断片


 事務所を出て一時間も経っていないだろうか。

 円タクは港に近い倉庫外の一角で停止した。

「あそこの建物が事件現場です」

 瀬葉が指差す先には、民家ほどの小さな建屋が見えた。

 円タクから降りると昨夜の雨で地面がぬかるんでおり、ぐにゅぐにゅとした嫌な感触が足裏から伝わり、僅かに洋靴を汚した。

 全員が降車した後、瀬葉が運賃の支払い終え走り去ろうとする運転手に寺城は運転席側の窓を叩いて引き止めた。

「なんだい嬢ちゃん。オイラまだこれから仕事があんだい」

 気の短そうな運転手に寺城は五〇銭札をチラつかせながら口を開いた。

「何、そんなに時間をとらせることじゃないさ。ただ申し訳ないが、このまま真っ直ぐ走り去らずに来た方向に引き返して帰ってくれないか?」

 運転手は寺城の意味不明な要求に困惑しながらもその両目は左右に揺れる五〇銭札に合わせて揺らめいている。

「へ、へへしょうがねぇなぁ。ちょいと面倒だがこんな可愛らしいお嬢ちゃんに頼まれちゃ断れねぇなぁ」

 寺城が運転席に五〇銭札をねじ込むと、運転手はウキウキと最小限の動作で泥さえ跳ねさせず元来た方向へ引き返していった。

「さて、現場を踏み荒らさないようには言い付けてあるんだろうね?」

 寺城は二重回しの内側から虫眼鏡を取り出しながら瀬葉に尋ねた。

「一応言いつけておいたのですが……」

 その言葉に寺城は少し眉を顰めると何も言わず、汚れるのを恐れず屈みこみ、じっくりと地面を観察しだした。

「瀬葉、君はこれ以上現場を荒らさないよう、先に行って監視していたまえ。間違っても足元を疎かにして証拠を踏み荒らさないようにしてはいけないよ」

 そう言われた瀬葉は、急いで慎重に地面を踏み荒らさないよう走ると離れ業を駆使し建屋へとすっ飛んでいった。

 その後を彼女は蝸牛が地面を這うようにゆっくりと、寝る子を起こさないように慎重に進む。

 しかし、こんな泥だらけの地面に昨夜の殺事件の証拠が残っているとは到底思えない。

 まさか犯人が自分の名前が入った品物を落としているわけでもあるまい、今ここに残っているものなど複数の足跡とタイヤ痕くらいのものだ。

 立っているだけで足の周囲に、泥水が寄ってくるような所で裾の汚れすら気にせず地面を凝視する彼女のそれは、知らない者からすると頭のおかしい狂人と思われても仕方のないほどの集中力である。

「寺城さんそんな汚い地面なんか見て、何かわかるんですか?」

 ジリジリと亀の歩みで建屋近くまで来たと思えば、足跡が酷く踏み荒らされ、轍も深く沈み込み余所より一倍渇きが悪く、所々泥水が未だ多く残っているで停まり、酷く熱心に観察する彼女に俺は聞いてしまった。

 彼女は座ったままこちらを見上げると、パイプを咥えゆっくりと立ち上がってしなやかな黒猫のように伸びをした。

「色々さ。君の目には何も見えないのかい?」

 一見年端も行かない少女からこんな風に言われては流石にカチンとくるものがあった。

「深い轍と無数の足跡、それから泥濘に泥水ですかね。探偵様は随分と眺めておいででしたが、これ以上のことが何かわかるんでしょうか?それとも幽霊や小人の証言でも得られましたか?」

 流石に言い過ぎたかと思ったが、寺城は然も当然という風に気にする様子もなく、むしろ僅かに愉快そうに口を開いた。

「それだけ見えていれば、更にそこから発見できるであろう事柄もあるわかると思うのだがね。もし君のその形の良い頭が飾り出なければの話だけどね?」

「……っ!!」

 頭にキてこみ上がった怒声を飲み込んだ。

 ここで感情に任せては、彼女の言うとおり俺の頭は帽子を載せるか髷を結うくらいにしかならないただの飾りだ。

 俺、恥を捨てしゃがみ込み、彼女の見ていた泥濘に目を凝らす。

 泥、轍、泥濘、無数の靴跡、深い大きな足跡、一層深い小さな靴後、深い轍に盛り上がった左右の泥……

「ここに車が停まっていた?それも長い間、更に長時間中を窺がっていたように小さな足跡――もしや犯人?いや、警察官か発見者の可能性は……」

 雨の中長時間人が外で立っているとは考えずらく、またそうであったとしても長雨で消えてしまう可能性も否定できない。

 であるならば、この痕跡は雨が上がった昨日にできたものである可能性が高く、当然犯人の物の可能性も十分にある。

「ふむ。それだけかい?」

 寺城の大きく、深く、美しい――目は口ほどにものを言うと言うが、この海よりも深く、宇宙の深遠に落ちていくような瞳が彼女の表れだというのならば、それは何を訴えているのだろうか――瞳が、俺を見透かすように覗き込んだ。

「……わかりません。俺にはそれが限界です」

「自分の限界をそう簡単に決めてはいけないよ」

 以外というか何というか、あってまだ数時間も経っていないが、この人がまともそうな事を言う事に俺は驚いて、俺は彼女の顔をまじまじと見た。

「確かに人間には限界があり、個々にそれの限界には違いがある。しかし、それは己で考えている以上に先があり、またそれの限界を超えられる事は決して不可能では無い」

 寺城は妙に貫禄のある動作で顎を撫でながら、中年親父の人生観の様な事を語るとクルりと杖で指し示した。

「車輪の位置と形状から察するに古いT型フォードだね。憶測だけど、円タクじゃないかな?そこから降りる二つの足跡、一つは後部座席から、もう一つは運転席からだ。二つの足跡は共に建屋に向かっているが、戻った足跡は一つ、運転席から出てきたもののみだ。つまり、運転手が乗客を殺し逃走したと見るのが妥当だろう」

 彼女は杖をまるで指揮棒のように操り、その現場を見てきたかのように話し、情景を俺に幻視させる。

「運転手の男は、円タクの運転手の前に別の仕事、それもよく歩く職についていたか、今でもよく歩いているんじゃないかな。靴底がかなり磨り減っているし、左右で歩幅と足跡のつき方が少し違う、足に何か障害がるのかもしれないね。そして、歩幅と足跡の大きさから背は小さいと見るべきだ。五尺から四尺八寸程度とみるべきだろう」

 そこまで語ると彼女は軽くパイプをふかし、なんでもないように――しかし、どうだと目が語る――こちらを見た。

 俺は自身が愚かだとは知っていたが、頭は良い方だと理解していた。

 しかし、たったこれだけの事でこんな年端も行かない少女――実年齢は知らないが――に、ここまで諭されるとは夢にも思っていなかった。

「本当に貴女はホームズのような人だ」

 完敗だった。

「まったく、その小さな頭にどれだけ灰色の脳細胞が詰まっているのか知りたいものです」

 寺城は満足そうに目を閉じて煙を味わった。

「探偵を褒める時にホームズを引き合いに出すのは安っぽくも感じるが、その素直な感想は嫌いでは無いよ」

 彼女はクルリと二重回しを翻すと建屋に向かって優雅に歩き出した。

「観察と記憶とそれらを生かし組絵を正しく完成させる思考の大切さを理解したら証拠を消さないように気をつけて歩きたまえ」

 俺は彼女の後をゆっくりと慎重について行く。

 今度は彼女が何を見て、何を考えいえているのか、その深淵を探るように。・

 建屋の敷地前の門には、初老の警官と若い警官の二名が立っていた。

 最初若手の警官が寺城と俺の奇妙な組み合わせを訝しげ、声をかけようと動いた所を初老の警官が黙って静止し、寺城を敬礼で迎えると若い警官も怪しげにそれに習った。

「寺城さん!」

 門を潜ると忠犬の如く瀬葉が寺城の元へ駆け寄ってきた。

「これが鍵です。内部は事件発覚時と同じ状況にしてあるので、外へ通じる戸や窓は全て鍵がかかっています」

 つまり、彼女が言っていたように完全なる密室であるわけだ。

 寺城は鍵を受け取るとまずその鍵を注意深く観察した。

「この鍵はどうしたんだい?」

「はっ、第一発見者の持っていた、死体発見時に中に入るのに使用した予備の鍵です」

 彼女をそれを聞くと鍵を懐に仕舞いうと、踏み荒らされグチャグチャになり大きく泥水の溜まった入り口前の地面と丹念に確認し、更に鍵穴や扉そのものを丹念に調べた。

 俺も彼女を真似て同じところを観察してみるが、これといって何か引っかかる物はまだない。

「何か分かりましたか?」

 彼女は何も言わず杖で鍵穴と扉前の地面を指し示した。

 示されるままにもう一度、今度は彼女よりもそれに顔を近づけよりじっくりと観察する。

 何の変哲もない木製の扉に取り付けられた真鍮製の握りと鍵穴。

 その鍵穴に顔を近づけよくよく観察してみると、穴の縁に小さな金属傷――それもかなり新しい――が無数についていた。

 今度は地面に目を移す。

 かなり踏み荒らされており、先ほど確認した犯人と被害者の物と思わしき靴跡以外にも無数の靴跡があるが、恐らくこれは第一発見者と警官達の物ではないかと思われる。

 その中で一番はっきり跡が残っている物、それは犯人の物と思わしき小さな靴跡だ。

 残った足跡の中で一番小さいにもかかわらず、また、残っているものの中でも古い物にもかかわらず一番深くまで足跡が沈み込んでいるのだ。

 こらは、犯人がこの場で長時間動かずにいたことを示すのでは無いだろうか?

 それは何の為に?

 中を覗いていたのか?

 いやそれだけでは無いはず…

「さて、ボクは建屋の周りを一回りするとしよう。いや、瀬葉はここで待っていたまえ」

 顔を上げるとついて来ようとする瀬葉を静止し、寺城は既に歩き出していた。

 俺は立ち上がり、現場を荒らさないよう細心の注意をしつつ急いで寺城に追いついた。

 と言っても彼女は、円タクから此処まで来た時と同様、慎重に足元から壁まで丹念に調べ上げているのですぐに彼女の横まで着き、見様見真似で彼女の視線の先を観察する。

 俺にとっては平らな水面同然の景色も、彼女にかかってはその下に隠れた障害物やかけ上がり、そこに潜む大物の影まで見えているのかもしれない。

 そう思いながらも、必死で同じ物を見ようとして後を追った。

 そして、俺の目に何も映らないまま半周を迎えようとした時、丁度正面入り口の反対に位置する所に一目でわかる変化、裏口を発見した。

 その裏口から伸びる無数の足跡、それは先ほど玄関にあった足跡の中にもあり、犯人の物でも被害者の物でもない第三者の足跡と同じであった。

「寺城さんこれは……」

「ほぼ同じ足跡ばかりだね」

 裏口と更に敷地外に続く足跡はそのほとんどが一つの足跡で占められていた。

 寺城と俺は自然とその足跡を追うが、それは敷地外に出てすぐのところで引き返し、勝手口へ向かうという行動を何度も繰り返している。

 そして、その敷地外には明らかに円タクとは違う、恐らくトラックの物と思われるタイヤ痕が残っている。

「これは、何かを運び入れていたのでしょうか?」

「いや逆だね。運び出していたのさ」

 その言葉に俺はハッと足跡を再確認した。

 裏口へと戻る足跡の方が浅く、外へと向かう足跡の方が深くなっている。

「寺城さ……」

 寺城を振り返ると、彼女は既にその場を離れ今度は裏口の方を調べていた。

「何かありましたか?」

「いんや。こっちの扉は綺麗な物さ」

 言われ鍵穴を見るが、確かに正面入り口のような傷は見られない。

「それで君はここまでで何か分かった事はあるかい?」

 彼女は俺を試すような目で見ながらゆっくりとパイプをふかした。

「まず、怪しい人物が二名いますが共犯の可能性は低そうです」

 寺城は黙ったまま目を伏せ腕を組んでいる。

「俺は犯人はこの裏口から出入りしている方ではないかと考えています」

 そう付け加えると彼女は僅かに意地悪そうに口元を歪めた。

「君がどう考えてその結論に至ったかはわかるがね。犯人の予測を口に出すには時期尚早だよ?」

 彼女はそう言うとパイプを咥えたまま口から紫煙を吐き出した。

「口に出した予測は確信へと変わる。不確かな確信は、深淵へと変わり。深淵は証拠を隠し、偽りを生み出す。」

 彼女は灰を捨てパイプを懐に仕舞うと、表口へ向かう残り半分を調べだした。

「まずは調査を徹底的に行う。集まった無数の断片を繋ぎ合わせ、断片を断章に、断章を一冊の本(事実)まで紡ぎなおしてしまえば、犯人の正体なんてオマケは自ずとわかってしまうものさ」


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