第5話明日に向かって 2

ペキの記憶が戻らないまま1週間の時が過ぎた。

空気が澄んだ午後、病院の庭のベンチでうつ向きかげんに座っていたペキの足元に、恐らく何日も磨いてはいないだろう、うっすら埃を被った黒い靴がペキの前で立ち止まった。

「やあ、浮かない顔をしてるね。」

そう言いながらジンジャーはペキの隣に腰掛けた。

「何にも思い出せないんだ、本当に何にも……」

ペキは肩を落としてポツリと言った。

「君の落ち込む気持ちはよく分かるが、前向きに考えよう。」

「どうしたらいいか分からなくて怖いんだ、本当に怖くて仕方ないんだ。」

ジンジャーはペキの肩を抱き締めるしか慰める方法が見つからない。

ジンジャーは暫く考えて、思い立った様に

「そうだ!明日、君の外出届を出して出掛けよう。気晴らしになるし、何かを思い出すかもしれない。」

「辞めとくよ、外に出たからったって何も思い出せないさ。」

「それは分からないだろ、落ち込むのも、諦めるのも無しだ!勇気を持って、此れは若者の特権だからな!」

ペキの肩を軽く叩いて立ち上ると、

「午前中に娘と一緒に迎えに来るよ。じゃ!」

そう言うとジンジャーは去って行った。

「全く、お節介な医者だ。」

ペキは小さな声で呟いた。


「オモチー!急ぎなさーい。」

ジンジャーが玄関のドアの所でオモチを呼んでいる。

「はーい!」

栗色のおさげがよく似合う、丸襟で花柄のブラウスに短めのプリーツが可愛らしい、10才のオモチが階段から駆け降りて来た。車に乗り込むと、エンジンの音が勢い良く掛かり出発する。

「ねぇ、どうしてもその子を連れて行かないと駄目なの?」

「それは昨日説明したよね、パパに協力してくれる約束だろ?」

オモチは少しむくれた様子で

「だけどさ、いっつもウスおばちゃん家でお留守番してるんだよ、こう言っちゃなんだけど、私いい子にしてるんだから!パパとお出かけ久しぶりなのに、その子のせいで楽しく無かったらもうパパとは口をきかないからね!」

「おいおい、そんなに悲しい事言わないでくれ今日は三人で楽しい1日にしような。」

「………」

オモチはまだ少しむくれた様子を隠せない。

車はペキの居る病院向けて走って行った。

ペキは一人病院の待合室で待って いる。

「今日は外出なのね。私も一緒に付いて行きたいなあ…。早く名前を思い出しなさいよ。退院したら私とデートでもどう?」

看護師が言った。

「あぁ、」

ペキは無愛想に言うが、整った顔立ちと引き締まった体は看護師達を虜にしているらしい。

一人、又一人と看護師がペキの所に来ては声を掛ける。

両の手首を顔の所迄持っていき人差し指を交互に突き出しペキに向け

「夕方迄には戻るのよ。じゃ無いとあんたの大好きなハンバーグ、食べちゃうぞ!」

看護師の仕草にペキは苦笑いをする。また別の看護師は、柱の影でうっとりとした目でペキを見詰めている。

ペキが疲れた顔色を見せ始めたとき、

「ほら、迎えが来たわよ!」

色めき立った彼女達と、うんざりした顔のペキの間に大きな壁をつくるようにして、逞しい体をした看護師が立ちはだかった。

その看護師は、強引にペキの腕を掴み立たせると、バチっと派手なウインクを放ち、

「楽しんでらっしゃい!」

と思い切りペキの背中を叩いた。

「あ、あぁ。」

看護師の制服を、その分厚い大胸筋に張り付かせながらカミュールはペキの背中を見送った。

「全く、人間の女は油断ならないんだから!」

「あのー、あなた何処の科の看護師?」

後ろから、恐る恐る声を掛けられる。ぶつくさと文句を垂れていたカミュールは驚き小さく跳ねると、

「む、向こうっ!向こうの方の看護師よっ!」

右腕を進行方向に真っ直ぐ、人差し指迄ピンと伸ばしてそのまま歩いて行った。


「男?女?あれはどう見ても男だろ?でもあのウインク、それにあのごっつい腕…。どっかで見たこと有るような…?」

記憶のほんの一欠片が動いた気がしたが、彼女?のはち切れそうな制服がそれをかき消した。

「それにしてもすげー力だぜ。背中がヒリヒリする」

ペキは背中を擦りながらジンジャーの所へ走って行く。

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