第146話 血
始皇帝の持つ黒い大剣が、邪悪な魔力光で満たされた。まるで松明の炎のように大剣に纏わり付いて、黒い魔力光が揺れ動く。
「この魔剣をみよ。これは罪劫王ディアナ=モルスから授かった魔剣だ。これは魔神の血を一滴付着させておる」
始皇帝は腐った眼球に狂熱的な光を宿した。
始皇帝の大剣が魔神の加護を受けて、その力を解放し、強さを増していく。
始皇帝の持つ2メートル近い大剣が、黒い業火を伴い強い波動を巻き起こした。
その波動は焼き付ける程熱く、同時に凍える程に冷たかった。
この世のあらゆる凶兆を含んだかのような禍々しい波動が、始皇帝の魔剣から波となって空気を伝播する。
ナギの後方2キロに位置し、ナギと始皇帝の一騎打ちを見守るセドナたちにも、その魔力の波動は伝わっていた。
「なんという邪悪な魔力だ」
エヴァンゼリンが絶句した。
灰金色の短髪の少女はこれ程猛悪で、これ程おぞましい魔力光を体感したのは初めてだった。
勇者として国家に認定されて十年になる。それまで数多の敵と戦ってきた。魔物とも魔獣とも悪魔とすら戦ってきた。
そのどれもが、凶悪と言って良い存在だった。
だが、これ程の殺意、憎悪、怨嗟、怨念、侮蔑、呪詛に満ちた魔力は存在しなかった。
(魔神とはこれ程か……)
エヴァンゼリンの端麗な顔に冷や汗が流れた。
かつてこれ程、恐怖を感じた事がはたしてあっただろうか?
「信じられん。魔神の加護だと? 魔神の血が、たかが一滴付着しただけでこんな魔力が発動するのか?」
常に冷静なクラウディアさえも声を上擦らせた。常軌を逸した魔神の力に戦慄を覚えた。
クラウディアは聖槍を握りしめ、魔神の猛威に呑まれないように自らを奮い立たせた。
「……魔導の理を超えている……」
アンリエッタが小柄な身体を震わせた。白髪赤瞳の大魔導師は、その幼い顔立ちに困惑と恐怖の色を浮かべた。
《叡智の一族》として星々の歴史を紡ぐ使命を担う彼女は、あらゆる魔導に精通している。
そのアンリエッタでさえも、魔神の力の一端。しかも、その魔神の一滴の血に怯えたのだ。
「……これが《僭神》。《神の末座》にある者の力か……」
白髪赤瞳の小柄な大魔導師が、両手で杖を強く握りしめた。両親から貰った魔法の杖。それに縋らなければ心身の安定を保てなかった。
(……桁が違い過ぎる。これが魔神……)
アンリエッタは、身体を微細に震わしながら思った。
魔神の力の一端を初めて体感した。
まさか、これ程とは予想外だった。
アンリエッタは自身の魔導に、いささか自信を持っていた。
それは当然の自負であり、彼女のレベルに到達した魔導師ならば自負心を持つのは当然であったろう。
だが、アンリエッタの自身の魔導への信頼が、今魔神の力を前にした途端、砕け散りそうになっていた。
(……魔神の血の一滴。それでこの力……。いったい、魔神を討滅するにはどうすれば良い? ……いや、そもそも、討滅できるの?)
アンリエッタの赤瞳に恐怖と疑心の光が渦巻いた。
レイヴィアは無言でセドナを背に護りつつ、全員に魔法障壁をかけて魔神の波動を緩和した。
だが、レイヴィアの魔法障壁を突き抜ける勢いで魔神の魔力の波動が伝播してくる。
それは微風に等しいため、肉体にダメージはない。
だが、圧倒的な凶兆を含む毒の風の如き魔力の波動に、全員の心身が恐怖に浸食されているのをレイヴィアは感じていた。
(……魔神め)
レイヴィアは唇を噛みしめた。桜金色(ピンク・ブロンド)の髪と桜色の瞳をした精霊の脳裏に、闇が蠢いた。
それはかつて魔神と対峙した時の記憶。
精霊界に突如乱入し、精霊界の秩序と平穏を破壊し尽くし、数多の精霊の命を簒奪した魔神の姿。
顔も名をもなく、見ることさえ叶わぬ。確かに存在しつつも、何処にも存在しない魍魎の如き邪神。
この惑星を創成した女神フォルセンティアの魂と神律を穢した絶対悪。
(そして、あまつさえセドナを……)
レイヴィアは背中にいるセドナに思いを馳せ、胸の痛みに耐える。
ついで、レイヴィアは前方2キロの地点で始皇帝と対峙しているナギに視線を送った。
(はたして……、ナギでさえも勝てるのじゃろうか?)
桜金色(ピンク・ブロンド)の髪の精霊の胸中に不安が霧のように渦巻く。
疑念に襲われるレイヴィアに対してセドナがレイヴィアの肩を優しく、だが、強く手をおいた。
「ご心配なく、レイヴィア様。ナギ様が必ず勝ちます」
セドナが、夢幻的な美貌に微笑を浮かべた。
レイヴィアはセドナの微笑に驚かされた。
銀髪金瞳のシルヴァン=エルフの少女の微笑は、無理して作り上げたものではなく。自然なものだったからだ。
ナギの勝利を心から信じていなければ出来ない微笑なのだ。
「……お主はどうして、そこまでナギを信じられるのじゃ?」
レイヴィアは思わず尋ねた。
「ナギ様が勝つ、と仰せられたからです」
セドナが、当たり前のように言った。
10歳のシルヴァン=エルフの少女の顔には、魔神に対する恐怖は一切なかった。ただ、ひたすらに愛しい人に護られ、信じることに喜びを感じる乙女だけがいた。
レイヴィアは、笑いをもらした。これ程痛快な気分は久方ぶりだった。
10歳のシルヴァン=エルフの少女が、仲間であるナギを信じている。 ならば、自分も信じなくてどうする?
儂もナギの仲間じゃろうにのぉ……。
「そうじゃな。ナギは必ず勝つ。儂らはノンビリと観戦じゃ」
「はい」
セドナが、細長い耳をウサギのように上下させて答えた。
◆◆◆
始皇帝は玉座の上で魔剣を構えていた。
ナギも応じて、神剣〈斬華〉を晴眼に構える。
互いに間を取り合う段階である。
剣での戦いには、戦う前に必ず間の取り合いがある。
間と間合いという言葉があるが、これは剣術から出来た言葉である。
間は「時間」。間合いは、「距離」と「角度」の事である。
時間を制し、距離と角度で相手を上回り、優位な態勢を整える。
その後に斬り合いが起こる。
だが、ナギと始皇帝のような魔力を有する者同士の場合。それに加えて、魔力による牽制、しのぎ合いがあった。
達人同士が真剣で殺し合う場合、殺気、気迫で敵を制圧する。
それと同じ事を双方がもつ魔力で行うのだ。
今、ナギの肉体から放射される白い神力の魔力と、始皇帝の巨躯から放射される黒い魔神の魔力が鬩ぎ合っていた。
それは津波同士の衝突や、暴風同士の衝突のように凶暴かつ、壮絶だった。
ナギの白い魔力の波動が押すと、始皇帝の黒い魔神の魔力の波動が、負けじと押し返す。
魔力による制圧戦で、敵を削ろうとナギも始皇帝も双方が動かずに互いの魔力で攻撃と防御をしあう。
魔力で敵を押し潰す事が出来ればそもそも、剣を交える必要すらない。
同等レベルの魔力がある場合、少しでも有利な態勢に持ち込み、そこから剣撃を開始するのが常道である。
ナギも始皇帝も互いに魔力による制圧戦に力を振り絞り、容易に崩れない。
やがて、始皇帝が腐った口を大きく開いた。
「中々やるではないか、小僧。魔神の討滅を目論むだけの事はある」
始皇帝は心から愉快そうに笑声をたてた。
「始皇帝、お前の事も褒めてやろう。魔力も規格外だが、お前自身の修練で身につけた剣技だけでも相当なものだ」
ナギは神剣〈斬華〉を両手で持ちながら告げた。
事実、始皇帝の剣技は練達の域に達している。並の剣士では相手にもなるまい。
(始皇帝は生前、死に至るまで剣の修練を怠らなかったという逸話は事実だったようだな)
ナギは胸中で思った。
始皇帝は死の直前まで暗殺を恐れた。
そして、暗殺を回避するために鍛錬を怠らず、武芸に励んでいたとされている。
始皇帝が、玉座の上から一歩進んだ。刹那、黒い魔神の魔力の波動が膨張し、ナギの白い魔力の波動を僅かに減殺させた。
だが、すぐさまナギは始皇帝の魔力を押し返して均衡を保った。
その光景を見た始皇帝は腐った眼球に奇怪な光をよぎらせた。
「見事だ、相葉ナギ。魔神に刃向かう者よ。どうだ? 予と手を組まぬか?」
始皇帝が言った。
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