order-16: 集団
キールの口から「レデイン・エイド」の名前を聞き、レデイアの足が乱れた。予感が確信になり、キールは銃口をロゼに向けて、レデイアには言葉を投げかける。動揺と嫌悪で心拍数が上がり、左手の傷口からの血が激しくなった。ゆっくりと吸って吐いてを繰り返しても心拍数がなかなか下がらない。ガーゼやロープを持たずに来たのは失敗だった。ついにレデイアの足が止まり、その場に崩れ落ちた。ぎりぎりで足や服は血溜まりを避けているが、新しい血溜まりができるのも時間の問題だ。
レデイン・エイドとは、レデイアにとって、かつて自分だった名前だ。実業家の豪邸で何不自由なく育った、絵に描いたようなお嬢様だ。敷地の外を知らないが、お抱えの家庭教師から学び、遊ぶ相手は歳が近い兄や、従姉妹や、父親の友人の子供たちが遊びにくる日もあった。初潮も迎えない頃はそれが世界の全てだった。誰もがどこかで似た日々を過ごしていると思っていた。
きっかけは中学生に相当する年齢の頃だ。父親の友人の第二子と会い、持ち込まれた漫画を読んだ。彼が言うには学校中で大人気だそうだが、レデインには学校がわからない。どの本にも書かれていなかった言葉だ。確認は後にして漫画のページをめくっていく。レデインが知らない世界の、見たこともない建物が描かれていた。そこでの会話によると、学校に行けないのは悲しいことで、小さな家に身を寄せて住んでいる。玄関から三歩も歩けば塀にぶつかり、食事のときは壁を背もたれにしていた。レデインに近い大きな家に住む人物もいたが、彼女は嘆き、誰かに助け出される。彼女は外の世界を知らず、誰かとの交渉材料にされかけていた。
レデインは聡い子だった。もし今まで、意図的に隠された情報があったならば、ひとつでも知った今、きっと扱いが豹変する。隠し通さなければならない。レデインには知識が与えられていた。好まれる態度とは何か。失敗する企てとは何か。印象に残る出来事とは何か。
「何これ。よくわかんない。それより君、かくれんぼをしましょうよ。今日はこっちの部屋を使える日よ」
少年の思い出から漫画を薄めて、隠れやすい場所を探させて、見つかるか見つからないかの緊張感を与える。隠れ通す成功を与えてから、自分でもわかる失敗をさせて、その音で見つける。彼との思い出をかくれんぼで上書きして話が漏れる事態を防ぎ、探す名目を使って屋敷から持ち出せそうな道具を探す。
庭で遊ぶと言って、木に登ってみたり、石や枝を投げて的当てをする。動きやすくなる技術を身にづけながら、庭の近くを通る車の音を探したり、出ていく車に手を振りながら目で追っていた。どうやら同じ方向へ向かうので、行き先のあたりをつける。
脱走の日、持ち物は少しの水だけで、昼に出発した。食事に呼ばれるまでの時間が長く、気づくまで時間がかかる。数日は飲まず食わずになるつもりで、少しでも長持ちさせる策でもある。病床で何も食べられずにいた時期もあるので、きっと大丈夫。レデインは自分に言い聞かせて、初めての外へ歩き去った。
街に着いたら、真っ先に裏路地へ向かった。目当ては危なっかしい浮浪者のオッサンだ。やがて探しの手が伸びたときに、よくできた者ほど牢獄へ突き返そうとする。これまで信じてきた全てが敵に回るならば、これまで信じられなかった中から信じるべき何かを探す。最悪でも「気がついたらここにいた」などの苦しい言い訳がもしかしたら通るかもしれない。
昼から日暮れまで歩き続けて、息も絶え絶えに手近な男に声をかけた。髭も爪も伸び放題で、服の隙間から見える皮膚は日焼けだか垢だかで黒ずんでいる。レデインがこれまで見たどの人間ともかけ離れた「信用できない人間」だ。
「お願いします。なんでもするから、どうか、匿ってください。名前はレデイ‥‥あ」
「うん? レデイアさんだって?」
息切れと合わさった言い違いと聞き返しが始まりになった。この一言で、レデインだった少女はすべての決意を済ませた。
「はい。私はレデイア。レデイア・ルルです。よろしくお願いします」
レデイアは忘れかけた過去を突きつけられた。憤りで呼吸が荒くなり、心拍数が増す。無理矢理に抑えようとし続けるが、結果は芳しくない。左手からは依然として血が流れ続けるが、痛みはなくなった。興奮状態だ。失血死までの期限は少なく見積もって一二〇〇ミリリットル、言い換えるなら献血の三倍だ。
意識を現在に戻す。今のレデイアが取るべき行動は、キールを確保すること。今はロゼが距離を詰めようとするが、遮蔽物がない都合で直線的な詰め方ができない。キールは銃を温存して屋上の端を目指す。見た限りでは、ロゼが痺れを切らして動きが単純になった瞬間を狙って撃つつもりに見える。ロゼも相当な興奮状態だ。
レデイアとロゼの付き合いは長いが、話す内容は目の前の仕事に対する情報交換だけで、過去には踏み込まずにいた。もしロゼとの間に因縁があるならば、キールはきっと、そこを刺激して冷静さを失わせようと目論む。その前にできることを。レデイアは立ち上がり、まだキールを追う構えを見せる。これでもう少し、キールの口からロゼを守れる。
「なあレデイン・エイド。車に手を振りながら、行き先を探っていたなあ。庭で遊んでいるときだ。見えていたよ」
キールは後ろ向きに走りながら、ロゼに銃を向けつつ、レデイアへの言葉を吐く。この屋上は外周の排水溝の他は細かい段差もないので、距離感さえ誤らなければ目を閉じていても走り回れる。このままならキールは最も逃げやすい位置まで離れる。
レデイアは手持ちの投げられるものを探す。キールの後ろに落として、足場の確認を要求する。右の手袋、ナイフ、無線機。道具はこの程度だ。手袋のループを緩めて、投げ込んだ。
キールはすぐに軌道を確認するか、後で足場を確認するか。時間が短いほうを選んだ。レデイアが投げた軌道なら少しだけ左へ曲がれば避けられる。
隙は一瞬だが、ロゼが見逃すはずがない。投げられるもの、鏡面加工の球をキールの顔に投げつけた。巻き取り部分ごと投げたのでもう手元には戻らないが、一度でいい。キールは頭を左へ傾けて避けるが、そのために姿勢が崩れた。ごく短い時間だが、少しだけ距離が近づく。
レデイアはナイフを投げた。拾われれば大損害だが、ロゼならそんな時間を与えない。回転をかけて投げたナイフに対し、キールは耳を使う。跳ねた音、軌道が変わってもう一度跳ねた音、そして落ちた音。キールは落ちた場所を読み切って走りを修正したが、本命には気づいていない。
キールの靴裏に、屋上にはないはずの感触が触れた。本来の摩擦のつもりでギリギリの重心を維持していたところに、液体を挟んだ弱い摩擦の一箇所は、バランスを崩すに十分な役目をした。キールは受け身を取るが、その時間でロゼが追いついた。地面と重力で行動に制限を受けるキールに対し、上をとったロゼは重力の助けを借りて動く。抵抗はすぐに終わった。
レデイアの血液だ。屋上は雨水を流すための傾斜がある。走りながら作っていた血溜まりが徐々に伸びていた。そこにナイフを投げ込んで、血をつけて、キールの足元まで移動させる。もしくは、走る方向を変えたなら血溜まりを直接踏んでいたかもしれない。レデイアのナイフは手汗の影響を減らすために持ち手が液体を吸う。このおかげで血を運ぶ役目を持たせられた。
「こちらロゼ。キールを確保しました。どうぞ」
キールをうつ伏せに押さえつけて、レデイアが拘束具を担う。手持ちがなくなった今は、まずキールのズボンを下ろして、膝でベルトを締める。こうなれば脱走はまず不可能だ。キールは観念して大人しくなった。腕は束ねようにも袖が硬く、苦肉の策でロゼのテグスを使って親指を結んだ。鬱血の危険があるので早いうちに合流して留めなおす。
ロゼが確保の連絡を送ってからすぐ、キールを抱えて階段へ向かう途中で、内側から扉が開いた。式場側スタッフの服を着た男が一人で、挨拶から話を始めた。にこやかなのはその男だけで、レデイアもロゼも警戒態勢になる。ここで関わる予定はない。
「お疲れ様でした。お二人とも大手柄ですね」
「あなたは? レデイアにこれ以上の負担をかけたくないけど」
「ご安心を。味方です。上からの指示で名を伏せますが、レデイアさんなら覚えているかと」
「その声。セクレト・アルジェーンね」
「ばれてしまっては仕方ないですね。その通り。皆様に協力するため、式場側の男性スタッフの半分ほどとすり替わっていました」
時間稼ぎをする間に、無線機の向こうではリグが確認を進めている。この話は誰にも聞かされていない。セクレトは上からの指示の通り、ばれない限りは正体を秘匿していた。裏を返せば、ばれた今は正体を秘匿しない。警察を示す手帳に、目の前の男と同じ顔がある。
「敵を欺くにはまず味方から、ですよ。どなたかも聞いているでしょう。確認用の電話番号を言います」
セクレトは末尾が一一〇で終わる十桁の番号を伝えた。リグはすぐに電話で確認する。その間もロゼとレデイアは警戒したまま、特にレデイアは左手を隠す。不調を気取られてはいけない。セクレトは対照的に、敵意がないと示すため手のひらを見せている。無線機の先からの情報でようやく警戒を解いたあとも、レデイアは手を後ろに隠している。
「信用いただけた所で、キールはこちらで引き受けます。手柄についてはご安心を。横取りなんかしませんよ。テル・リブル所長にも話を通しています」
ロゼが背負っていたキールを、セクレトは軽々と取り上げた。この場に立つ中ではセクレトが最も長身で、外見は細くとも中身はレデイア以上に鍛えられている。男性ゆえの筋肉だ。セクレトの背中を眺めながら階段を降りる。お疲れの二人はゆっくりと。ロゼは念のため、レデイアが倒れそうなら支えるつもりでいる。
「レデイアからリグ。すべて終わったよ。お疲れ様」
最後にレデイアからも連絡を送る。時間にして二〇〇分ほど、リグはほとんど全てが座り仕事だった。あちこちからの情報をまとめる都合上、休憩時間もほとんどない。それでいて、座った姿勢は立ち仕事以上に負担が大きい。レデイアはリグを休ませるため「どうぞ」もなく終わりを伝える。
酷使していた体を解しながらゆっくり歩く。すっかり休憩モードのレデイアに、無線機から怒声が届く。
「なに馬鹿なこと言ってんすか!」
音量の自動調整があるので耳は守られても、向こうでは確実に大声を出している。リグが声を荒げるのは、レデイアが知る限りでは初めてだ。異常事態と判断して聞こえる音を探す。深呼吸らしきノイズに続いて、絞り出すように震える声が聞こえた。
「まだ終わりじゃないっすよ。今すぐ、車に」
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