order-11: 難題

 遅めの夕食か、すでに眠っているか。眠らない街であっても、この時間帯の交通量は存外に少ない。次のタクシーはおろか、他の車も見えない。見えるライトはどれも遠ざかっていく。しばらくは一本道が続くので逃がしはしないが、追いきれないほど離れれば話が変わる。レデイアは一刻も早くタクシーに追いつく移動手段が必要になっている。


 ひとつだけ接近するヘッドライトが見えた。意味ありげにハイビームとロービームを切り替える。「・ー・ ・・ ー・・ ・」逆光の中、目を凝らしてナンバーか輪郭をどうにか確認した。セクレトの車で、乗るよう促している。


 レデイアは走り、セクレトの車に追われる形にした。リレーの走者が移るときを模して後ろへ手を伸ばす。セクレトはその意味を汲み取り、レデイアに接近し、後部座席の扉を開けた。省スペースなスライドドアは歩道のごく近くまで接近できる。位置と勢いが最適になる一瞬を狙い、レデイアはガードレールを飛び越えて、車に転がり込んだ。


「分かれ道は右、距離はおよそ四〇秒分。最高速は?」

「一四〇キロだ。トラクの車は知らんが、休憩は一分もない」

「ねずみ取りがあるみたいだけど」

「見逃してくれるさ。君もそうだろう?」


 道が続く先はトラク弁護士の事務所とは逆方向だ。しばらくタクシーから降りられる場所はないので、単に気づかれての撹乱とは思いにくい。おそらくはこの先に、トラクが別の拠点とする建物がある。そこに着くまで気づかれなければ抑えやすいが、そうまでうまく進める方法は、今の人員では物足りない。


 勝利条件に対して人員が二人だけだ。正面からぶつかれば、逃げ道を塞げず、むざむざと正体を晒すだけに終わる。出し抜く手が必要だ。しかし、人員が少ない。堂々巡りに対し、レデイアが選んだ手をセクレトに伝えた。


 座席の足元となる空間に、丸まって収まった。レデイアの背中側には飛び出すものがない。丸めた荷物に見えたらレアケースで、大抵は死角になり見えない。車に乗る者をセクレト一人だけに見せかける。気づかれる事態を前提に、最悪でも潰せる、ように見せかける。今回の目的は潜り込むまででいい。危険視に十分な、決定的な情報を伏せるのみで、対処の開始を遅らせる。


「なるほどなあ。信用するよ。安全運転は任せてくれ。大抵の車なら衝突しても吹っ飛ぶのは向こうだけだ」


 セクレトは軽口を叩きながら、目的との距離を詰めていく。ある程度の距離を保って、あくまで偶然の接近を装う。状況はレデイアにも伝える。言葉ではなく、呼吸音を使ったモールス信号で。誰かと喋っている様子が見えたら台無しだ。呼吸器にある三箇所の筋肉のうち、中段を締めて喉を鳴らす。


 トラク弁護士とそのボディガードは、後方にいるセクレトを認識しつつも、特別な警戒の素振りは見せない。周囲にも他の車がいる都合で、セクレトへ向けられる目はごく少ない。他が本物だった場合を切り捨てるには情報が足りない。進路はそのまま、目的とする建物へ向かう。セクレトはここで距離をあけて、いつタクシーが止まっても観察できる準備をした。その甲斐あり、トラク弁護士が入る建物を、ちょうど信号待ちと合わせて最後まで確認できた。


 時刻は午後一〇時〇五分。レデイアは腕時計を操作し、突入の準備をした。位置情報を本部に送り、録画と録音を始める。レデイアを車から降ろしてセクレトは反対側に回り込む。レデイアと合わせて、窓から見える光を確認する。トラクの事務所と同じ二階の一室で僅かな光が動いた。おそらくは懐中電灯の、デスクか何かで反射した光だ。ブラインド越しでもレデイアの目は誤魔化せない。


 トラクが再び出てきた。待たせていたタクシーに改めて乗り、見えなくなった後で、レデイアは目的の部屋へ向かう。出た後のトラクは、鞄の口付近に見えていた白い封筒が減っていた。大きさはコピー用紙の半分程度で、中身はセクレトが言う「重要な情報」と予想できる。


 トラクが中にいた短時間では、おそらくは書類の出し入れ程度が関の山だ。複雑な隠しかたはできない。最新の場所か、すぐに使える場所か、鍵がかかった場所だ。忍び込んだ後は、現物を奪取するか、写しを用意する。腕時計のカメラは移動しながらの撮影を想定した高速型で、大雑把に目の前を通らせるだけで記録できる。


 その過程で、障害となるものが二つある。ひとつ目は単に、目当ての書類がどこにあるか探すこと。この過程で折れ目がついたり、位置がずれたりして、証拠を残してはいけない。ふたつ目は民間のセキュリティ会社だ。セクレトの時間稼ぎには期待せず、短時間で全てを終わらせる。


 総合すると、侵入と同時に警備員が動き始める。到着までの数分の間に、目的の情報を入手し、脱出する。屋上から隣のビルに飛び移るか、状況次第で飛び降りて離れるか。どちらにしてもスピードが生命線だ。


 レデイアはまず非難経路を確認した。雑居ビルには必ず、誰でも見える場所に見取り図がある。部屋ごとの位置関係や扉を開ける方向を把握する。所要時間を少しでも減らす。窓の位置と方角から作業机に相応しい場所と、書棚に適した場所を絞り込む。一瞬の迷いが成否を分ける状況において、判断を早めるために、いくつかのパターンを想定して、どれに当てはまるか確認する。


 昼間にリグから届いていた情報に、鍵の形もあった。同じ鍵を用意できたので、こじ開けたり破壊したりに頼らなくて済む。警備会社のセンサーだけは鍵を確認できなかった。都合のいい話にはならず、急ぐ必要がある。急ぎやすいだけで十分すぎる優位性だ。


 レデイアはルートを決めた。手袋の収まり具合を確認し、右手の鍵を扉に刺した。静かに回し、同時にノブを捻る。突入だ。


 午後一〇時一二分。レデイアが扉を開けると、同時に甲高い音で警備会社への通報準備状態を知らされた。明かりは腕時計の懐中電灯機能に頼り、狭い視界で奥へ進む。ほとんど直方体の部屋に棚の裏側を仕切りにして二つに区切っている。手前には応接用の空間と小さな作業台があり、目当ての書類棚はない。レデイアは奥側の部屋に向かった。


 部屋は整っていて、出しっぱなしの書類や荷物がない。普段の動きやすさと、誰かの怪しげな行動にすぐ気づく備えを兼ねる。代償として盗む側にも探しやすくなるが、そこを警備会社との契約や到着までの時間稼ぎで補っている。配置で直進を封じていて、留守から戻ったら動かして直進が可能な状態に戻す。


 奥の部屋には大きな作業台と、大きな金庫と、壁一面を埋める書類棚が並んでいる。重要な書類は金庫の中と考えるが、リグの情報によると、トラクは本当に重要な情報を金庫から少し離れた、小さな鍵付きの棚に入れる。音から把握した情報なので具体的に何番目かは不明だが、探すべき場所が分かるだけでレデイアには十分だ。


 レデイアはまず、すべての棚の鍵を開けていく。これで鍵や扉の状況ではどこまで探したかを把握されない。続いて書類の左端からひとつを取り、置く方向と日付を確認する。隣の書類を見て並び順を把握し、上下に別の段の書類を見て使い分けを読み取る。トラクは几帳面に、日付順かつ年度順になっている。この棚からの中に目当ての封筒はない。仮に隠されていたとして、見つけるには時間が足りない。別の棚にあると決め打ちするほうが成功率が高い。


 午後一〇時一三分。甲高い音の間隔が縮んだ。警備会社への通報が間近に迫っている。レデイアは隣の棚に移った。ハードカバーの背表紙が並んでいる。そのまま見える情報がないのでここも諦めて隣に移った。三番目の棚はソフトファイルが並んでいる。厚さで目星をつけて、封筒がありそうなものを確認していく。しかし、すべてはずれだった。


 棚を当たって、ついに封筒を見つけた。中身を取り出し、腕時計のカメラに読ませる。痕跡が残らないよう、丁寧に元の場所に戻してから、念のため、時間ぎりぎりまで別の封筒を探す。特に気になったのが、ここまで几帳面な男が、ひとつだけ色がわずかに異なる置き方になった部分だ。日光に直接は晒されなくとも、わずかな反射が積み重なれば影響を受ける。レデイアでも間近で見るまで気づかなかった微かな違いだ。色への感度には男女差がある。


 午後一〇時一四分。もう限界だ。レデイアは脱出を始める。元の扉はまだ使える。出たところで、車のブレーキ音が聞こえた。次いで扉が開く音、安定した足音。このまま降りれば悶着だ。ここは二階なので、五秒もあれば彼らと鉢合わせる。


 ここは雑居ビルだ。しかも、今どき珍しく喫煙所がある。景色こそ最低な裏道で、手を伸ばせば隣の建物に届く。その狭さゆえにビル風が強く、煙をすぐに押し流してくれる。下部が封鎖されているのでなおさらだ。


 レデイアはまず柵を飛び越えて、手足を左右に突っぱり、壁で体重を支えた。スパイダーウォークだ。前後のどちらに出ても鉢合わせのリスクが大きい。屋上でやりすごす。手だけで突っ張って脚を持ち上げ、脚で体を持ち上げる。その間にも、音を立ててはいけない。この場所に意識を向ける機会があったら、必ず誰かが目を向ける。


 単純ながら体力が必要な繰り返しで、どうにか五階建ての屋上に着いた。午後一〇時一七分。ひとまずは安心できる。屋上から屋上へと飛び移り、十分な距離を取ったら、地上まで滑り降りる。シェアサイクルを使って、日付が変わった頃に本部に戻った。

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