フィジェット・ボタン

武見倉森

フィジェット・ボタン

 家のなかに細切れの時間を埋めるだけのものがあるのを、一つの幸運としてジョン・グレイは捉えることができた。家にはフィジェットトイが無数にあった。スピナー、キューブ、ボールなどの形状ごとに箱を用意し、そこに入れて棚に置いていた。だいたい、左手で扱うことが多い。グレイは右利きで、右手はエッセンシャルワークのためにあった。歯ブラシやフォーク、スマートフォン……。そうして余った寂しい左手をフィジェットトイが埋めた。

 大学を卒業してしばらくは実家に暮らしていたが、二八歳になったあたりで引っ越しを考えるようになった。車で三〇分かけるのが無駄に思えたからだった。自転車で職場に行ける場所を選んだ。玄関を開けるとすぐ左手にキッチンが現れる、広くはない部屋だったが、文句はなかった。ひとつ、とても気に入ったのが、キッチンの壁――薄汚れた、コンロの左側にある壁――にボタンがあったことだ。換気扇のボタンだと最初は思ったが、押してもなにも反応のない、繋がっていないボタンだった。そこもまた気に入った点だったが、最大のポイントは押し心地にあった。

 押すと内蔵されているバネの力強さを指の腹でかんじることができた。そしてカチッと乾いた音がする。ボールペンの頭を押すのに近い感触だったが、それよりももっと無機質な硬さを感じた。押すとその硬さが体のなかをかすかに反響するような気がした。何気ないボタンなはずなのに、押す瞬間はひとつの爆発を体感するみたいに大ごとなんだ、とグレイは友人に言った。

 グレイはこのボタンを、レンジでなにかを温めているときなどに押した。一度に二回以上押すような野暮な真似はしなかった。朝に押して仕事へ向かい、帰るとまた押す。寝るまえにミネラルウォーターを冷蔵庫から出すときにもついでに押した。つまり、キッチンに行くたびに。だが、ボタンを押すためにキッチンに向かうことはなかった。それは趣旨からずれるだろう、というのがグレイの意見だった。

 ボタンを押すと世界のどこかの誰かがランダムに死ぬという話を聞いたのは、入居してから半年以上経ってからだった。グレイはそれを、アパートのオーナーから聞いた。

 アパートの入口でたまたま鉢合わせたのだった。グレイからボタンの話をすると、オーナーの目が翳り、死のボタンの話をした。オーナーが狂人の一歩手前をぎりぎり踏みとどまっているという話はアパートの住人の共通の話題だった。

「それが本当なら」とグレイは失礼にならないように笑い声を抑えた。「わたしは毎日三人ほど殺していることになりますね」

 オーナーはそれを聞くと一度口を結んでから、ため息だけを外に逃がした。まあ、信じなくともいいさ、と言うように二、三度うなずいてその場を去った。

 結局、グレイはオーナーの言葉が気にかかった。オーナーの真意がどこにあるかはわからなかったが、気分が良くなるようなジョークではないことは確かだった。グレイには時間を置いた怒りが沸いた。せっかく日々の楽しみの話をしようと思ったのに、なんで気分の悪い話を聞かせられなきゃならないんだ?

 オーナーのジョークとボタンへの欲求について数日考えたグレイは結論を出した。朝のトーストの時間、一日一回だけボタンを押していい。二回となると多いからな、とグレイはひとりごちた。そうしてボタンを押す生活に戻っていった。ときどき、押す瞬間に自分の体に響く感触を、銃の発砲したときの反動のように感じることがあったが、そのときはボタンを押さなくても世界中で人が死んでいるという事実を思い出すことにした。


 グレイが自転車で会社へ向かっていると、端末ホルダーのなかでスマートフォンが光った。実家の父からの電話だった。グレイは自転車を路肩にとめてから通話をつないだ。学生時代、自転車に乗りながら電話をしていて車に引かれたことがあった。車のスピードが出ていなかったから、左足の骨を折るだけで済んだが、そのときに感じた体への衝撃はまだ憶えていた。父はとても慌てていた。先ほど母が倒れたのだと言った。父はまず九一一で救急車を呼んでから、息子へ電話していた。

 当然、グレイはその日もボタンを押していた。押さなくても母は倒れたと思うか、とグレイは父の声を遠くで感じながら、自分に問うた。

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