第90話
満身創痍の状態で意識が朦朧とする中、彼女は夢を見た。
遠い遠い過去、彼女がまだ年端もいかぬ五歳だった時の記憶が蘇る。
私、アスラ・ドゥム・ライオンハートには兄がいる。
その名もアフラ・ドゥム・ライオンハートと言い、ライオンハート家の跡取りでありいずれ騎士団長となるはずだった。
「またついてきたのか? いつも言っているだろう、女の子であるお前が来るようなところではないと」
私がいつも兄の剣の鍛錬に付いて行こうとこっそり後を付けようとするが、五歳の拙い追跡技術など無いに等しい。
一方兄と言えば、未来の騎士団長として僅か八歳という年齢ですでに一人での鍛錬が許されていた。
元々持っている才能の差もあり、そんな私が彼の気配察知の網を掻い潜れるはずもなく例によって見つかってしまった。
「わたしだってライオンハート家の娘です。お願いします兄さま、わたしも一緒に連れて行ってください」
「お前はまだ五歳だ。剣の訓練をするにはまだ早い、せめてあと一年我慢しろ」
そう言いながら、私の頭をくしゃくしゃと撫でまわす兄に対し、自分なりの精一杯の抵抗として頬を風船のように膨らませる。
兄の手は剣で鍛えられているため手のまめが潰れ少し固くなっているが、彼の人柄と同じように温かみを持っていた。
「兄さまはいつもそう言ってばかりではないですか、これではいつまで経っても強くなれません」
「どうして強くなりたいんだ? お前は女の子なんだ、強くなる必要はないだろう?」
兄はそう言っているが、この世界はいつ戦争があるか分かったものではない。
例え女子供であっても弱者は強者に蹂躙される運命にあるのだ。その理不尽に対抗するためにはどうしても力が必要だった。
私はいつも兄にそう説明するのだが、兄は決まって苦笑いを浮かべた後すぐに優しい微笑みを浮かべこう言うのだ。
「アスラはアスラの幸せだけを考えていればいいんだ。アスラがそれだけを考えられるように僕が強くなって騎士団長になるから」
「では約束してください。騎士団長になり、この国を守ると」
「ああ、約束しよう、騎士団長になって戦争のない平和な国にしてみせると」
まだ幼い二人の小指と小指が結ばれる。
この世の厳しさや理不尽さなど何も知らない無垢な子供の世迷言だったが、私たちは確かに約束をした。
だがその約束は果たされることはなかった。それからしばらくして兄が流行り病に罹り八歳という若さでこの世を去ってしまったからだ。
「兄さまの嘘つき……」
泣きはらした顔で絞り出すように呟いた私はある決心をする。
兄が果たせなかった騎士団長への夢を私が代わりに果たすために。
兄が亡くなって一年後、私は皇太子だったスタンリー様の婚約者である、当時十歳のアレクシア様の護衛兼小間使いとして奉公に出されることになった。
ライオンハート家の当主である父は次の後継者を見つけるべく、私に花嫁修業をさせたかったらしいが私が頑なに拒否したため、王族の世話係をさせることで貴族としてのふるまいを習わせようとしたのだ。
その時間を使い、私は自分の剣をひたすらに鍛え上げた。
当時の父はまだまだ現役の二十代という若さであったため、私の剣の腕が成熟する頃まで騎士団長を務め続けてくれていた。
厳しい特訓で音を上げそうになった日も、兄との幸せだった日々を夢で見てしまい悲しみに枕を濡らした日も、敵対派閥の貴族連中に嫌味な台詞を吐かれた日も、ただただひたすらに剣を振るってきた。
そして、時が流れ私が二十三になったある日、当時まだ現役の騎士団長だった父に試合を申し込みその試合に打ち勝ち私はついに悲願だった騎士団長の座を手にしたのだ。
私が騎士団長になってしばらくは女の身で務まるものかと揶揄されたが、近隣に出没した盗賊団や凶悪な魔物を掃討することで騎士団長としての務めを果たし続け、周りの人間も私の事を認める者が出てくるようになった。
兄と約束した騎士団長になれたのは良かったが、二十五を過ぎたある日私の女の部分が騎士団長の椅子に座り続けることを拒絶し始めたのだ。
歳を重ねるごとに減っていく筋肉に反比例するかのように増えていく脂肪と丸みを帯びていく体つき。
女性として徐々に均整が取れていく身体は、否応なく私に女としての義務を果たせと囃し立てる。
女の義務とは「子を成し、産み育てよ」という女性であれば極々自然な本能に近いと言ってもいい行動理念だ。
だが、私は抗い続けた。ある一時までは白い麻布を乳房に巻きつけ膨らみを誤魔化していたが、息ができなくなるまで強く巻かなければならないほど私の双丘は自己を主張するまでに育っていた。
見るに見かねた陛下やアレクシア様が縁談話を持ち掛けてきたこともあったが、私は拒絶し続けた。
ようやく果たせた兄との約束である騎士団長の座をわずか数年で明け渡す事など誰ができるものか。
それを境に私は負けが許されない状況へと追い込まれていくことになる。
ただでさえ女である私が、騎士団長という栄誉ある職に就いている事に不満の声を漏らす者がいるのだ、敗北すれば間違いなくそれを口実に騎士団長の座を追われることになるのは明白だ。
だからこそ私は負けるわけにはいかない、不敗であり続けなければならない。
兄が果たせなかった想い、兄と交わした約束のために……。
私は兄を愛していた。
それは一人の家族としてではなく、おそらく一人の男として。
だがそれはあくまでも子供心に抱いた妥協や屈託のない想いだったのだろう、大人になった今ではそれくらいは理解できる。
だがもし兄が今も生きていたのなら、私は人として道理に反する想いを抱いていたのかもしれない。
それほど、幼心に感じた兄への想いは本物だったのだ。
そして、私が騎士団長になって四年が経った今、私の目の前に一人の男が立ちふさがった。
彼はかつて賢者と呼ばれた大魔導師が残した予言にある伝説の勇者かもしれない男だったのだ。
それから成り行きだが、私とその男が公の場で試合をする運びとなった。
たとえ相手が勇者候補であろうと負けるわけにはいかない、私が今まで生きてきた存在意義と何より大切な家族との約束のために。
だが現実は非情であった。
今まで研鑽を積んできた私の剣が尽く空を切り掠りもしない。その結果導き出された答えはたった一つ“圧倒的実力差”によるものだ。
私が二十年に渡って積み上げてきたものが一切通用しない相手が目の前にいる。
負ける……この私が? そんなことは許されない、あってはならない。
負ければすべてが終わる。私に後退はないあるのは前進勝利のみなのだ。
僅かな勝機を掴むべく、私は最後のカードを切ることにした。
使用すれば恐らくまともに戦う事ができなくなるという諸刃の剣技【ダブルエッジソード】――。
その名の通り諸刃の剣を意味するこのスキルを使い、上手く技が決まれば如何に勇者とてただでは済まないだろう。
タイミングを見計らって放った渾身の一撃は、彼の前では何も意味をなさなかった。
終わった。すべてが終わり敗北が決定した瞬間だった。
私は自分を打ち負かした男に止めを刺すよう促した。
せめて生き恥を晒さぬようこの場で切り伏せて欲しいと……。
しかし、アレクシア様が私と彼の間に割って入ってきた。
彼女はあろうことか自分の命と引き換えに私の助命を願い出てこられたのだ。
私が彼女の行いを責めると、彼が私にどうしてわからないのだといった風に説明してくれた。
ああ……そうだった。騎士団長の責任とその職に就いた者の使命の重大さを私は忘れてしまっていた。
懸命なアレクシア様の助命嘆願も彼の耳には届かないようで、彼女の願いは聞き届けられる事はなかった。
私としてはもうこれ以上自分が生きている意味も価値もないことは理解しているため彼に全てを任せその身を委ねた。
アレクシア様申し訳ありません、私は一足先にあの世に逝って参ります。
私が今生に未練を残すことなくあの世に旅立つ覚悟をした時、あろうことか彼は私の首を斬ることなく、私の髪を切ったのだ。
彼が私の髪を切ったことを認識した時、私は彼に対し僅かに苛立ちを覚えてしまった。
なぜこのまま逝かせてくれぬのか、生き恥を晒し続けろというのか。
そんな私の想いとは裏腹に、彼はこの場にいた全ての者に宣言した。
髪は女の命という彼の言い分に一瞬呆気に取られてしまったが、彼が私から切り取った髪を返す時に私にしか聞こえない声で謝罪してくれた。
その言葉を聞いた瞬間私の眠っていた記憶が再び呼び起こされる。
それはかつて兄が私に向けて言った言葉だった。
――「アスラはアスラの幸せだけを考えていればいいんだ」
天啓だった。彼の言葉で全て悟ってしまった。
兄と交わした約束は、私がすでに騎士団長になったときに果たされていたのだと。
彼の言葉にかつての兄の温もりを見た私は、次の瞬間体に熱いものが込み上げていることに気付いた。
心臓の音がやけにうるさく聞こえ、近くにいる彼に聞こえてしまうのではないかというほどに。
私に言うべきことを言ったとばかりに、私の元から離れていく彼の背中から目を離すことができなかった。
これはかつて私が兄に対して抱いた一時の感情なのではないかと思ったが、どこか違っていた。
それは久しぶりに感じるからなのか、それとも兄に対して感じていたものとは別物なのか見当がつかない。
(この胸が苦しいのはなに? 心臓の音がうるさいのはなに? 体中のあちこちが熱いのはなに?)
この瞬間から私の新しい人生が始まる予感がした。
そして実感する。今感じているこの感情が想いが鼓動が、心地よいものであるということに。
そんなことを考えているうちに、満身創痍の私の体力に限界が訪れ私は自分の意識を手放した。
「ここは……医務室か……」
目が覚めるとそこは城内に設営された兵士専用の医務室だった。
鼻につーんとくる消毒液の匂いと清潔感のある真っ白なシーツが敷かれた簡易的な造りのベッドに私は横たわっていた。
まだ意識がはっきりとはしていないものの、自分が御前試合で敗北した事実だけは現実のものとして理解できる。
身体の節々に痛みはあるが決して動けないという訳ではないので体を起こそうとしたとき突如として声を掛けられた。
「アスラ!!」
「……アレクシア様、この度は誠に申し訳ござ――」
「馬鹿ぁぁぁぁあああ! 心配したんだから!!」
そう叫びながら、自分の体をきつく抱きしめてくる。
まるでそこから逃げ出さないように、いなくなってしまわないように、この場に確かに存在しているという事を確かめるように……。
そのまましばらく彼女に抱きしめられていたが、ふいに彼女が私と少し距離を置き真剣な顔で話し始めた。
「いいことアスラ、貴方自身の体は貴方だけのものではないの。それは騎士団長としてもそうだけど、何よりもこの国の民の一人として、そしてかけがえのない私の大切な家族として貴方はかけがえのない存在なのよ」
「アレクシアお姉様……」
「だから約束して、もう二度とこんなことしないって、もう二度と勝手に死のうとしないって」
「はい……」
窓の外から暖かな日差しが入り込み、まるで劇場のスポットライトのように二人を照らし出す。
失ったものよりも自分が持っているものがどれだけ大切なものだったのか、今回の一件で思い知らされた。
そして私は、アレクシア様に抱かれながら心の中で亡くなった兄に呟いた。
(兄さま、わたしこれからは自分だけの幸せの事を考えてみます。いつになるか分かりませんが、この世を全うしたら必ずそちらに向かいますので、それまで待っていてください)
もうこの世にいない人間にそう心の中で伝えると、自分とアレクシア様に差していた日差しの先に誰かが立っているような気がしてそちらに視線を向けるが当然そこには誰もいない。
だがそれが何者だったのかはすぐに理解できた。
なぜならその者の顔は穏やかな優しい顔で笑っていたように見えたからだ。
その顔はかつて兄が幼い私に向けていた笑顔に瓜二つだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます