黒の研究
ホームズ
「ここか」
俺は荷を地べたに降ろしポケットから拾った求人広告を取り出す。そして、風に吹かれる紙と目の前のレンガ造りのモダンなビルヂングを交互に見た。
『寺城諮問探偵社助手募集。経歴不問。給与、雇用条件応相談。住ミ込ミ可――氷菓街二二一鳩村ビルヂング二階迄』と、最初は丁寧に、しかし最後の方はダレてきたのか、いい加減な癖字で書かれた――幾許か不安はあるが――まさに自分の状況にうってつけの求人広告。
昨日まで降っていた連日の長雨に耐えかね、暖かさを求め予想外の出費を強いられた俺の懐は、この冬間近の寒空並みに冷え込んでいる。
住所どおりなら目の前の赤いレンガ造りの壁にヤドリギの蔓が走り、黒瓦が洋風の建築に違和感を持たせず屋根に鎮座するこの建物が目的地のはずだが、探偵などという胡散臭い存在が住むにはどうにも不釣合いな場所に思える。
いや、知人に探偵がいるわけでもなし、どんな所に住んでいるのが正しいと言うつもりは無いし、この和洋折衷のモダンなアパルトメントに小さな探偵社が入っていてもおかしくは無いのだが、どうにも信用ならずジロジロと観察していると、扉に紙の剥がれた跡がある。
手にある求人広告を当ててみるとそれにピッタリと合わさる。
「ここから飛ばされてきたのか」
はてさて、どうにも違和感を覚えるのだが、足踏みしていても時間は経つし腹も減る。
ええいっままよ。
俺が僅かに錆びの浮いた獅子の顔をしたドアノッカーをカカッと鳴らすと、少し間をおいて。
「はい。ただいま」
と返事がし、僅かな足音の後ゆっくりと扉が開かれた。
「どちらさまでしょうか?」
なんとも美しくお淑やかであり、それでいて氷の如く感情の少ない涼やかな瞳と表情には芯の強さが窺がえる、上品そうなご婦人が姿を現した。
歳は御いくつぐらいだろうか?
俺と同年代ほどにも見えるが、その瞳の落ち着きは一〇や二〇の女性では持ち得ない、まるで幾年もの年月と経験を経て悟りのような境地に至った老淑女のような静寂たる安心感、落ち着きがある。
しかし、雪のように白いその肌の艶ハリは正に少女のように瑞々しく、それこそ玉の肌と表現するしかないほどに美しく見える。
「あの、申し訳ございませんがどちら様でしょか?」
「これは大変失礼しました。実はこちらの求人を見て来たのですが、寺城探偵社はこちらでよろしいでしょうか?……あ」
少しの間見蕩れてしまい気が抜けていたせいでうっかりと拾った紙を出してしまった。
「いえ、コレは俺が破いたわけではなく――」
慌てて釈明する俺に女性は紙を受けとるとそれを少し眺め、丁寧に畳むと冷静に言葉を紡いだ。
「承知しております。数日前から剥がれそうになっているので貼り直すようにと伝えていたのですが、いつまでもそのままになっていたのですが、今朝見たところ何処かに飛んでいってしまっておりました。わざわざこれを届けに来て下さったのですか?」
このような美人な大人の女性に勘違いされずにすんだのは良かったが、自分でもわかる程度には慌て恥かしい醜態を曝してしまった。
先日のやりすぎた失敗といい、体が大きくなろうとも自分はまだ子供なのだと心身ともに骨身に沁みる。
しかし、幾ら美人だとはいえ、初対面の女性にドギマギするなど、思春期の少年らしい一面が自分にもあったというのは少し驚きだった。
「いえ、そうではなくこの求人に応募出来ないかと思いまして……やはり、若すぎますか?」
女性は疑い半分、哀れみ半分のなんとも言えない表情を浮かべた後、少し俺の様子を観察すると諦めに近い息を吐くと少し頭を下げた。
「では、寺城の事務所へ案内しますのでこちらへ」
俺は急いで荷を引っ掴み、ススッと音もなく歩く女性の後に続き玄関を抜け二階へと続く階段を登った。
女性は俺が追い付くのを待ち、二階に上がってすぐの扉を軽く、しかししっかりと響くようにノックした。
「寺城さんお客様です。求人を見ていらっしゃったそうですよ」
少し待つが返事は無い。
しかし、扉の向こうからは僅かな衣擦れの音、呼吸音、人の気配がする。
女性が先ほどより強くノックをすると僅かにズレた様な少女とも老婆ともつかない不思議な声色の音が返ってきた。
「鍵は開いているから勝手に入ってきてくれ」
寺城という人物は女性であったのか?
いや、他の職員のという可能性もあるが、それにしては態度が尊大というかいい加減な気もする。
俺は案内してくれた女性の顔を見るが、彼女は諦めているかのような最初の感情の少ない顔に戻り頭を下げると階下に降りていった。
「失礼します」
俺は少々の不安を胸にゆっくりと扉を開き中へと足を踏み入れた。
「ようこそ寺城探偵事務所へ」
そう嘲る様な声色で迎え入れたのは、僅かに甘酸っぱい紫煙漂う薄暗い部屋の中、無造作に脱ぎ捨てられた質の良い洋装や無数の紙束、本や雑貨、クッションと洋服が山になって埋もれかかったソファーに沈み込むように寝転がった、黒のシミーズ姿のただ美しいと表現するには怪しく危うく狂気じみた異様の美が溢れんばかりの幼い少女らしき存在だった。
パタンと扉が無慈悲な音をたてて退路を遮った。
彼女は夢の中にいる様なこの世以外の何処かを観ている様な、そんな恍惚にも似た表情でパイプを咥えながら、だらしなく新聞を目の前に広げたまま俺の方を向いてぬらりと口を開いた。
「まぁ、好きな所に掛けたまえ、立っているのか好きならばそれでもかまわないが?」
推定少女は、薄く血塗られたような桃色の唇を琥珀製の吸い口から離し、紫煙を吐き出しながらそう言うと挑発的に口元を緩めた。
しかし、好きな所と言われても少女の掛けているソファー以外、足の踏み場すら危ういほどに物が散乱している始末。
俺はそれらを踏まないように避け、少女に許可を取り椅子から物を退かし何とか座るところを確保する。
座ったところで少女が僅かに口の端に嫌な笑みを浮かべ俺を観察している事に気づき、俺は負けじと彼女を見返した。
年頃の少女が、多量のレースで飾られた夜会服の様な黒のシミーズ姿を曝すなど、淫蕩なフラッパーの如き破廉恥極まりない行いだが、彼女のそれは艶やかで可憐、そして刃のように美しく、たとえどれほどの下種であろうとも手を出すのを躊躇するであろう程に怪しい神聖さを感じさせた。
しかしその掴めば折れてしまうのではないかと思うほど繊細な身体は、染みや黒子など一欠けらも存在せず、暗い室内に白雪のように白く目に映る。
夜空のように黒くしなやかな髪は、まるで幾万の黒真珠を細く伸ばしたかのように艶やかだ。
大きくそれでいて鋭い猫と龍のそれを掛け合わせたような瞳は、暗い深遠よりなお深く冷たく、ただ底知れぬ知性の光だけが輝いている。
この至高の芸術すら霞む、被造物の如き恐ろしき美の少女は、ゾッとするような笑顔を一瞬浮かべるとゆっくりと身体を起こしだらしなくソファーに座り直すと俺に手を差し出した。
「寺城冬華(てらしろ とうか)だ」
呆ける事数瞬。
それが挨拶だと気付き、俺はゆっくりと息を吸い正体不明の動揺を押さえ込んで立ち上がり、ズボンで手汗を拭ってその手を軽く握った。
少女の吐いた紫煙が甘酸っぱい香りを漂わせ鼻をくすぐる。
「西岩森也(にしいわ しんや)です」
少女はその手を握ったまま、左手を顎の下に持っていき、嘗め回すように俺を見ると歪んだ口元から紫煙が漏れた。
「西岩君は裕福な良家の出だね。幼い頃から剣術、柳生新陰流を学んでいたが最近はサボっているようだがね。そして、親との仲は悪く家出、いや追い出されたのかな?しかし、根は大分真面目そうだね」
覚りか、それとも触れた人間の心を読む仙術の類でも使えるというのか?
彼女は意地悪そうに目を細めた。
この少女は一見高等女学校に通よい出した程度にしか見えないが、その他者を蔑み嘲笑する、尊大かつ邪悪な態度は、見た目の何十倍の時を経ているかのような異様な重圧すら感じる。
俺は心に湧き出た小さな憤りを燃やし、恐怖に脅える口を無理矢理開いた。
「一体何故そんな事がわかるんだ?俺と貴女は初対面のはずだ!」
彼女は何の事は無いと味わうようにパイプをふかした。
「一つ、君が身に纏う衣服。一見ありふれた洋装だが、貧乏人が無理をして誂えた安物じゃあない。英国洋服店が顧客一人一人に合わせ作成したテイラー・メイドだ。一つ、君の立ち居振る舞い。扉の開け閉め、椅子からの立ち上がり方、幼少から厳しく躾けられたんだろうね。そして、洋装に慣れた歩き方、手を差し出しただけで握手を出来る程度には西洋作法にも明るい。これは裕福かつ由緒正しい御家の出なのは一目瞭然さ。しかし、そんな良家の坊ちゃんが袖口や襟を汚し、皺まで付いた服を着ている。それも今さっき汚れたという様相では無い。そして、その荷物を持って、こんな胡散臭い探偵事務所の求人押しかけるとは、没落したと見るより家出と見るのが打倒だろう」
寺城は白いパイプスタンド――何かの骨だろうか――にパイプを置くと、青い玉葱が描かれたカップを口へ運んだ。
「それでは、何故俺が新陰流を使うと?」
不味そうな顔でカップから口を離すと、白魚のような指先でパイプを弄りながら答えた。
「手を握った時に剣ダコがあったからさ。まぁ、今も熱心に稽古しているような感じではなかったけどね。さっき言った立ち居振る舞いも武芸を嗜む者の独特の動きだ。そして、特に君の呼吸だ。その流派の呼吸は独特だからね」
「何故学生だと?」
「その年頃の良家のお坊ちゃんが学校に通わないのは珍しい、何より荷物から学生服が覗いている。家出なのにそんな物を持ち出すとは根が真面目な証拠さ」
言われて見ると、確かに荷から僅かに学生服の袖が覗いている。
「……すごいな」
自然と言葉が口からこぼれた。
「簡単な推理だよ、西岩君」
彼女は何でもない様に――しかし、僅かに口元が緩んでいるように見える――答えた。
「いや、凄いですよ。これはまるで――」
確かに一見誰でも手に入れられる目の前にある情報の寄せ集めに過ぎない。
しかし、それ等を本当に認識し、集め、再構築し、隠れた真実を導き出す事が出来る人間がいるだろうか。
そう、彼女の推理はまるで――
「――かのシャーロック・ホームズのようだ」
シャーロック・ホームズ。
かつて英国はロンドンにおいて、数々の難事件怪事件を解き明かし、欧州中の犯罪者を震え上がらせた名探偵。
その名声は遠く極東の島国、此処日本にまで鳴り響いていた。
彼女、日本のシャーロック・ホームズは、小さく笑った。
「ふふ。君はシャーロキアンなのかい?」
「いや、俺は……ホームズに詳しいわけでは無いが、貴女の推理は話しに聞く名探偵のソレそのものだった。驚いたよ」
最初は美しくも気味の悪い少女のお遊びか、得体の知れない何かに騙されているかと思ったが――今の得体の知れない何かには違いないのだが――、彼女はその持てる才の片鱗をまざまざと見せつけ、俺に生まれて初めて本気で興味を持たせたのだ。
彼女と一緒にいれば、足の先から朽ち果てるだけの灰色の人生が、極彩色に輝けるのではないだろうか。
「それで、君は求人を見て此処に来てくれたようだが……まだ、ボクの下で働く気はあるかい?」
「是非働かせて欲しい」
彼女は大型の爬虫類を思わせる粘着質の笑みを浮かべた。
「ふふ、条件も聞かずにいい返事だ」
既に少し選択を後悔しだしたが、切実な話今日の寝床も決まっていないのだ。
ここなら、最低でも衣食住の保障がされ、幾らかは知らないが丁稚奉公よりはマシな給金も貰えるだろう。更には、ただ過ぎるだけの人生に楽しみを見出せるかもしれない。
彼女は天井を仰ぎ見るようにソファーに横になりながらパイプをふかす。
「今までに五人だ」
彼女は紫煙を俺の方へと吐きながら半眼で俺の方を見る。
「三人は逃げ出して行方不明、一人は死亡、一人は檻の中……君はどうなると思う?」
歴代の助手達、彼等――若しくは、彼女等――に何が起こり何を考えたのか、今の俺には推理するだけの情報も実力もない。
「それでも君は僕の下で働きたいかい?」
「……はい。探偵という物が具体的に何をするのか。その助手の仕事は何か、いろはの何も知らない浅学の身でもよろしければ是非に」
彼女はニヤリと笑うと――若しかしたら、この少女らしき人物は意外とよく笑うのかもしれない――不味いそうにカップへと口をつけた。
「大変結構だ。助手と言っても君にしてもらう事は簡単な聞き込みや探し物、伝言等の使いっ走りや暇なら書類の整理やこの部屋の掃除等の雑務全般。それから事件の際のお供、丁稚奉公の小僧にだって出来る事さ」
丁稚奉公の小僧に書類整理をさせるのはどうかと思うが、俺にでも勤まりそうでな内容で一安心だ。
俺の安堵の表情に寺城は含む様に目を細め小さく笑うと口を開いたその時である。
「さて、それじゃあ給金と雇用形態だが……」
階下から先ほど俺も鳴らしたドアノッカーの音が鳴る。
どうやら寺城には心当たりがあるようで僅かに顔を顰める。
しばらくして先ほど会話した女性ともう一人別の女性の声が僅かに聞こえ、コツコツと硬質な足音が階下から階段を登ってくると、当然のようにこの部屋にノックの音が響いた。
「開いているよ」
寺城の声に扉が開く。
「寺城さん事件です。是非ご助力を」
なんとも三文芝居じみた台詞だと思いながら俺は声の主をまじまじと見た。
彼女は女性としては大柄な体つきをしており、何か武術を治めているのだろう一般の女性より重心が低く均整のとれた体つきをしている。
髪は短く切られているが、モガのようにモダンな物ではなく、ただ動きやすさを求めて刈られているようだが、彼女の引き締まった体と鋭い瞳と合わさって刀剣の類に似た美を醸し出している。
ふと、その女性と目があった。
「こちらはどなたですか?」
今まで俺に気付かなかったのか、それとも何か気に食わないのか、何処か冷たくぞんざいな視線が俺へと突き刺さる。
もっとも彼女からすれば、知人の少女があられもない姿で見ず知らずの男性と同席していれば警官を呼びこそすれ、好意的に接する理由もない。
「彼は西岩君。新たなる助手志望だよ」
俺は小さく頭を下げる。
女性は邪推した顔から少々意外そうな表情へと変わり、また非好意的な顔へと戻った。
俺が一体何をしたというのだ。
そんな俺と彼女のやり取りを見て寺城は興味なさ気にパイプを咥える。
「彼女は瀬葉蘭。麗しの帝都守護天使の一人さ」
「ああ、あの……」
そう言うと彼女の視線が更に冷たくなったの感じた。
数年前、米英が導入した婦人警官に習い、我が国でも試験的に婦人警官を導入。当初新聞各社は『風紀を乱す』『型紙破りなじゃじゃ馬』等と批判的に報じ、やっかみ半分で付けられた渾名が『帝都守護天使』だ。
現在では幾度か事件で活躍した事が報道された結果。女権運動家の支援も厚く、そちら系の出版物では近代的女性の手本の如く持ち上げられ、一部からはその名も好意的にとらえられつつあるものの好機の目は未だ多いと聞く。
そう考えるとあの反応は不味かったか。
「失礼しました。ご活躍は耳にしております」
あまり良い言葉が浮かばなかった。
今思えば、父に連れ回された社交界でもっと社交術というものを学んでおくべきだったと後悔する。
瀬葉と紹介された女性は、俺の言葉に眉一つ動かさず冷たい瞳のまま社交辞令的に揺する程度に頭を下げた。
「瀬葉巡査部長だ」
そしてもう用は済んだとばかりに寺城方へと向き直った。
「寺城さん、一般人に聞かれたくないお話なのでよろしいでしょうか」
彼女は暗に俺を追い出せと言っているのだろう。
射殺さんほどに冷たい視線を俺に投げつけてくる様子を見るに、俺の対応の如何ではなくただ単に人、いや男嫌いなだけでは無いだろうか?
寺城はそんな様子を気にするでもなく、ゆっくりとパイプをふかした。
「いいからそのまま話しなよ。彼は一応助手候補なんだ、話を吹聴して回るようなまねはしないだろうさ」
しかし、と瀬葉は言い澱んだが、それ以上何も言う気のない目を瞑った寺城を見てから俺をキッと睨むと嫌々口を開いた。
「昨夜空き家で殺人事件が発生しました。被害者は駑馬良太(どば りょうた)四二歳の裕福な貿易商。死因は背後から匕首で心臓を一刺し。財布から現金が抜き取られているところから物取りの犯行と思われます」
瀬葉は手帳を開き事件のあらましを語った。
話を聞く限りでは、彼女の語る通りに物取りの犯行であるように思える。
であれば、何故この得体の知れない少女の所へまでこの話を持ってきたのだろうか?
ちらりと寺城の方を見れば、彼女は思うところがあったのか、俺と一瞬目が合うと軽薄そうな顔を瀬葉へと向けた。
「それでボクの所へ来たって事はそれだけじゃないんだろ?」
瀬葉は深刻そうな顔で手帳から顔を上げた。
「実はこの事件が起きた現場が密室でして」
密室殺人。
三文小説にありふれた安っぽい言葉だが、実際に耳にするとは想像だにしなかった。
難事件無くして名探偵無し。
降って湧いたような衝撃的な僅かな興奮を感じつつ俺は寺城の顔を窺がった。
「密室とは、また馬鹿をやったものだねぇ」
彼女は心底馬鹿らしく、呆れ果てたように興味なく天井を仰いだ。
「寺城さん馬鹿、というのは?」
俺の問いに寺城は興味なさ気に、しかし少し考えて咥えていたパイプの吸い口に歯を立てた。
「まず、人に聞く前に多角的に考える事を覚えたまえ。そうでなくては種明かしのしがいがない」
そう言うと、意地悪そうに口の端を僅かに上げ、半目俺の顔を見ながら、行儀悪くソファーから片足をダラダラと揺すった。
種明かしと言うくらいだから、俺なりの考えを言えば何かしらの答えを返してくれるのであろう。
しかし、馬鹿な事?一体なんだ?いや、ソレは密室の事だろうが、何故ソレが馬鹿な事に?
密室であれば捜査の撹乱に十分な効果を……
「今回の事件では密室にする意味がない?」
俺の答えに寺城は満足そうに嫌な笑顔を浮かべた。
「思ったより答えに到着するのが早かったね。今回の事件は、密室であろうが無かろうが、死に様からして自然死や自殺で無い殺人事件である事は明白なんだ。そんな状況で密室にして何になる?はっきり言って犯人にとっては不利になるばかりさ」
そう言われると寺城の言った「馬鹿をやった」の意味が見えてくる。
密室なんて物を作り出せば、警察は相手がただの物取りだとは考えなくなる。
むしろ逆に密室の作成に手間をかけるくらいなら、すぐに逃げたほうがよっぽど有意義だ。
「密室の仕掛け次第によっては、それが犯人を絞り込む要因にもなりかねない」
俺の呟きに彼女は同意するように満足そうに軽薄な顔で頷いた。
「まぁ助手候補としては及第点だな。セバス、学生風情でもこの程度の推理は朝飯前だそうだ。この程度も頭が回らんようでは君をボクの助手にするのはまだまだ先のようだね?」
寺城は事件解決の助言は与えたとばかりに手を振り追い返そうとするが、当の瀬葉はまだ何か言いたい事があるようでチラチラと俺を憎しみの篭った瞳で睨みながらも言い難そうに、しかし背に腹は変えられずと声を発した。
「じ、実は事件の担当が私と栖昏(すぐれ)警部でして」
「はぁ、またかい」
寺城は何とも言えない表情になり、今まで一番長く――それでも数瞬だが――考え込むと、ゆっくりと大きくパイプを吸い盛大に怠惰に紫煙を吐き出した。
「仕方ないなぁ。まぁ、使用試験も兼ねると考えればそれもいいか」
そう言うと彼女はゆっくりと身体を起こすとポリポリと頭掻いた。
「西岩君。衣食住の保障はするから今日一日ボクと一緒にいたまえ。それからここで働くかどうか決めるといい。もちろん、ボクも君を雇うにあたいするかどうか判断させてもらうけどね」
瀬葉が俺を親の敵を見るような目で睨みつけてくるが、俺はソレを無視し寺城の提案に乗った。
「よろしくお願いします」
その答えに寺城は頷くとゆっくりと立ち上がった。
「それじゃあ、今から現場に向かおうか。セバス円タクを呼んで来てくれないか」
それだけ言うと彼女はパイプの灰を捨て、乱雑に詰まれた衣服を漁りだした。
瀬葉は俺を睨んだ後、会釈をし下の階へと降りていく。
「あの、一ついいですか?」
「なんだい?何か気になることでもあるのかな?」
寺城は黒くひらひらとし、レースの多い洋服を手にとっては放り投げ、あれやこれやと合わせては投げ捨てる動作を繰り返し、返事をしながらもその動きに迷いは無い。
薄着の少女が艶かしく裸足で衣服に塗れる姿は、特殊な性癖を持たなくとも間違いを起こしかねないので止めてもらいたい。
そう言いたかったが、今はそれよりも尋ねたい事がある。
「先ほど名前が出た栖昏警部とは何者なんですか?」
二人のやり取りを見るに一癖も二癖もある人物だとは思うのだが一体何者なのだろうか?
寺城は俺の問いに様々な服を着たり脱いだりを繰り返しながら答えた。
「まぁ、一言で言うならばセバスの天敵さ」
彼女の脱いだ下着らしきものが飛んできた。
間違いなく彼女は俺を男だと認識していないに違いない。
「彼は悪い人物では無いのだけどね。古臭い価値観が金兜を被って歩いているような御仁なのさ」
なるほど、そういう事か。
「つまり、女が警察の真似事なんざするんじゃない!と言う事ですか」
新聞や雑誌なんかでは、女性の社会進出を面白おかしく持て囃し、一部の企業や実業家達も男より安く使えるとそれを煽っているが、その風潮を『はしたない』『慎みがない』と忌避する人も少なくない。
中には「頭の中がお花畑のあーぱー娘が喰い物にされるだけだ」とか、「女栄えて国滅ぶ」だの言う口の悪い人間もいる。
俺個人としては、この風潮は嫌いでは無い。
いくら国際化、女性の社会進出だと言っても、帝都には職にあぶれた人間がごまんといる。
人はあまり、職が不足すれば労働賃金が下がれば、元々低い女性の賃金は底をつき、若く技術のない娘の行きつく先など決まっている。
特にモガ気取りのフラッパーなんかは、小金を見せびらかせば気軽に一晩の甘い夢が見れるのだから、金持ちのドラ息子としてはやりやすい世万々歳だ。
もっとも、鼻欠けは色男の勲章といえど、梅毒にかかるのは御免なので色々と気苦労もするが、いくら気をつけていても最終的に運なので仕方がない。
「ククッ、君にも色々と思うところがあるようだね」
寺城は心を見透かすような瞳で少しだけこちらを見ると、過剰にひらひらがついた一般家庭の月収以上はしそうな服に腕を通した。
「栖昏警部は不器用なりに純粋に心配してるだけではあるんだよ、君と違ってね」
寺城は服の内側に入りこんだ髪をかき上げ服の外へと出すと、首を振って髪をまとめ大きな姿見の前でクルクルと回ると、やっと納得がいったのか軽く頷いた。
「辞めろと言って見合い話まで押し付けるもんだから、今じゃセバスは彼の顔を見るだけでも機嫌が悪くなる始末さ」
それは確かにあまり近づきたくない種の御仁だ。
世の中には小さな親切、大きなお世話という言葉もあるのだとしみじみ思う。
「古臭い堅物だが無能では無いんだよ」
寺城は今度は、確かガーターベルトと言ったか?長い靴下のようなものを選びだす。
「竹を割ったような性格の熱血漢で喧嘩と勘の鋭さが売りの叩き上げから警部にまで昇進した人物でね。まともな事件なら感と経験、そしてなによりその粘り強さで事件を解決するんだが、如何せん実直すぎる」
彼女は冷め切った紅茶を飲み干しとても不味そうな顔をした。
「淹れなおしましょうか?」
「いやけっこう。彼は優秀なんだがね、少し特殊な事件になるとそれが空回りして事件を余計ややこしくする才能の持ち主なのさ」
何とも俺と相性の悪そうな御仁との対面を想像し顔を顰めると靴まで選び終えた寺城が俺の正面に立った。
彼女は衛門掛けから二重回し(インバネスコート)を引っ掴んで羽織り、その黒々と美しい御髪の上に鹿撃ち帽を載せ、小洒落た杖をついている。
「どうしたんだい、そんな顔をして?」
分かっているだろうにこの人は……
「いえ、何でもありませんよ。ところでk、その特殊な事件と言うのは一体?」
彼女は灰を捨てたパイプを可愛らしいポーチに仕舞い込むと優雅に小脇へ抱えた。
まさかそんな物を外でまで吸う気では無いだろうな?
「警察は大きな組織だが、それ故に向かない捜査、事件というものがある。そして、ボクの事務所は成りこそ小さいが故にその警察に不向きなところが領分になるという事さ」
彼女はそう煙に巻くと杖を軽く鳴らし扉へと向かった。
「さぁ、そろそろ呼ばせた円タクが来る頃合だ。下に行っていよう」
まぁ、現場にまで着いていけば彼女の言う意味も理解できるかもしれない。
俺は不安に少しだけ天を仰ぎ、すぐに荷を隅へ置いて彼女を追いかけた。
階段を下っていると外からビルヂングの前に車の停車する音が聞こえた。
下まで来ると丁度円タクが到着したところらしく、瀬葉が甲斐甲斐しく寺城を後部座席へと誘っていた。
俺もと思い近づくと彼女はゴミでも見るような目で俺を見た後、自ら寺城の後に続いて乗り込み、目の前で乱暴に扉を閉めてしまった。
五月蝿いエンジンの唸る音が鳴り響き、俺は置いて行かれまいと助手席へと飛び乗った。
「おっと、坊主も乗って行くのか?」
運転手の声に瀬葉が聞こえるように舌打ちをする
「いいから気にしないで車を出したまえ」
明らかに接点の無さそうな三人組に運転手は僅かに狼狽しつつも車を発進させた。
窓の外を高速で木々が流れていく。
車は馬車や人力車と比べ多少信頼性は劣るものの、それらと比べ格段に早く、必要な経費と輸送能力の釣り合いもかなり上だ。
そして何より、このエンジンの独特の振動、車体の揺れは助手席という位置も合い重なり、この様な状況でなければ俺を心地よい眠りに誘ってくれていたはずだ。
眠気が逃げ去っている元凶へと目を向けると、彼女はあのパイプを堂々と拭かしながら、然もつまらなそうに新聞を広げていた。
しかし、文屋は浮世の荒で飯を喰いと言うが、『広ガルアヘン!』『赤ノ脅威ト戦ウ日米英ノ大同盟』『説教強盗「犬ヲ飼ゑ」』等と碌でもない記事が並ぶんでいる。
次から次へと新聞を処理しているが、彼女はあんな下賤な大衆紙まで読むのか。
「ん?君も読むかい?」
目の合った彼女は、己が読み終わった新聞をこちらへと差し出してくるので俺はそれを受け取り軽く目を通す。
「綾華新聞とはまた悪名高い三流紙まで読むんですね」
「真実とは時として馬鹿を装う物さ。ボクの知る限りその新聞は三度、警察や他の新聞がたどり着けなかった深遠の如き真実を見抜いていたよ」
何とも驚きの事実だが、それを理解して読んでいる人間は寺城さん以外にいるのだろうか?
「俺には面白三流新聞にしか見えませんがね」
「ククッ、それでもまぁ旭日新聞や日々新聞よりかは読むに足る新聞さ」
彼女は嘲笑の目で今読んでいる新聞を眺めた。
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