第2話 放課後、部活動見学
私は体力が無い。どのくらいかというと、千メートル走を走り切れないくらいには。
「ほんと、体力無いね」
「うるさい」
みっともない姿を晒すのは好きではない。息を整えつつ平静を装うと、浮田はそれ以上何も言わなくなった。気を遣われているらしい。
四階からはピッチの外れたカーロ・ミオ・ベンが聞こえ、女子たちの話し声が階段の吹き抜けを反響していた。しばらく経って呼吸が落ち着いてくると、私たちの静かさとそれらとの対比が気になった。それは浮田も同じだったようだ。
「新入生が来て嬉しいんかね。すっごいうるさい」
そう言いながら腕を組んだので私はその腕を叩いた。ごめんごめん、と笑う浮田に、こいつは何度注意しても本当に反省しないと呆れていると、三階の廊下から女子が歩いてくるのが見えた。立ち止まっては周囲を見回す、いかにも新入生ですと言わんばかりの挙動不審な様子だった。
そのまま過ぎ去るか引き返すかしてくれと思っていたのだが、その女子は私たちから二メートル程離れたところまで近寄って話しかけてきた。
「あの、音楽室ってどこにあるかわかります?」
「白木」という名札が胸元についていた。なんとなく白が似合わない雰囲気のある女子で、私よりも少し身長が低かった。
疲れている私は何も答えず、当然のように浮田が返答した。
「いや、わかんないや。私たちも新入生だから」
「あ、そっか……ごめん」
きょろきょろしながら一向に立ち去ろうとしない彼女を見て、私はもう一方の階段の方へ行こうとした。ここにいると絡まれそうだったからだ。その意図を察した浮田も私についてきたが、面倒なことに「白木」はまた話しかけた。
「今から見学? 良かったら一緒に行かない? 私、ほとんど知り合いがいなくて」
浮田が私をちらりと見た。私が面倒だと感じているのがわかったらしい彼女は断る。
「んー。ちょっと忙しいから、別の人を当たって」
「そっか。わかった」
それじゃ、と言って「白木」は階段を下りて行った。黙って階段を上る私の隣で浮田は話しかける。
「変な子もいるもんだね」
「ほっとけよ」
「言われなくても。部活でお友達できるだろうしね」
四階に辿り着くと、楽器を持った人たちで廊下があふれかえっていた。吹奏楽部だろう。先に来ていた新入生らしい生徒たちに話しかけているのが見える。どうりで騒がしいと思った。
「新入生? 見学に来たの?」
「いえ、吹奏楽部じゃなくて美術部に行きたいんです。美術室ってどこにありますか?」
浮田が私を庇うように一歩前に出て言った。こういうところは非常に便利だと思う。
「ああ、美術部ね。美術部の部室ならこの廊下のあっち側の突き当たりにあるよ」
「ありがとうございます」
「良かったら吹奏楽部の方にも来てね」
「はい。ありがとうございました」
すたすたと歩いていく浮田の後ろを連れたっていく。通り過ぎる時に軽く会釈して吹奏楽部員たちの間を抜ける。ついでに下手な合唱部の声も無視した。
「お前は吹奏楽部に行かなくていいの?」
「うーん。興味ないって言ったら嘘になるけど、そんなガツガツやりたいわけじゃないし」
浮田は小学生の頃にトランペットを演奏していた。運動会や学芸会前になると放課後にクラブに出かけた。私は音楽に明るくないため上手い下手と断言することは出来ないが、彼女が吹奏楽経験者であることは確かである。私は彼女が吹奏楽部に行くと思っていたため、入部しなさそうな様子であることに少し驚いていた。
「じゃあどこに入るつもり?」
「すみゃあは美術部入る感じだし、じゃあ私も一緒にってとこ。一瞬運動部とか考えたけど……ほら、恥ずかしいじゃん?」
「ああ、まあ」
四階の廊下にいてもグラウンドからは謎の掛け声が聞こえていた。さらに、私たちは遠く離れた先輩に大声で挨拶する二年生を見てしまっていた。あんな下品で迷惑極まりない行為が横行する部活には入りたくなかった。
「美術部って、イメージ大人しいタイプが集まってるっていうか、面倒な決まり事とか無さそうっていうか。楽そうじゃん? ちょうどいいかも、なんて」
「いいんじゃない」
「やっぱり? てことで……すみませーん、見学したいんですけど」
浮田が遠慮なく美術部の部室のドアを開けると、中にいた人物たちがこちらを向いた。くつろいでいる女子生徒が五人おり、男子はいなかった。
美術室の壁際には、描きかけのキャンパスが立てかけられたイーゼルや、完成品と思しき油絵が並べられていた。それらのほとんどが素人に毛が生えた程度の落書きか、やけに黒と赤の多い人物画か、まともではあっても稚拙で作品とは言い難いものだった。期待していなかったが予想をはるかに下回る酷い出来だ。
部屋の中心には移動式の横に長いテーブルが固められており、部員らしき生徒たちはテーブルを取り囲むように座っていた。その一人がはしゃいで声を上げた。
「わあ、新入生! 部長、部長!」
「はいはい。美術部の見学で良かったかな」
隣に座っていた生徒が立ち上がってこちらに歩いてきた。私たちは部室内に入り、後ろにいた私がドアを閉めた。代わりに浮田が返事をした。
「はい。そうです」
「見学、といってもそんな珍しいことはしてなくてね。部員の作品を見てもらうとか、あとはそこのテーブルでイラストを描いてもらうとか。それだけなんだ」
「なるほど……どうしよっか」
浮田が振り返って私を見た。他にめぼしい部活動もなく、美術部への入部はほぼ決定していた。様子見がてら部員と話しておくのも良いと思い、私は言った。
「ちょっと描いていこうか。部員の方も描くんですか?」
「待ってる間に描いてたよ。自慢できるほどでもないけど」
先ほどはしゃいでいた生徒が「おいでー」と言って手を振っていた。部長がテーブルに戻ったので私たちも続いた。
差し出された椅子に座ると、卒業生の使いかけのスケッチブックを渡された。授業で使ったものが流用されているようだった。
絵を描いた経験と言えば図画工作の授業くらいなもので、何か描けと言われても思い浮かぶものはなかった。浮田もそれは同じようで、困ったように言った。
「実は私たち、全然絵を描いたことがなくて」
「大丈夫。他の部もだいたいそうだけど、美術部は初心者歓迎だから」
部長は気にした様子もなく言った。ここにいる部員は五人しかいない。他に部員がいないとすれば存続も怪しいくらいの少人数だ。私は正式な部員数を知りたいと思い、かなり私に接近していた例のテンションの高い生徒に尋ねた。
「ここって部員はどのくらいいるんですか?」
「ん? ああ、部員ね。たぶん十人以上いると思うんだけど、うちは兼部可だからさあ。ちゃんと来てるのはここにいる五人だけかなあ?」
「新入生は他にも来たんですか?」
「新入生はね、初日に五人ぐらいぞろ~って来たよ。まあでも、この学校ってイラスト部とか漫研とかあるし、ほとんどそっちに流れちゃうと思う。去年もそうだったらしいし」
「そうなんですね」
私はテーブル下に目をやって彼女の内履きシューズを見た。差し色で学年がわかるようになっていて、私たちの学年は青色だ。彼女のシューズは緑色の差し色がある。部長は赤色だったので、どうやら彼女は二年生らしい。
「ああでも、金曜日に来た子は入部するらしいよ。絵画教室とか行ってたらしくて……」
彼女はその新入生のことを話しながら、私のスケッチブックにデフォルメされた猫を描いた。なかなか可愛らしい絵柄だ。きっと絵を描きなれているのだろうということが迷いのない描き方からわかった。
さらさらとその調子で描いていたかと思うと彼女はペンを置き、顔を上げて言った。
「あ、そういえば名前なんて言うの?」
「
「そっかあ。私は
「はい。よろしくお願いします」
森――森先輩は感情がわかりやすく接しやすかった。マイペースな振舞いだが不思議と嫌な感じはせず、陰気な印象の美術部には似合わない社交性があるように思えた。部長と森先輩以外は手元のスケッチブックに何か描いていた。彼らはどこか野暮ったい感じがして、私が想定していた美術部員らしい生徒たちのようだった。
浮田の方を見ると目が合った。浮田の隣に座っている部長も私の視線に気づいたらしく、「そうだった」と何か思い出したような口ぶりで話し始めた。
「美術部としての活動だけど、兼部していないなら毎日来てもらうことになってる。土日と祝日は休みね。時間は放課から六時まで。描くのは水彩でも油彩でもいいし、先生に言えば立体もできて、一年に最低一作品をコンクールに出すってのがノルマ。何か他に聞きたいことはある?」
「じゃあ」と言って浮田が尋ねた。
「夏休みはどのくらい部活ありますか?」
「週に一回は顔出してねって感じ。他の部は午前か午後に毎日やってるけど、うちは自由参加だよ」
「わかりました」
他に質問は無いかと部長が言ったので私たちは「ありません」と答えた。
することもなくなり、私は森先輩の描いたイラストを見ながら真似して猫を描いた。手本を見て絵を描くのは初めての気がした。元の絵柄が簡素であったのもあり意外にも上手く描けた。
隣で見ていた彼女は、へえと言って私を褒めた。
「上手く描けてるね」
「先輩のを見て描いたので。本当はもっと下手ですよ」
「ううん、ちゃんと模写ができるのは良いことだよ。センスあるんじゃないかな」
「センスですか。私はまだその判断ができるレベルにないので」
「大丈夫。きっとすぐ上達するよ」
そうしてくだらない会話とイラストの練習をしていると五時になっていた。部長が他の部活動を見に行かなくていいのかと言ったので、私たちは部室を出ることにした。
廊下は変わらず吹奏楽部によって塞がれていたため、上ってきたのとは異なる美術部の部室側の階段を使って降りた。四階の喧騒から逃れて三階に着くと、浮田は私に話しかけた。
「他の部活見に行く?」
「何か良さそうなのあった?」
「んー。演劇部とか」
「あこはやめた方がいい。勧誘してるの見たけど、普通に頭おかしい人の集まりだった」
「えー、マジか。んじゃあ他には……あ、イラスト部と漫研ってあるんでしょ? そこ行かない?」
「……覗くだけなら」
「じゃあ覗くだけね」
果たしてそれらは肌に合わない部活動だった。美術部の部長と森以外の部員のような陰気臭さがあるにも関わらず、他人の目をはばかることなくアニメや漫画の話で騒ぎ、妙な身内ノリをこちらに強要してきた。それが居心地良いと感じるタイプもいるのだろうが、私は馴染めないと直感的に思った。
結局私たちは美術部に入部することにして部活動見学を終えた。
帰り道、徒歩の私と自転車を押す浮田はたわいない話をしながら帰った。私の家の方が中学校に近く、浮田は少しだけ帰り道をずらし私の家の前まで着いてくる。それを嫌だと言うつもりはないが、わざわざ良くやるものだとは思っていた。
十分ほどして私の家の前に着くと私はさよならの一言もなく家に入ろうとしたのだが、浮田が「あのさ」と声をかけてきたのでドアに手を掛けたまま振り返った。浮田は変に顔を強張らせて、何とも言えない表情を作っていた。
「森先輩のこと、気に入ったの?」
「……別に」
「そっか。じゃあ、また明日」
ヘルメットをかぶって自転車にまたがった浮田に手を振ると、彼女は「またね」と言って走り去った。
私はドアを開けて玄関に入った。自動で照明が点くことにさえ何故だか苛立った。靴を脱ぎ、リビングへ行って鞄を置くと、入部届を取り出して必要事項を記入してダイニングテーブルに置いた。
「六時までとか、くそかよ」
私の独り言は何ら現実に影響を及ぼすことなく消えていった。
私は自分が公私の「公」に対して想像以上にストレスに感じていると知った。
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