348 しばしのお別れ
こうして、エステルは領都に残ることになった。
この日の豪華な送別会の席で、トライアンは責任を持ってエステルの支援をすると言ってくれた。アレな人物ではあるけれど、世間の評判は悪くない。性癖にさえ目をつぶればそれなりに信用できると思う。……たぶん、きっと。
そして翌日。旅立ちと別れの日だ。領主とその一同が見守る中、俺たちは使用人が借りてきてくれた貸し馬車に乗り込む。費用はトライアン持ちの高級馬車だ。
馬車の外見は質素だけれど中身は相当お金がかかっているらしく、窓ガラスの透明度や座席のクッションの柔らかさに感心していると、馬車を取り囲む面々の中からリアがこちらに歩み寄ってきた。
「マルク様、ニコラちゃん、セリーヌさん。どうかお気をつけて。わたくし、皆様の旅のご無事をお祈りいたしておりますわ」
リアは微笑みを浮かべて別れの挨拶を告げる。普段のニコラへの接し方を見るに、もう少し引き止めるなり悲しむなりするのかなと思ったけれど、少々肩透かしなくらい快く送り出してくれるようだ――と思ったら。
「あっ、ニコラちゃんはこちらに残ってもいいのですよ? いっそわたくしの妹になりませんこと? 毎日おいしいお菓子が食べられますわよ」
しれっと養子縁組を切り出してきた。ニコラは俺の腕をぐいっと掴むとリアに答える。
「ニ、ニコラ、お兄ちゃんと一緒がいいなー! やっぱりお兄ちゃんと一緒じゃないと! だから遠慮しとくね、ごめんねリアちゃん!」
普通に断ればいいのに、この期に及んでこっちに標的を逸らそうとするニコラを俺はジト目でにらむ。
色々と贅沢をさせてもらっていたみたいだけれど、ニコラに未練はまったくないのはストレスが食欲を上回ったからだろう。
ちなみにニコラはこの二日間、最初は気を使って行かないようにしていた禁をやぶり、セリーヌの部屋で寝ることでリアの夜這いを回避していた。まだ俺の部屋は危ないという認識らしい。
「まあ……残念ですわ。でもニコラちゃんはお兄様が大好きですものね。仕方ありませんわ」
「うん、大好き大好き! お兄ちゃん大好き!」
もはややけくそで連呼するニコラと、それを微笑ましそうに見つめるリア。ひと通りの話が終わったところで、次はエステルが馬車に近づいてきた。
「みんな! ボクは領都で一人前の冒険者になるよ。そして一人前になったらみんなに会いに行くからね!」
エステルが昨日から
「あらあらエステル~? 冒険者なんてのは自由なのがいいんだから、堅苦しいことなんて考えないで会いたくなったらすぐに来ちゃえばいいのよ?」
「ええっ!? セリーヌ、せっかくの決意が台無しだよ! ……でも、うん、そうだね……やっぱり会いたくなったら行くかも……。マルク、その時は町を案内してくれる?」
決意に水を差されたエステルはあっさりと前言をひるがえすと、恥ずかしそうに上目遣いで尋ねた。でもそのくらい肩の力を抜いたほうがいいと思う。俺だってエステルに会いたいしね。
「うん、もちろん。いつだって来ていいからね。……あの、マイヤさん。僕の友達をよろしくお願いします」
「ああ、任せな! とびっきりの冒険者に鍛え上げてやるよ!」
今日も地味なメイド姿のマイヤが胸を張って声を上げた。って、あれ? トライアンもリアもいるのに、お行儀が大変よろしくない。同じ疑問を感じたのだろう、セリーヌが尋ねた。
「あら、マイヤ。あんたあのバカ丁寧な口調はどうしたのかしらん?」
「ん? ああ……。それがな、ついにトライアン様に
マイヤが頬を赤らめ、だらしない顔でくねくねと身悶え始めると、その隣で騎士団の仕事もあるのにわざわざ見送りに来てくれたモリソンが、逆に顔を青ざめさせていた。領主相手だと分が悪いと思ったのか、口調にドン引きなのかはわからないけど。
この後、震え声のモリソンやポテトサラダを伝授した料理長、執事のアレックスなど、世話になった方々に別れの言葉をかけてもらい、最後に領主のトライアンが口を開いた。
「マルク、君とはいずれまた会うこともあるだろう。その時こそ今回の借りを返せればと思うよ」
「あ、いや。友達のエステルの面倒を見てくれるのなら、僕はそれで十分ですので……」
「ははっ、それはエステルが働いた分の報酬さ。君が思っている以上に今回の貢献は大きい。君の分はいずれ返させてもらうよ」
「いえ、本当にもう十分ですので……」
できればこのまま忘れていただきたいくらいなのだ。だがトライアンがしつこく食い下がる。
「しかし金品だけというのもあまりに風情がないだろう? 色々と考えていたのだが、案を練るには時間が足りなかったんだ。私としてはこう、君の心に深く刻まれるようなモノをだね――」
「もう、お父様。マルク様が困っていますわ。マルク様がそうおっしゃるのなら、わたくしたちは感謝の気持ちを胸に秘め、想い続ける。それでいいではありませんか。そうですわよね、マルク様?」
「はは、そうだね……」
本当はトライアンには忘れてほしいがそうは言えない。トライアンをたしなめたリアに俺が相槌を打つと、彼女が微笑み――
「……?」
その時、リアの視線を受けた俺の背筋にぞくりと寒気が走った。思わずリアをまじまじと見つめるが、彼女は柔らかく微笑んでいるだけだ。やっぱり気のせいかな、今日はかなり寒いしね。
「さあ、マルク、ニコラ。そろそろ行きましょうか」
御者台のセリーヌから声がかかった。
「うん、わかった。それじゃあみなさんお元気で」
また会いましょう――なんて言質を取られるとやっかいなのが一名いるので、俺はあっさりと別れの挨拶を締めくくった。ペコリと頭を下げ、車の扉を閉める。
すぐに車輪がガラガラと音を立て、馬車が城下町の方へと向きを変えた。
「みんなーまたねー!」
薄く透き通った窓ガラスに顔を向けると、エステルがこちらに向かって手を振っている姿が見えた。俺とニコラが窓越しに手を振り返すと、エステルが笑顔でさらに大きく手を振り返す。その様子はエステルが視界から見えなくなるまで続いた。
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