第6話 永遠を、君に

 誰もが心の奥底に持つ原風景。

私が直立しているこの世界には、病院もない、家族もいない、私を取り巻く雑多な煩わしさが、そもそも存在しない。

あるのは地平線の彼方まで広がる真っ白な荒漠。

無風の中で、肌を撫でつける不思議な空気。

この世界では、空気だけが清涼で、それ以外の何物も、評価すべきところはないように思われる。


それなのに……おかしいかな、私はこの世界が大好きなんだ。


 歩く、行く当てもなく、何処までも。

常人なら、ものの数分で飽きそうな散歩が、長い入院生活を強いられた私には頗る気持ちが良かった。

日常享受出来る当たり前を、人間は手放した時に初めてその価値に感動し、感謝もする。

であれば、歩くだけの好意に私が並々ならぬ感動をしたとしても何らおかしい点は存し得ないであろう。


 歩いた。ゆっくりと、一歩を大事に踏みしめるように。どこまでも白い世界。

変わらぬ風景が、私の生まれる遥か前からそこにある。

なぜそう思うのか、根拠はない。でも解ってしまう。

生まれたばかりの赤ちゃんが母親の愛情を感じるように――この世界は、私が存在する遥か昔から、私を待っていたのだと。


答えになっていない?


 仕方ない、言語化出来ない事なんて、実は腐る程ある。

無理な言葉遊びはいつだって暇を持て余した人間の娯楽だ。

だから、少しばかりの遊びを許しておくれ。


この世界に諍いはない。だって、こんなに優しいんだもの。


 現実と夢の境目とはどこなのだろう。考えても答えの出ない迷宮。

私の意識は、現実にいるのか、はたまた夢の世界にいるのか。

そういえば、文芸部でたいそうな人生を謳歌している小説担当のクソガキは、夢を体験の幻視なんて表現していたが、私が見ているこの世界は――少なくとも、現状の私に考える能力が与えられているならば、幻視と呼ぶにはあまりにリアルに感じる。


 尤も、夢の中でそれが夢だと気付く事なんて、そうあるものでもないし、矢張り現実と夢の区分なんてものは神の領域であって、人間に判断出来るものではないのだろう。

仮に現実世界にいたとして、そこが本当に現実であると証明する方法もない。

誰もがそれは空想の夢である、という考えを、否定しきる根拠を持たないのだ。

もしかしたら、現実も夢も混濁した世界に、私は今や放り込まれているのかもしれない。

まぁ、これもそうだったら面白いな、という程度のものだけれど。


 私は魂と肉体は別の存在である二元論の立場を取ったけれど、そうなると私の現状は生きているのか、死んでいるのか、それすら怪しい状態である。

肉体と魂が同一という立場をとっていれば、今置かれている状況に直面しても、思惟が働く以上生きているんだと考えられるが、二元論の立場ではそうもいくまい。

肉体は滅しても、魂だけが何かしらの精神世界を揺蕩っている可能性も浮上してくる訳だ。

思弁的に考えていたら、それだけで日が暮れそうだ。この世界、日が暮れるのかも解らないんですけどね。


 夢現(ゆめうつつ)の世界では、時間という概念が存在しないのか、歩けど歩けど疲労する事もない。

景色も変わらないのだから、もしかしたら狐に化かされたように、同じ場所をグルグル回る堂々巡りをしているだけなのかもしれない。

だが、この際はどうでも良いのだ。

私が居た病院では、ずっと同じ景色だけを見ていた。

同じ場所を歩き続ける方が、ずっとマシとさえ思える地獄だった。


 私は別段活発な人間ではなかった。寧ろ、屋内でゆっくりしたい性質の人間だったが、自らの意思で室内にいるのと、強制的に収容されるのでは意味合いも異なる。


 入院してからの2年間は、私にとって病院が世界の全てだった。

私にとって、何も変わらないというのは拷問だった。

人は同じ仕事を、さも作業のように繰り返し定年を迎えるようだが、そんな人生は農耕馬の生であって、人間の生ではなかろう。

私は幸いにして、その呪縛から早期に脱する事が出来たが、もし持病が治り、普通の生活に戻る事を余儀なくされたとしたら、それはいか程の絶望であったか、想像に難くない。


 とはいえ、私が死ぬ事により悲しむ人間も一定数はいるのだろうが、生前ならともかく、死後の世話まで若年の私に負わせよう等とは無体であろう。

よって、この世界が現実であろうと、夢であろうと、はたまた常世の国であろうと、もはや私のすべき事は残されていない。


 唯一心配すべきは精根込めた作曲の行方だが、作品だけを残してきた事が、却って良かったのかもしれない。

結果を知らずに終われる事が幸せな場合も往々にしてあるのだ。

後は小説担当の彼が、好き勝手にやってくれるだろう。

継ぐも良し、消すも良し。

作品が完成した瞬間から、作品は私の手を離れた。


 芸術とは子供と一緒で、いつまでも一緒に歩む事は出来ない。

知れず世間へと交流し、子供であれば『生産』を、芸術であれば『美』を社会に還元していくのである。

親はいつまでも一緒に歩めない。

自然の摂理に従い『死』を以ていつかは別れねばならない定め。


その順序を間違えてはならない。


 私の作品よ、最後までその雄姿を見られなかった事は残念だが、同時に嬉しくもある不思議な矛盾を、どうか笑わずにおいてくれ。

虎は死して皮を留め、人は死して名を残すのことわざ通り、私の生きた証は残された遺作により輝きを放ち続けるであろう。

それが何よりも嬉しかった。


 本音を言えば『死』そのものを恐れないというのは、半分本当だが、もう半分は嘘だった。

というのも肉体の消滅は如何ともし難いので、とうの昔に諦めたが存在そのものの消失というのは考えるだに恐ろしかった。


 世界は認知するものがあって、初めてその存在を現すというが、もし観測者たる私が死した後、全ての活動が停止――つまり消滅してしまったとしたら、私は虚無そのものに偶然生まれた気まぐれでしかなく『死』によって気まぐれに無へと帰する脆弱な存在でしかなくなる。

いったい、そんな人生にどんな価値と希望を見出せるというのか?

弱い私には、そんな無理解を我慢出来そうもない。

だからこそ、私の人生は私の芸術によって救われたのだ。


さぁ、終わりの刻は近い。


『死』は一つの芸術であるが、その終わり方を間違えてはいけない。

映画やドラマも、クライマックスに作品の出来が左右されるように、人間の価値もクライマックスたる『死』によって左右されるのだ。

私は、私自身の晩節を汚さない努力を最後までしよう。

そして、いつまでも『生』に対する執着を持たない清廉さを、生きている限り養おう。

役目を終えた老兵の分を、心に弁え退こう。

いつまでも生者の世界に居座り続ける老醜を、死者が曝してはならない。


『死』は本来美しいものだ。


 生命至上の主義主張により、限りなく濁りきった生者の最後の権利たる『死』は、どう美辞麗句の装飾で着飾ったところで、魂の如何は現時点では不明としておきながらも、もう一つの肉体については、確実に消滅するしか他に手はないのだから、暇人の言葉遊びたる余興に、一人勝手に酔いしれて自己陶酔に耽っているぐらいなら、目を逸らしてばかりいないでそろそろ紳士に『死』と向かい合うべきであろう。


『死』と向かい合い続けた私は一足先に、その答えを見せてもらうが、いずれキミ達も答えに辿り着くのだから、狡いなどと妬まず陽気に送り出して欲しい。


世界よ、神よ、芸術よ。どこへ誘ってくれるのか。

憑代を失う魂の行き付く先を、私は大変な興味を持って臨まずにはいられない。

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