2話:対人交渉


 レーニは単身、シラサゴ・マウンテンへ向かった。持ち物は少なくハンドバッグにまとめている。ループの付け替えでリュックにもなるが、登山客にはとても見えない。親戚か友人の家に遊びに行く風な顔をして、秘密の研究所にアポなしでカチコミをする。


 一般の登山客ならば、電車を乗り継いでいずれかの駅へ行き、そこからバスで揺られて登山道入口に着く。険しさの関係で人気不人気はあるが、共通して駐車場がない。他のルートはおおよそ考えられない。巡行バスで近くまで行くほか、予約をしていれば送迎バスもある。おかげで周囲の住民は、バス以外ならば登山客ではないと思っている。


 今回はタクシーを使った。直接ではなく半分ほどの距離までで降りる。ここには大きめの複合施設がある。打ち合わせや、そのまま会食など、一等地から離れた穴場として有名だ。もちろん登山客も、休憩や宿泊が必要ならばここを選ぶ。


 遅めの朝食、または早めの昼食をここで済ませる。ある程度の時間を潰したら、改めて別のタクシーを拾う。同じ運転手を避けるため、他社のデザインを選ぶ。今度の行き先は住宅街だ。登山口からは遠いが、突っ切るとこっそり侵入できる秘密の入口がある。


 これらの工作は万が一に備えてのことだ。先に探知されれば警備が厳重になる。レーニはあくまで招かれざる客だ。怪物についてまとめた、秘密の情報を提示するまでは。


 目的の研究所は中腹にある。道は険しいが、距離は登山を逸れるよりも近い。


 外から見えない場所に来たらハンドバッグから着替えを取り出した。ここまでの服の上から長ズボンを重ねる。内側に膝プロテクターと、虫のよじ登り対策で裏地を靴下の中に入れる。コンバットブーツと合わせて、短時間の活動に限れば万全だ。


 草木をかき分けながら進む。万が一に備えて来た道を引き返す目印として、足跡や草が折れた跡を横方向に残している。同時に、周囲の音や匂いを探る。匂いでわかる。本来ならば山には無いはずの匂い。歯磨き粉の清々しい匂いだ。息は意外と飛んでいる。


 行方不明者が増えたと言われているが、その実は登山者ではなく警備員が多い。'補充を間に合わせるべく、警備員の求人が出ている。人間への対処は主目的ではない。つまり、練達とは程遠い者を使わざるを得ない状況だ。


 警備員の足音が聞こえた。


 レーニは息を潜めて、送られてくる音や匂いに集中した。大自然の草や土と動物の匂いに紛れて、シャンプーやワックスが混ざった文明の匂いを見つける。ひとまずは距離が離れるまで待ち、周囲には他の誰かが歩いた痕跡を探す。


 トラッキングだ。足跡を確認し、靴の大きさ、踏み込みの強さ、裏返った石ころとの位置関係など、細かな情報を集めていく。左右の踏み込み方が同程度なので、重心の偏りがない。大きな荷物を持たずに歩いている。足跡の大きさから、二人組で、体格は片方が一七〇センチ程度、もう片方が一六四センチほどだ。


 武器もなく、足跡をいくら辿っても停止した様子がない。歩幅も広く、単に歩いているだけに見える。総じて、形式だけの警備をしている。もしくは、警備ではなく散歩か。


 怪物への対処になる武器を持たないならば、ホイッスルか何かで知らせる程度の役目と想定した。少なくとも日中は。夜に備えて道を覚える途中の場合もあるが、こちらはレーニには関係ない。


 今から研究所に侵入する。



 山中に大きな建物がある。登山道からは遠く、窪地の底になっている。仮に遭難しても、セオリー通り頂上か登山道を示す目印へ近づく限り、うっかりではまず迷い込まない。ここに旧村落があったと知る世代はすでに死亡している。秘密の研究をするにはちょうどいい場所だ。


 建物の外観は木に隠された二階建てで、その奥ではさらに蔦がびっしりと這っている。どの窓でも開ければ蔦をたどって脱出できる。侵入経路でもあるがそこは警備の出番だ。迂闊な近づき方では必ず発見される。ならば打つ手は決まっている。


 正面から堂々と行く。


 研究所の玄関を開けた。引き戸は一般家庭と同じで、近くにいる誰かが必ず気付けるようガラガラと大きな音を立てた。目の前にいたのは都合よく、トイレから戻る責任者だ。


「今日のアポは無いが」


 江坂博士の言葉と同時に、奥から警備員が現れた。レーニは加害の意思が無いと示すため、片膝を着き、両の手のひらを見せて話た。


「初めまして。情報を提供するためはるばるやってきました。写真をお見せします」


 レーニの挨拶を聞いて、警備員が姿勢を正して口を開いた。

「その声、雨宮さん! お勤めご苦労様です!」

「お知り合いかね」

「前職でたっぷりしごかれまして、そのおかげで今の僕があります」


 偶然にも警備員の一人がレーニを知っていたおかげで話が早く進んだ。江坂博士の目が明らかに軟化した。警備員の彼は一定以上の信頼を得ている。レーニは覚えていない顔だが、警備員の彼も覚えられていないと思っている。お互い気に留めずに話を進めた。


 レーニはポケットから、まずは一枚目の写真を渡した。裏を見せてから表にする。暗器はない。


 写っているのは市街地の一角だ。道の奥には商店街の端を示すアーチがあり、手前の左側に車道と、右側に民家の敷地と公道を隔てる生垣がある。路側帯を示す白線はまだ新しい。


 特異な点がひとつ。動物図鑑には載っていない姿が這っている。


 誰かが手荷物を落としたようにも見える、小さく丸っこい姿。子供が作ったおもちゃに見えるかもしれない。しかしこの研究所にいるならば、この姿が何者かを知っている。


 十日ほど前に確認された、正体不明の怪物だ。詳しい理由は不明ながら、急速に成長している。どこまで大きくなるか未知数であり、行動パターンも分かっていない。建物に籠ったり、かと思えば移動したり。ひとつ確かなのは、人間を襲う場合があることだ。目撃情報によると人間を丸ごと飲み込んだことがあるらしい。


 そんな存在を放置できないが、用意できる武器ではまるで歯が立たずにいる。そこで近郊の研究所では、どうにか採取したサンプルを利用して有効な手を探している。その間に慌てさせないよう、監視を続けながら避難の準備をさせている。


「これはどこで?」

「リバーバ・ビレッジで、二週間前に。まずは二枚目以降を披露する機会がほしい」


 江坂博士は頷き、会議室に案内した。机が八角形に並び、上座の奥にホワイトボードやスペアのコピー用紙が置かれている。博士はいくつかの名前を呼びつけて、到着までにレーニは持ち込んだ資料を準備する。


「どうも初めまして。僕は――」

「名前、覚えられないから聞かない。それと、仲が悪い方がいいこともある。嫌ってね」


 レーニはホワイトボードを指して、写真を見ていくよう促す。後から来た研究員にも同様の対応を続けて、初めは臍を曲げた顔をする者もいたが、写真を見たら些事をまるっと忘れてしまった。


「雨宮さん、持ってきました」


 再生機とブラウン管の画面が運び込まれた。片手に収まる大きさの磁気テープカセットを入れて、映像を再生する。


 件の怪物が街中で人間を襲う瞬間が撮影されていた。先の写真とは別の商店街で、影の大きさから正午かその近くだ。日付は十二日前で、体躯は小中学生と同程度まで成長している。シルエットはキノコのホウキタケに似ていて、画質の問題で側面の模様や質感は何かがあるとだけわかった。


 這う速度は大人の徒歩と同程度だが、場所は雑踏だ。しかもパニックになっている。なかなか離れられずにいる群衆に、三本の触手を伸ばす。近くにいたものがやぶれかぶれで殴りつけたり、押しのけて避けさせたりした。


 映像信号がなくなって画面が青になる。再生を止めると、注目先はレーニの説明に移った。


「見ての通り、怪物は女性を狙ってる。だけど、全部じゃない。女性のうち何人かを執拗に狙う。で、調べたらそのどれもが妊婦だったってわけ。だから私も妊娠してから来た」


 怪物に関する話に集中して聞き流しそうになった言葉があった。

「妊娠してから?」

「そう。あとはこいつを殺す道具も借してほしい」

「囮になるつもり、ですか」

「こっちを狙うなら対処しやすくなるでしょう。それにさ」


 レーニは椅子に座って続けた。

「最悪でも情報が手に入る。成功ならそれでよし、失敗しても、そのときはクズ一人が死ぬだけの話だ。これは分のいい賭け。そうでしょう」


 研究員たちは顔を見合わせたが、意見は一致している様子だ。

「勝ち目がない状態では賛同できない」

「じゃあ、とっておきの情報をお話ししましょう。実はあの怪物は、もう一匹いた。だけど、そっちはもう死んだ、これでね」

 レーニは小瓶を見せた。中身は空だが、重要なのはラベルだ。五角形と直線が繋がった図が描かれている。


「これをかけたら一匹は体の中心部が崩れて死んだ、と情報を得てる。触手だけが残ったけど、すぐに動かなくなったともね。私より詳しい方なら用意できると思って、ここに来たの」


 研究員たちは頭を捻った。

「だが採取したサンプルでは何も――いや違うな。サンプルを得たのはそれのおかげだった」


 研究員たちの表情が明るくなった。特に中心となる江坂博士は責任の重圧があった分、解放されかけた喜びが誰よりも目立つ。

「これは本当に勝てるかもしれない」

「勝ち目がある。賛同してくれるね」


 自らの発言もあって、レーニへの返事は決まっていた。

「わかった。認めよう。責任は私が取る。それが役目だ。放っておけば誰が死ぬかわからないが、少なくとも一人に抑えるのは難しい」

 レーニは右手を出した。

「いい答えだ」


 レーニを奥に案内した。先行した研究員が実験記録の棚から一三番を取り出す。箱の中身は短剣だ。


「詳しい材質は伏せるが、こいつの刃ならちょうどいい。使う前に塗ったら表面に保持してくれる。今回で短剣は不向きに思うかもしれないが、実験用具を蓄える倉庫にも限りがある。すぐに手配するが、その前に必要になる場合もあるだろう。持っておいてほしい」

「受け取る」


 レーニは会議室に戻り、机を乗り越えた中心で、素振りを始めた。用意するとは言ったが、長剣や槍よりもナイフの間合いに慣れている。骨格の都合もあるので、余程でなければこのまま短剣を使うつもりだ。


 単に右手に持っただけでは重心が右に偏ってしまう。それで本来の強さは引き出せない。右が重くなる分、どこかで左に寄せる。振った姿勢ごとに重心の変化を体に覚えさせる。


 熟練とは、骨格を最適な歪みかたにすることだ。歪みと呼ぶせいで印象が悪いが、特定の行動以外に支障が出た時点で初めて問題になる。ちょうどこの短剣の持ち手部分を、整った円柱から歪ませて握りやすくすることと似ている。


 所内に放送が流れた。レーニは短剣を鞘にしまい、出発の準備をする。


「怪物、移動を始めました」

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