた。どうしてそんなに気になるのか分からなかったけれど、伝えたいことがあるのなら、って考えたら気がついた」


 お盆に湯飲みを置いて、星野さんは熱に浮かされたように、ため息をつく。

 わたしの言葉を待つタイミングじゃないのかな、って思って、じっとしている。星野さんは相変わらずわたしと目を合わせようとしない。なんだろう?わたしに気兼ねしているような、そんな雰囲気だった。


 「…その場では何も言えなかった。そうかもね、って冗談っぽく応じただけで、そしたら今村さんは無表情になって、それからは一言も喋らずに館内をただ歩いて回るだけだった。でもね、そんな空気のまま一日を終えたくなんかないもの。私は思いきって、外に出て話をしないか、って誘って、もう暗くなりかけてた頃に静かなところで話をしたの。私は、あなたのことが好きなんだって」

 「…………」

 「今村さん、驚いたり気持ち悪がったりはしなかった。きっと私より先に気がついていたんだと思う。そしたらね、中務さんのことを思い出した。覚えてる?去年、鵜方さんのことが好きなんでしょう?って聞いたじゃない。自分の気持ちにもずっと気がつかないような愚鈍な女が、前にはさかしらげにそんなことを言ってたのよ。笑っちゃうでしょ?」

 「………まあ、ね」

 「…うん、ありがとう。そう言ってくれると少し気が楽になる。それでね、今村さんは苦しそうにして、それからこう言った。私のことをそういう風に見ることは出来ない、って。好きになってくれたのは嬉しいけれど、自分は先輩の気持ちに応えることは出来ない、って。それから、泣いてた。ごめんなさい、って何度も言いながら。狡いと思ったわよ。泣きたいのはこっちだっていうのに、先に泣いちゃって。年下の女の子にそんな顔されたら、私は泣くことも出来ないじゃない」

 「……」

 「それで、終わった。出来ればまた、仲の良い先輩後輩で居続けて欲しい、ってそれだけお願いして。私は卑怯だ。今村さんがそれを拒否出来るような子じゃないってこと分かってて、勝手なことを言うんだから。……ね、中務さん」

 「なに?」

 「あなたは、幼馴染みの男の子に告白して、それは叶わなかった。それから、その男の子とはどう接していけているの?」

 「……難しいことを訊くなあ」


 わたしは、大智に告白した時にはもう、秋埜に惹かれていた。だから、恋に破れたというよりは今までずうっと抱えていた気持ちに決着をつけたというだけのことだ。あの出来事は。

 だから、今星野さんがどうしようもなく持て余している気持ちに対してどう対処すればいいのか、なんてアドバイスが出来るわけない。


 「………わたしにはよく分かんないけど」


 でも、友だちにしてあげられることなら、これしか無い、って思う。

 そう思って出てくる言葉を、湧き上がってきたままに言うしかない。


 「泣けばいいんじゃないかな。今村さんの前で泣けなかった分、今泣いちゃってもいいよ。わたしは笑わないし、簡単に同情したりもしない。星野さんの気持ちは星野さんだけのものだから、それを外に出すのを応援してあげる。それしか出来ないし、それがわたしの今やるべきことだと思う。だから、ね」

 「………」

 「ここのとこ、貸してあげる。わたしの大事なひとがわたしにしてくれたように、わたしもしてあげるよ」


 とんとん、とわたしは自分の胸を叩いてみせる。

 秋埜みたいに取り縋って嬉しくなるような立派なものじゃないけれど、心を受け止めることにそれは関係ないのだから、ね。


 「………うん。ありがとう…」


 だから、星野さんは静かにわたしの胸に顔をよせて、埋めた。

 しゃくり上げるように泣く星野さんの震える肩を、わたしはそっと抱きしめて、彼女の気が済むまでそうしているしか、出来なかったんだ。



   ・・・・・



 『恋人を差し置いて他の女の子を部屋に泊めるとか、センパイどーゆー神経してんすか』

 「そういう言い方しなくてもいいでしょ……友だち思いの素敵な恋人だー、くらいは言ってもいい場面なんじゃないの?これ」


 まあ分かった上で拗ねてるんだろうけど、星野さんが泣き疲れて寝入った後に秋埜に電話したら、すこし咎められた。

 流石に布団は別で寝るわよ、って言ったら機嫌直したけれど。チョロいなー、秋埜。


 最初は静かに泣いていた星野さんだったけど、そのうち堪えていたものが止めどなく溢れてきたのだろう、もう大泣きになっちゃって、それでも辛抱強く胸を貸しているうちに眠たくなってしまったのか、静かになったので、今日はわたしのベッドに寝かせることにした。

 自分の所業の酷さに気がついてものすごーく恥ずかしそうに布団に潜り込んでしまい、本当に寝てしまった頃になってお父さんたちが帰ってきたので、わたしは事情を話して…あいや、話せるわけがない、徹夜で勉強してた友だちが帰るのも危なっかしかったので泊めることにした、って態にしたのだった。

 星野さんのお家に連絡するのは少し苦労したけれど、なんとか電話は出来て、そういうことだから心配しないでください、って伝えておいた。

 それで落ち着いて、今ようやく秋埜に報告が出来ている。


 「今村さんの方は?」

 『んー、昼は平気な顔してましたけど、夜になってウチに来て、なんかわんわん泣いてました』


 そっちもか。少し意外だけど。


 『もっちー、長女なくせして妹気質なトコありますからねー。お姉さんが出来たみたいに接して、星野センパイに悪いことをしてしまった、って』

 「…まあ、それは分かるような気がする。星野さんの前で先に泣いちゃって、自分は泣けなかったって困ってたもの」

 『でしょーねー…ずるいヤツっすよ、もっちーは』


 そこで追い打ちかける必要はないと思うのだけれど、秋埜の方も苦労?はしただろうから、おつかれさま、とだけ言って労ってあげるわたしだった。


 それからは自分たちの話になった。

 星野さんに自分の部屋を明け渡している関係で、おばあちゃんの部屋を借りての話だから際どい会話になんかなりはせず、ほんのちょっと、今日あった他のことについてやりとりしただけだ。

 そして、そんな些細な、でもわたしにとっても秋埜にとっても大切な時間を過ごしたあと、秋埜はぽつりと言う。


 『……センパイ。誰かを好きになることって、簡単なことじゃないんですね』

 「……そうだね」


 わたしは、どこか疲れたような秋埜の述懐を受けて、この一年に起こったことを思い返す。

 何かに恨みでもあるかのように、わたしは自分を、気付きもしなかった恋のために研いで、それに惹かれてしまったひとたちを拒否してきた。そのままでいたら、そのうち誰かに刺されてもおかしくはなかったかもしれない。

 でも、子供の頃のよすがに導かれて再会した秋埜に、わたしは我が身の内にそんな歪んだ想いのあることを教えてもらい、それは自分の手によって昇華した。そして残ったのは、秋埜への恋だった。


 『うちはセンパイのこと、ずっと好きでした。もしかしてうちの好きって気持ちにセンパイを巻き込んでしまったかもですけど…それでもうちは後悔してません。けど、そうなったのは運命とかそんなものじゃなくて、偶然とかいろいろあって、そうなりたいって思って、それでセンパイが…えと、うまく言えませんけど、なんていうか』

 「秋埜。大好きだよ。愛してる。ずっとね」

 『ふひゅっ?!』


 もう、どうせ秋埜は気持ちが大きすぎて言葉にすら出来ないんだから、シンプルでいいんだよ。好きだよ、って。


 『……う、もーセンパイはー……ときどきすんげぇ男前でうちを喜ばせてくれるんすからもー。ほんっと、センパイはもー』


 スマホの向こうでふにゃふにゃになっているだろう秋埜を想像してわたしは含み笑い。いつもならそうと察して口を尖らせてくるのだけれど、今日はそんな余裕も無さそうだ。わたし完勝。なんてね。


 星野さんと今村さんがこれからどうなるか、なんてわたしには分からない。

 往生際悪く星野さんが今村さんを口説き落としてしまうかもしれないし、今までとはちょっと違う空気になりつつも仲の良い姉妹みたいな関係になるのかもしれない。

 …それとも、ぎくしゃくしたまま卒業を迎えて、それっきりになることになるのかもしれない。

 秋埜は言った。誰かを好きになることは簡単じゃない、って。

 わたしは、ちょっと違うと思う。好きになることは簡単かもしれない。でも、その想いが誰にとっても幸せなものであるには、いろんなことが必要なのだろう、と思う。

 幾何いくばくかの幸運と、そして何よりもわたしたち自身の心が何者にも打ち勝って、わたしと秋埜は一緒にいる。


 「…じゃあ、おやすみ、秋埜。大好きだよ」

 『……ういす、センパイ。愛してます』


 ふと思った。こうして電話で別れる時、こんな風に恋や愛を囁いたことってこれが初めてなんじゃないかな、って。

 そうなのだとしたら、あるいは星野さんと今村さん、二人の心の絡み合いが、そう導いてくれたのかもしれないな、って我ながら当人たちには聞かせられないことを思いつつ、今の自分の心が熱を持って温かいスマホのようであることを願うわたしなのだった。


 「……ふう」

 「麟ちゃん、電話は終わったのかしら?」

 「あ、う、うん。終わったけど……どうしたの?おばあちゃん」


 襖の向こうで様子をうかがってたのかもしれないおばあちゃんが、タイミングを見計らったように入ってくる。まあおばあちゃんの部屋なんだから、文句を言えるわけもなく、わたしは向かいに正座するおばあちゃんに、相対する。

 そしておばあちゃんは、こほん、と咳払いのような真似をしてから、静かに告げた。


 「この間のお話、まとまりましたからね。麟ちゃんにも教えておいてあげようと思って」


 この間のお話…?

 わたしは薄情にも、相原先生のお見合いの話だとはすぐに思い至らなかった。

 だって、成らなかった恋の話のあとに、これから結婚に至るかもしれない話がやってくるなんて、間の悪いにも程があるってものだろうに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る