『ぼさぼさ女の怪物退治』
エコエコ河江(かわえ)
昭和の末の
1話:胎児を得る
薄暗い裏路地には貴重な灯りがある。通る用事といったらゴミ漁りか犯罪行為か、周囲の道を知らなければ近道のつもりで迷い込むか。空調の室外機がやかましい道を進み、ひとつ曲がると
「全品二百円」と手書きの張り紙。その下にあるショウケースに様々な銘柄と粗品が並んでいる。この粗品を目当てに、タバコに四倍の値段を出す常連客もいる魅惑の粗品だ。
若い主人、
立ち上がると同時に、アルトの声が転がり込んだ。ぼさぼさの長髪、ダボダボのパーカー、ホットパンツの下にはタイツと、くたびれたスニーカー。名前は
「おい、私を妊娠させろ」
二人の関係は、居酒屋でのアルバイトから始まった。当時の雨宮は高校生で、槙田は大学生。肩書きこそ違うものの、同い年も同然の一年差だった。他の従業員はもっと歳上が多く、感性も話題も近い。恋仲になるまでの時間は短かった。
お互い、学校でついたあだ名を教え合った。
雨宮はレーニと呼ばれる。トラブルのたびに弱者に味方する姿勢から、ちょうど授業で名前が出たレーニンをもじった。名前の雨ともかかっていて、さらには仲のいい友達が「令に頼む」などの振りをよく使った。
槙田はキマと呼ばれる。名前を逆さに読むのが流行って、他の友人たちも斎藤はイッサと、浅田はサーと呼ばれていた。多くは歳を重ねるにつれて別のあだ名になったり、本名に戻ったが、槙田だけは変わらずキマーと呼ばれ続けている。目立つ一因は、新メニューの会議を締めた「キーマカレーに決まりました」だ。
二人は恋仲になったが、それ以上の進展がないままで、レーニは卒業してすぐに消息を絶った。唯一、手紙だけは送り合っていたが、その消印と宛先は毎回違っていた。
どこかでアウトローな活動をしているか、逆に取り締まっているかと予想していた。華奢な外見に反して力持ちなため、キマも含めて頼りにされていた。大学を卒業する頃に再会してからも、レーニの考えで念のため婚姻を結ばずにいる。
今日は、初めてレーニから頼まれごとをした。その時が来たら手伝おうとは思っていたが、内容が予想外だったので、キマは答えあぐねる。
「聞こえなかったか? 私を妊娠させるんだよ。中学校あたりで習っただろ」
「つまり、セックスの誘いか」
「どっちでもいい。早くしろ」
レーニはカウンターを乗り越える勢いで手をかけた。
「やめろ割れる! わかったから、ドアから入れよ」
レーニはようやく静かになり、案内の通り扉に向かった。
二人が最後に顔を合わせたのは先月の、レーニが里帰りをすると聞いた以来だ。言葉は乱暴で身だしなみも雑だが、やるべき行動は素早く的確にこなしていく。こう見えて面倒見がよく、キマが酔っ払いに絡まれた日も、すぐに首のツボを指圧して助けてくれた。
今回もきっと、誰かの面倒ごとを解決する一環で妊娠が必要なのだとは思う。それでも念のため、確認しなければならない。
「シャワー先に使えよ」
「いらん。さっさと始めるぞ」
「なら理由だけ聞かせろ。妊娠してどうする」
レーニが珍しく、答えるまで時間を空けた。
「妊婦を狙う奴がいる。そいつを誘き寄せる」
やっぱり、とキマは顔に出した。どこかでアウトローな連中と戦っている。目的のためならどんなことでもしそうな雰囲気だったが、本当にリスクでもなんでも背負っている様子だ。
レーニは机を占拠して、下半身に着ていた服を置いた。
キマもやや遅れて下半身からひとつずつ脱いでベッドに置く。こちらは丁寧に畳んでいる。
まずは乳房に手を伸ばした。これまで通りの、好みの初手だ。
しかし今日に限ってはこれを制した。
「いいから早く勃てろ。気持ちよくさせるのは戻ってからだ」
レーニは軽く刺激を加えて、十分な硬さを確認し、自らの下部にあてがった。体重を使い、奥まで一気に肉をかき分ける。
「動かすぞ」
キマの提案に対し「もっと早い手がある」と答える。
レーニは結合部の先まで手を伸ばし、手のひらで睾丸を包んだ。
「おい、まさか」
「痛かったら言えよ」
レーニは手のひらにゆっくりと力を込める。力加減を熟知していて、膨らんだ睾丸は痛みを発しない。睾丸の中身が移動できる先を探す。精管を的確に避けて力を込める。乳搾りと同じだ。精子が押し出される。先端から力なく吐きだされていく。刺激に対する感覚が知っていたものと剥離している。違和感に、キマは声を小さく漏らした。
「こんなもんだろう」
事を済ませてレーニは立ち上がった。手を洗い、服を着直す。ビニール袋から取り出した革手袋と膝のプロテクターをつけていく。
「行き先は?」
着替えながら必要な話をする。
「シラサゴ・マウンテン。聞き覚えは?」
「行方不明者が増えて登山禁止になった山。ニュースで聞いたな」
「その通り。ただし、行方不明者はフェイクだ。本当はとある研究所がある」
「さっきと話が違うぞ。妊婦を狙う誰かを誘き寄せるんだろ」
「妊婦を狙う人間がいる、とは言わなかったな」
レーニは決意に満ちた顔で振り返った。
「怪物退治をする」
突拍子のない言葉だが、レーニはこういう冗談は言わない。信用した。
「凱旋するなら多分、俺がいるのは実家だぞ。このごろ住んでる実績がやばくて追い出されそうだから、明後日から二ヶ月くらいは早めの夏休みだ」
「覚えておこう。健闘を祈っていてくれ」
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