テスト明けの翌週。授業参観は五時間目。義務教育最後の学年とはいえ半数くらいの親は来ているのだろうか、教室の後ろからはざわざわとした気配を感じる。

 ──継母は、ちゃんと太郎の授業参観に行っただろうか。あれ以降授業参観の話は出なかったし大丈夫だとは思うけれど、もし行っていなかったとしたら。俺はあの人を許せるだろうか。

 教師が、覚えやすいようにと平方根の語呂合わせを何度も繰り返している。リピートアフターミー、となぜか突然英語で我々にも声を出すよう促すと、後方からさざめくように笑いが起きた。ウケ狙いが成功して、教師の満足げな顔がちょっと鬱陶しい。

 ひとよひとよに……何度か言わされているうち、その声の中に子どものものが混じっている気がして後ろを振り向いた。

 太郎?

 継母に抱っこされ、なぜか機嫌よく語呂合わせを唱和している。彼も参観日だったはずなのにどうしてここにいるのか。継母がいるか、あるいはいないかの二択しか考えていなかったので、想定外のことに反応が出来ない。目が合いそうになって、慌てて視線を前に戻した。


 部活動を終えて、家に帰りつくのは6時過ぎだ。インターホンを押す。ずっと自分で鍵を開けていたので未だに慣れないけれど、最初の頃自分で鍵を開けてリビングに入ったら継母に悲鳴を上げられたのだ。曰く、帰ってきたことに気付かなくて驚いたとのこと。以降、手間をかけさせることに若干の申し訳なさを感じつつも、鍵を開けてもらうようにしている。

 いつも通り鍵を開けてもらうと、そこには常ならテレビにかじりついているはずの太郎が仁王立ちしていた。ちょっと怯みながらもただいま、と声をかけると。


「ひとよひとよにひとみごろ!」


 どや顔というのはこういう顔だ、と言わんばかりの表情とともに語呂合わせを叫んで見せた。


「……おう、よく覚えたな」

「こんなのかんたんだよ!」


 どう答えるべきか判らず、さらに彼を押しのけて玄関に上がってもいいのかちょっと悩んでいると、奥から継母も出て来た。


「お帰りなさい。ごめんね、覚えたのが嬉しかったみたいで」


 継母は、太郎を後ろから抱えて脇に避けてくれる。さほど広い玄関ではないから、これで入れるとほっとしていると、太郎が再び叫ぶ。


「ひとなりにおごれや!」

「……惜しい」


 靴を脱いでようやく上がり框を超えることが出来る。そのままいつもの通り風呂場に向かおうとすると背中に声がかけられた。


「来るなって言われたのに行っちゃってごめんなさい。ちゃんと午前中は太郎の授業参観に行ったのよ。でもちょっとでも見たかったし、太郎も慶一君のも参加しなきゃダメだっていうから、午後お休みさせて一緒に行ったの」

「おれもさんかんした!」

「……来てくれてありがとな」


 振り向く。まだ土間にいていつもよりさらに低い視線に、しゃがんで合わせる。


「ひとなりにおごれま!」

「……ちょっと、離れたな」


 それから、俺が帰ったときに玄関を開けるのは太郎の仕事になった。



 ◇



 ある日、学校から帰ると既に玄関は開いていた。

 中から、聞いたことのない硬質な継母の声がする。……セールスか何かだろうか。


「だから帰って!ここから出て行って!もうあなたとは関係ないんです!」

「そんなことないさ、少なくとも俺と太郎は親子だ」

「養育費も払わないで何が親なの!?」


 ああ、と気付く。継母の元夫だ。どういう理由で来たのかは知らないが、俺が話に加わってしまえば何かややこしいことになってしまいそうで手前で足を止めた。継母が離婚した理由や詳細は何も話されていないから俺が聞いていい話ではないようにも思うけれど、聞く気がなくても二人の声は大きくて少し離れたここにまで会話は聞こえてきてしまう。やっぱり近付いて話を中断させた方がいいのかと悩んでいると、悲鳴のような叫びが届く。


「やめて!太郎に触らないで!」


 俺は大股で玄関まで近付いた。


「どちら様ですか」


 敢えて上から見下ろすようにして声をかけると、男は振り返りそれからこちらを見上げて少し怯んだような声を上げた。


「え、ああ、相手の息子か。今は大事な話をしてるんだ、ちょっとどいててくれ」


 そういった男の片手は、太郎の腕を掴んでいる。太郎は、自分を庇うように抱き締める母親に、縋りつくというよりもまるで自分が守っているのだというように抱き締め返していた。

 唐突に湧き上がる感情に、自分でも驚く。俺は男を半ば無理やり押しのけると、太郎の手にあるままのその男の手を掴んだ。


「な、なんだよ放せ!」

「お前が放せ」


 ぐ、と関節を押えるように少し力を入れると男の手が太郎の腕から離れた。同時に俺も手を放す。


「子どもがっ、大人の話に口を挟むんじゃない!」

「大人ってのは話を暴力でするのか?」


 自分でも驚くほど低い声が出た。

 男は怯んだのか一歩後ずさりながらも、うるさく喚きたてる。


「暴力はお前の方だろ!」

「正当防衛だ」

「うるさい!」

「お母さん、警察を呼んでください」


 継母ははっとしたように顔を上げた。腕の中の太郎の手を引き、急いで家の中へと駆けていく。


「息子に会いに来ただけで警察を呼ばれる筋合いはない!」

「腕をつかむのは暴行罪、出て行けと言われているのに出て行っていないのは不退去罪だ」

「うるさいうるさいうるさい!」


 激昂した顔で殴りかかろうと伸びてくる男の手を掴み少しばかり傾けてやると、男の身体は面白いくらいあっさりと土間部分に転がった。癖でそのまま寝技をかけたくなるが、そこは自重する。


「い、たい痛い痛い痛い痛い放せ!」

「警察に捕まるのと、二度とここに来ないのと、どっちを選ぶ?決めるまでこのままだ」

「お前には関係ない!放せ!」

「家族に危害を加えられそうになってるんだ、関係ない訳ないだろ」

「痛い!判った、来ない、来ないから放してくれ!」


 手を放すと、男は恐ろしく素早い動きで起き上がりそのまま外へと駆け出して行く。

 玄関を閉め、鍵までかけたことを確認していると、奥から太郎が走ってきた。


「けいいち!だいじょうぶ!?いまママがけいさつよんだ!」

「太郎だめ!危ないから戻って!」


 すぐ後ろを継母が追いかけてくる。


「大丈夫です。追い出しました。……大丈夫ですか」


 継母は崩れるように膝をつき、そのまま太郎をきつく抱き締めた。


「……ママ?もうだいじょうぶだって。……ママ?」


 太郎は、どうしていいのか判らなかったのか、ちょっと困った顔をしてこちらを見る。そんな目で見られても俺にはどうとも出来ない。そして狭い玄関でそんなことが行われているものだから、俺だけ中に入るということも出来ない。


「……慶一君、ありがとう」


 しばしの沈黙の後、継母はようやく顔を上げるとそんなことを言った。


「……いえ、大したことは」

「それからごめんなさい」

「え?」

「私、パニックになってしまって、あなたを置いて、その……逃げてしまって」

「警察を呼んでくださいと言ったのは俺です。それに……」


 それに、と何となく言葉を繋げてから、ああ、自分はこんなことを思っていたのかと理解した。


「俺は、あなたに母親になってほしいなんて思ってません」


 ひゅ、と息を吸い込む音が聞こえた気がした。


「俺には、人よりも少し短い期間だったけど、ちゃんと母親がいました。たくさんの愛情を、貰いました。あなたが無理に俺に母親としての愛情を注ぐ必要なんてないんです」

「で、も」

「でも、太郎にはまだ足りない。もっともっと、あなたが愛さなきゃいけない。俺に気を遣って太郎を蔑ろにしていい理由なんてどこにもない。だから、さっきあなたが太郎を守っているのを見て俺は嬉しかったんです」

「慶一君……」

「あなたが太郎を優先するのは当たり前だし、それを変える必要なんてない。人からおこぼれで貰う愛情なんて俺だってごめんです。俺を母として愛そうとしてくれてありがとう。でも、俺は大丈夫です」


 俺がもっと小さければ思うことは違うのかもしれないけれど、俺には確かに愛情の記憶があるから。それは俺の中で生きているから。だから、大丈夫だ。ちなみに親父だって別に愛をくれていないわけじゃない。読み取りづらいけど、ちゃんと愛されていることは知っている。


「むずかしいはなしわかんない。ママ、たろうおなかすいた」


 まだ動かないままの母親に焦れたように、太郎が声をあげる。


「そう、ね。まずはご飯にしましょうか。慶一君は先にお風呂入る?」

「いや、警察が来るでしょうから、それを待ってからにします。とりあえず先に太郎にご飯食べさせてやってください」

「判った、ありがとう。あ、太郎、もう絶対インターホンに出る前に鍵開けちゃだめよ」

「だってけいいちだとおもったんだもん」

「え?」

「慶一君が帰ってくる時間だったから、ピンポンなった瞬間に太郎が玄関に走って行っちゃって」


 飼ったことはないけれど、玄関で飼い主を待ち構えている飼い犬の姿を思い浮かべてしまった。


「……じゃあ、明日からはインターホンの確認も太郎の仕事だな。頼んだぞ」

「わかった!」


 別に本当の母親じゃないし、本当の弟じゃない。

 それでも、何とか愛情を注ごうと努力してくれる人がいて、帰りを待ちわびてくれる人がいる。

 これでいいじゃないか。うちには、家族がいる。



〈了〉

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UPWARD REVISION 甲斐瞳子 @KAI_Toko

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