UPWARD REVISION

甲斐瞳子

 いわゆるステップファミリーというやつである。


 母親は、俺が小学五年生のときに亡くなった。もちろん悲しかったし寂しかったけれど、家事能力の一切ない親父と二人で生きていかなくてはならないという現実が、その感情を紛らわせてくれた。

 自分で出来ることはこなし、無理そうなら外部の手を借り。悲しみや寂しさが落ち着いてくる頃、何とかそうして男二人で生きる日常を繰り返すことが出来るようになった。

 そして中学三年になった今、また新しい環境への変化が起きた。


「初めまして」


 日曜の朝、10時を過ぎてようやく布団から出て来た親父に連れ出された先は、今まで足を踏み入れたことのないやたらと高そうなフレンチレストランだ。

 そもそも日頃外食なんてすることのない朴念仁が、突然ランチを食べに行こうなんて言うのだから怪しいと思っていた。

 案内された個室に入れば、随分と緊張した様子の女性がいた。親父と同年代くらいか、記憶にある母親の雰囲気によく似ている。ふわっとした、優しそうな人だった。そしてそのすぐ横にいる、明らかにまだ小学生にもなっていないだろう男の子。と言ってもそこまで小さくはないから、年長くらいだろうか。睨むように、というかはっきりと俺を睨んでいる。

 この人たちと家族になりたいと思っている、そんな親父の言葉とともに現れた二人。女性は小さく微笑んでよろしくね、と呟いた。


 あまり、小さい子に好かれるタイプではないと自覚している。

 中学に入ったと同時に伸びあっさり平均を大きく超えた身長と、気分で選んだ柔道部のせいで付いた筋肉。そしてあまり喜怒哀楽を表に出すのが得意ではなく喋るのも下手だ。今までの経験から、小さい子と小動物には怯えられるものだと諦めている。

 だからと言って弟になる子に怯えられるのは本意ではない。そう思って、出来る限りの優しい顔でよろしくと手を差し伸べたが、その手は作り物のような小さい手に弾かれた。


「かぞくじゃない!」

「こら!なんてこと言うの!」


 慌ててその子を叱る女性と、取り繕うことも出来ずおろおろするだけの親父。


 ああ、判る。そんなことを思ってしまう。

 いきなりこの人たちと家族にとか言われても納得出来る訳ない。ましてや幼稚園児だ。

 俺だって世間的には多感な時期とか言われる中学生、しかも受験生な訳で、いきなり再婚とか正気の沙汰じゃないなとも正直思ってしまう。


 でも。理解出来てしまう程度には、俺は世間を知ってしまっている。このタイミングは、子どものことを──俺たちのことを──思っての行動なんだろう。

 大前提にあるのは、子どもには両親が揃っているのがいいという思考。

 俺の立場を考えれば、受験生になってまで家事で勉強時間を減らすわけにはいかない。

 この男の子の立場を考えれば、小学校に入ってから名字が変わるのでは可哀想だ。

 多分そんなところだ。

 親父は器用な人間ではないけれど、それでも親として俺のことを大事に思ってくれているのは知っているし、そんな不器用な親父が良かれと思ってやっているのだ。多分この善良そうな女性も。

 そんなことは望んでいないし、大きなお世話でしかない。でも──大人には子どもが成人するまでその人生を担う責任があるけれど、大人本人が幸せになることだって大事なのだ。そんなことは知っているから、だからここは譲ってやらなければならない。

 けれど幼稚園児には荷が重過ぎるよなぁと、新しく出来る弟に些かの同情を覚えた。


「そっか、じゃあまずは友達になってくれるか。俺は慶一、君は?」


 宙に浮いていた手をゆっくりと下げ、なるべく身体を屈めて視線を下げてからもう一度話しかける。男の子はまだ少し不満そうな顔をこちらに向けた。


「……たろう」

「太郎、よろしくな」


 もう一度差し出した手は、今度は弾かれなかった。



 ◇



「大人びてるって言われない?」


 初めて会って、あっという間に籍を入れて、あれから一月ほどが過ぎた頃、夕飯の支度を手伝っていると突然そんなことを言われた。

 すぐ横に立つ人は、まな板の上の人参をひたすら刻んでいる。そんなに細かくするということはあの子は人参嫌いなのだろうか、それともこの人自身が嫌いなのだろうか、そんなことすらまだ知らない。


「ああ、まあ、言われることもありますね」


 とりあえず無難な受け答えをする。たぶん、大人びていないとこの状況は理解し辛いだろう。


「慶一君が、こうして私たちのことを受け入れてくれてよかった」


 随分と軽い調子で言われた言葉に、受け入れたくて受け入れたと思ってる?そんなことを口にしてしまいたくなった。でもそれは飲み込む。大人だって都合がある、子どもに都合があるのと同じように。

 この人だって自分が母親として本当に受け入れられたとは思っていないだろう。一生懸命頑張ってくれていることは知っているけれど。

 それに、今一番気にしなければいけないのは俺のことじゃないだろうに。

 キッチンから見えるリビングのソファで一人寝転がる太郎は、手にしたおもちゃの剣を所在なげに振っていた。


「太郎……君は、新しい幼稚園に慣れましたか?」

「ええ、お友だちも出来たみたい。急だったけど、空きがあってよかったわ」


 とりあえず友だちが出来たことにほっとする。こんな環境で、友人さえ出来なかったとしたらどれだけ辛いだろう。一番の味方であるはずの母親は、自分を置いて新しい環境にあっさりと慣れてしまっているのだから。


「そう言えば、授業参観あるのね」


 不意をつかれた。確かに授業参観はある、が学校からのプリントは処分したはずだ。中学校のホームページにも載ってはいるけれど、まさかそこまでチェックしているとは思わなかった。


「私行ってもいいかしら。慶一君が学校でどう過ごしているのか見てみたいの」

「あ、ああ、まあ…」

「ママ!たろうのは?たろうのもあるよ!」


 こちらの様子を何も気にしていないのかと思っていたが、どうやら話は聞いていたようだ。

 太郎はがばりと起き上がると、どたどたと足音を立ててキッチンへと入ってきた。


「太郎、ご飯の準備をしてるときはキッチンに入って来ちゃだめだって言ってるでしょう?」

「けいいちははいってる!」

「お兄ちゃんは、お手伝いしてくれてるの。太郎はご飯が出来上がるまで待ってなさい」

「たろうもてつだう!」

「邪魔になっちゃうからだめよ」


 母親は、ことさらに厳しい口調で太郎をキッチンから追い出した。太郎は不満を表情で雄弁に語りつつも、再びリビングのソファへと向かう。


「太郎の幼稚園も同じ日に平日参観があるのよ。だけど幼稚園はまた土日参観もあるから、今回は慶一君の方に行きたいと思って」

「来ないでください」

「……迷惑になっちゃう?」

「太郎君の方に行ってあげてください。幼稚園の参観日に親が来ないとか、そんなのだめでしょう」


 語気が強くなってしまった。

 六年生のときの授業参観日を思い出す。授業が始まっても、子どもが高学年ともなれば仕事をしている母親も多く、恐らく半数ほどの親しか来ていなかったと思う。もちろん自分も母を亡くし、誰も来ないことは重々承知していた。それなのに。

 自分は一度だけ後ろを振り向いた。


 薄切りにしたきゅうりをボウルに入れて、塩をなじませる。周りに飛んだ水滴を布巾で拭って、それから俺はエプロンを外した。


「味が馴染むまで、明日の準備してきます」

「……ええ、お手伝いありがとう」


 キッチンを出て自分の部屋に行きかけてから、ふと思いついて太郎に声をかけた。


「太郎、ちょっと手伝ってくれるか」

「なあに」

「本を運びたいんだ」

「……いいよ」


 暇を持て余していた五歳児は、手にしたおもちゃの剣をそのままに大人しく俺の後についてきた。階段を上り部屋に入ると、太郎はきょろきょろと忙しなく辺りを見回す。そう言えば一度もこの部屋に入れたことはなかった。生活リズムが違うから、あまり触れあうこともない。今日のように定期テストで部活動が禁止でなければ、こうして会話するタイミングもあまりないのだから。


「そこの本棚の一番下の段」

「……ここ?」


 太郎が指差した先には、雑誌や判型の大きい本の類が一緒くたに詰め込まれている。

 昔はよく本を読んだものの、母が死んでからは新しい本や雑誌を買うことはほとんどなかった。棚に詰め込まれているのは、自分が小学五年生までに買ってもらって捨ててすらいない、子供向けの絵本や雑誌、ムックの類だ。


「そこを整理するから、運ぶのを手伝ってほしいんだ。もし読みたいのがあればあげるよ」

「わかった」


 本棚の前にどかりと座ると、太郎もすぐ隣に腰を下ろす。棚に詰め込んであるものを全て取り出し、彼の目の前に置いた。

 一番新しいもので、小学生向けの学習雑誌が何冊か。最も古いのは、ウルトラマンのムックだろうか。


「ウルトラマン、知ってる?」

「知ってる。これ、変身するやつ」


 太郎は、ずっと手にしていた剣をこちらに向けて見せてくれた。言われてみれば剣にしては短い。変身アイテムだったのか。改めて彼自身を見れば、着ているTシャツもウルトラマンだ。


「じゃあこれ、読むか?」

「読む!」


 彼はそのままムックを手に取り読み始める。まあ読むと言ってもまだ文字が読めるのか判らない。見る、のほうが正しいかもしれない。

 その姿を確認してから、俺は明日のテストの準備を始めた。

 ふと小さい頃を思い出す。母もよく手伝って、と言う人だった。だが今考えればそれは手伝いでも何でもない。単に一緒に何かをするときの口実だったり、どう考えても足手まといだったりで、それでも俺は手伝ってと頼りにされる言葉を聞くのが嬉しくて仕方なかった。年齢が上がっていく中でそれは本当の手助けになることも増えて、それもまた面倒ではありながらも誇らしかったのだ。

 夢中でページをめくる幼稚園児に、当時の自分を少しだけ重ね合わせる。

 キッチンに戻る気にはなれなかった。



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