『ぼさぼさ女の怪物退治』

エコエコ河江(かわえ)

昭和の末の

1話:胎児を得る


 薄暗い裏路地には貴重な灯りがある。通る用事といったらゴミ漁りか犯罪行為か、周囲の道を知らなければ近道のつもりで迷い込むか。空調の室外機がやかましい道を進み、ひとつ曲がると静かましになる。決して他の用事がない裏道にひっそりと、建物に直接窓口をつけるタバコ屋がある。


「全品二百円」と手書きの張り紙。その下にあるショウケースに様々な銘柄と粗品が並んでいる。この粗品を目当てに、タバコに四倍の値段を出す常連客もいる魅惑の粗品だ。


 若い主人、槙田征夫まきたいくおは薄汚れたスツールに座り、売り物だったタバコのひとつを私物化して吸いながら、目はテレビと雑誌を往復している。夕方のニュースキャスターが斜め向きに挨拶をした。今日の客はもう来ないだろう。早めだが、店を畳もうとしていた。


 立ち上がると同時に、アルトの声が転がり込んだ。ぼさぼさの長髪、ダボダボのパーカー、ホットパンツの下にはタイツと、くたびれたスニーカー。名前は雨宮令あめみやれいという。手荷物のビニール袋をカウンターに置き、要求を伝えた。


「おい、私を妊娠させろ」


 二人の関係は、居酒屋でのアルバイトから始まった。当時の雨宮は高校生で、槙田は大学生。肩書きこそ違うものの、同い年も同然の一年差だった。他の従業員はもっと歳上が多く、感性も話題も近い。恋仲になるまでの時間は短かった。


 お互い、学校でついたあだ名を教え合った。

 雨宮はレーニと呼ばれる。トラブルのたびに弱者に味方する姿勢から、ちょうど授業で名前が出たレーニンをもじった。名前の雨ともかかっていて、さらには仲のいい友達が「令に頼む」などの振りをよく使った。


 槙田はキマと呼ばれる。名前を逆さに読むのが流行って、他の友人たちも斎藤はイッサと、浅田はサーと呼ばれていた。多くは歳を重ねるにつれて別のあだ名になったり、本名に戻ったが、槙田だけは変わらずキマーと呼ばれ続けている。目立つ一因は、新メニューの会議を締めた「キーマカレーに決まりました」だ。


 二人は恋仲になったが、それ以上の進展がないままで、レーニは卒業してすぐに消息を絶った。唯一、手紙だけは送り合っていたが、その消印と宛先は毎回違っていた。


 どこかでアウトローな活動をしているか、逆に取り締まっているかと予想していた。華奢な外見に反して力持ちなため、キマも含めて頼りにされていた。大学を卒業する頃に再会してからも、レーニの考えで念のため婚姻を結ばずにいる。


 今日は、初めてレーニから頼まれごとをした。その時が来たら手伝おうとは思っていたが、内容が予想外だったので、キマは答えあぐねる。


「聞こえなかったか? 私を妊娠させるんだよ。中学校あたりで習っただろ」

「つまり、セックスの誘いか」

「どっちでもいい。早くしろ」

 レーニはカウンターを乗り越える勢いで手をかけた。

「やめろ割れる! わかったから、ドアから入れよ」


 レーニはようやく静かになり、案内の通り扉に向かった。


 二人が最後に顔を合わせたのは先月の、レーニが里帰りをすると聞いた以来だ。言葉は乱暴で身だしなみも雑だが、やるべき行動は素早く的確にこなしていく。こう見えて面倒見がよく、キマが酔っ払いに絡まれた日も、すぐに首のツボを指圧して助けてくれた。


 今回もきっと、誰かの面倒ごとを解決する一環で妊娠が必要なのだとは思う。それでも念のため、確認しなければならない。


「シャワー先に使えよ」

「いらん。さっさと始めるぞ」

「なら理由だけ聞かせろ。妊娠してどうする」

 レーニが珍しく、答えるまで時間を空けた。

「妊婦を狙う奴がいる。そいつを誘き寄せる」


 やっぱり、とキマは顔に出した。どこかでアウトローな連中と戦っている。目的のためならどんなことでもしそうな雰囲気だったが、本当にリスクでもなんでも背負っている様子だ。


 レーニは机を占拠して、下半身に着ていた服を置いた。

 キマもやや遅れて下半身からひとつずつ脱いでベッドに置く。こちらは丁寧に畳んでいる。


 まずは乳房に手を伸ばした。これまで通りの、好みの初手だ。

 しかし今日に限ってはこれを制した。

「いいから早く勃てろ。気持ちよくさせるのは戻ってからだ」


 レーニは軽く刺激を加えて、十分な硬さを確認し、自らの下部にあてがった。体重を使い、奥まで一気に肉をかき分ける。


「動かすぞ」

 キマの提案に対し「もっと早い手がある」と答える。

 レーニは結合部の先まで手を伸ばし、手のひらで睾丸を包んだ。


「おい、まさか」

「痛かったら言えよ」


 レーニは手のひらにゆっくりと力を込める。力加減を熟知していて、膨らんだ睾丸は痛みを発しない。睾丸の中身が移動できる先を探す。精管を的確に避けて力を込める。乳搾りと同じだ。精子が押し出される。先端から力なく吐きだされていく。刺激に対する感覚が知っていたものと剥離している。違和感に、キマは声を小さく漏らした。


「こんなもんだろう」

 事を済ませてレーニは立ち上がった。手を洗い、服を着直す。ビニール袋から取り出した革手袋と膝のプロテクターをつけていく。


「行き先は?」

 着替えながら必要な話をする。


「シラサゴ・マウンテン。聞き覚えは?」

「行方不明者が増えて登山禁止になった山。ニュースで聞いたな」

「その通り。ただし、行方不明者はフェイクだ。本当はとある研究所がある」

「さっきと話が違うぞ。妊婦を狙う誰かを誘き寄せるんだろ」

「妊婦を狙う人間がいる、とは言わなかったな」


 レーニは決意に満ちた顔で振り返った。


「怪物退治をする」


 突拍子のない言葉だが、レーニはこういう冗談は言わない。信用した。


「凱旋するなら多分、俺がいるのは実家だぞ。このごろ住んでる実績がやばくて追い出されそうだから、明後日から二ヶ月くらいは早めの夏休みだ」

「覚えておこう。健闘を祈っていてくれ」

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