一年
第1話 成績表、私と友人
三寒四温の「寒」を引き当てた入学式を終え、晴れて中学生になった私は翌日に新入生テストを受けた。それが木曜日のことだ。金曜日に初めての授業を受けて、土日を挟んで月曜日に登校した。つつがなく一日の授業が終わりホームルームの時間になると、担任は待機を指示して職員室に向かった。帰ってきたその手には紙の束が抱えられていた。
「はーい、皆さん。もう知っているかもしれませんが、今から、テストの成績表と答案用紙を返却します。出席番号順に取りに来てください」
教室内は生徒の声でざわついていた。他のクラスは朝のホームルームで返却されたところもあったらしく、担任が職員室に行っている間もテストの話で持ちきりだった。
出席番号一番の生徒が立ち上がったのを皮切りに次々と生徒たちが列になって並んでいった。教員たちは採点を急いだらしい。土日の出勤があるのか知らないが、随分仕事が早いと思った。
そわそわした様子の生徒たちは答案用紙と一緒に成績表をもらって席に帰っていく。何度か繰り返されるその光景を眺めているとすぐに自分の番が近づいた。私は重い腰を上げて席を立ち、私より番号が一つ若い生徒の後ろに割り込んで自分の番を待った。
前に居た生徒が受け取り終わった。誰かに話しかけに行ったその背をちらりと見てから一歩前へ出ると、担任は心なしかにやにやしながら成績表と答案用紙を手渡してきた。その表情を見て少し気分を悪くした私はそそくさと席に戻った。
成績表はA4用紙の三分の一程度の大きさの紙だった。国語、数学、理科、社会の四科目の点数、偏差値、校内順位がそれぞれ書かれており、さらに総合得点と総合順位が書かれていた。
ご大層なことで、と思いながら自分の成績を見た。総合得点389点、総合順位一番。嬉しいという気持ちが湧いてくるはずがなかった。
私は自分が周囲より賢いと知っていた。それでも、小学校よりも人数が増える中学校では所詮凡人の域を出ないだろうと思っていたのだ。むしろ自分を「普通」に落とし込んでくれる天才の存在を待ち望んでいたとも言える。誰もが思い描くような、一目見ただけで全部理解できる、などという天才らしい天才が居てほしいと。あるいは、私のちょっとしたお勉強の才能を圧倒してくれる「努力の秀才」が居てくれたなら、と。
私の自己評価は「普通」だった。特別扱いされたくなかったし、大多数と同じであるという利便性が欲しかった。それに、優秀だと褒められるたびに自己評価とのずれに苦しんでいた。
しかし、どうやら私は本当に優秀だったようで、小学校の倍近い二百人超の学年で堂々の一番になってしまった。国数理社の四科目400点満点で、389点。数学と理科は満点、国語は一問間違って一問三角の93点、社会は一問間違って96点だった。
確かに手ごたえとの差異はない。ないけれど、私は自分が普通であるはずだと思っていた。いくら点数が良くても、きっと中の上程度になれるはずだと。
返却を終えて、今後の勉強への姿勢を担任が話し終わった。ホームルームが終われば放課後だ。まだ成績表片手に騒ぐ生徒やこれから部活動見学に行く生徒などで教室はにぎやかである。
「一番だったの?」
と、幼稚園からの知人……いや、友人が話しかけてきた。彼女の名前は
「うん。まあ」
「さっすが! 何点? 私四番だったんだけどさあ、点数差どのくらいあるもんなの?」
「まずお前は何点だったの」
「365!」
浮田は成績表を私の机に叩きつけて言った。勢いよく叩きつけたせいで紙は床にひらひらと落ちて、背後に着地したそれを彼女が拾いなおした。
ほこりを払ってから机の上に置かれた成績表を見ると、総合得点365点と書かれている。私は裏返していた自分の成績表を翻し、彼女のそれと一緒に私から見えやすいように並べて配置した。
「うわあ、マジで一番じゃんね。あ、でも社会勝ってる」
「わかんなかった問題が二つあって、一個は合ってた」
「私もそれで両方合ってた」
「運良いね」
「まあね」
運が良いとは言ったが、浮田は本当に社会が得意だった。真面目に勉強していて、テストに出ないような細かい部分も覚えている。100点では測りきれないところで、私と彼女には明確な差があった。
私は国語と社会が苦手だ。数学、というよりも算数は間違いようがなく、理科も分からない部分がない。しかし、国語は出題者の意図を察しきれないため満点が取れない。社会は単純に覚えていない箇所がある。だから、社会は満点と90点台半々程度で、国語は運が良ければ満点といった具合だった。
「そういえば、
霧島は同じ小学校出身の男子で、今は隣のクラスにいるらしい。勤勉で通っているくらいには真面目に勉強しており、私をライバル視していると浮田から聞いていた。
私は態度こそ真面目だが勉強は好きではない。だから、ちゃんと勉強している浮田や霧島よりも劣っているつもりだった。平均点80点の小学校を卒業し、番数の出る残酷な環境になってやっと、私は自分がお世辞でも勘違いでもなく優秀だったのだと気づいた。
そして、「すみゃあ」というは、浮田が私に付けているあだ名だ。私の名前は
霧島が一番ではないということに私は少なからずショックを受けていた。いや、もちろん同点で一番という可能性はある。しかし、問題はそこではなかった。私は霧島との間に確かな点差が存在すると思っていた。つまりは霧島がダントツで、私は並ぶべくもないというのが、私にとって当然の予想だったのだ。
突きつけられた現実に言いようもない息のしにくさを感じた。苦しさを紛らすべく、私は詰まった胸のうちを吐き出すように口を開いた。
「霧島が一番だと思ってた」
「ねー。あんなに勉強してんのにすみゃあに負けるの、どんな気持ちなんだろ」
「あいつ私のことそんな知らないでしょ。勉強したんだなあって思うんじゃないの」
「そうかなあ」
ふと周囲の声に耳を澄ませると、先程よりもざわめきの音量が小さくなっていた。視界の端に映るクラスメートたちの何人かがこちらを見ている。それでいい。無愛想でも成績が良ければ言うことを聞いてくれるし、私を優遇してくれるというのは小学校で肌で感じていた。
普通を切望しながらも、こうした有利な点だけは確保しておきたいと思う。よく知らない人を相手に事を運ぶのは得意ではないけれど、問題解決には自分の案が最善だと理解できてしまうから。相手の意見を尊重するだとか、激情をいなして対話を試みるといったことは、参加する人間が同程度かつ一定以上の水準で議論できる場合に限られる。自分の優位性を認識していてもらえば意見が通りやすい。全体をより良い方向へ導くには、自己の優位性の周知は非常に有効だった。
わがままだろうか。「住谷さんの言うことに従おう」と言ってくれるのは助かる。でも、もっと良い提案があればそちらを採用してもらいたい。私の出番が必要ないなら息をひそめていたい。優秀な人に唯々諾々と従う側でありたいと思う。
口を出してしまう時点で、「普通」から離れていく責任は私にあるのかもしれないけれど。
浮田は自分と私の成績表を見比べることに満足したようで、自分の成績表を回収し、乱雑に折りたたんでポケットに突っ込んだ。
態度が悪いと指摘しても一向に直らない腕を組む癖が露呈して、私がじっと腕を見つめると彼女は慌てて腕をほどいた。そして、誤魔化すように口を開いた。
「あ、そうだ。一番おめでとう」
「別に、嬉しくない」
「まあ私も本心祝ってないしね! これからが大事だってのに、なあにが『入学おめでとうテスト』だよ。クラス分けも決まってんだからどうでもいいじゃん」
「でも必要でしょ」
「そりゃあわかるけど」
自分の成績表をファイルにしまって教科書もろとも鞄に詰め込む。教科書購入時に重すぎて泣きかけたことを思い出しながら、時間割の問題でまだ軽い方の鞄を担ぐ。
入部届の提出締切が水曜日なのでそろそろ見学に行かなければならない。先週は色々と慌ただしくて行く気になれなかったが、既に入部を決めて部活動に参加している生徒も現れている頃合いだ。私も動かなければならないだろう。
「あ、部活動見学? 付いてって良い?」
「わざわざ聞くなよ。どうせ付いてくるくせに」
「まあね。私も鞄持ってくる」
と言って窓際にある自分の席まで行ったのを横目に見ながら私は教室を出た。
先週は面倒だからと浮田からの見学の誘いを断っていたが、今日は流石に見学に行くと考えたのだろう。付き合いが長くなるにつれて気配だけで考えや次の行動がわかるようになってくる。それが悪いとは言わないが、正直言って気持ち悪いと感じることもある。
浮田を待つこともなく興味だけで美術部へ向かおうとして、美術室の位置が分からないと気が付いた。歩き回れば見つかるだろうが一人では心細い。
「待ってあげた」という体で廊下で浮田が出てくるのを待っていると、ガラッとドアの開く音がした。慌てた彼女が左右を見回した視線と私の視線が交わる。
「置いてかれたと思った。優しいじゃん」
「美術部行こ」
「どこにあんの?」
「歩けば良いんじゃない。知らないけど」
私たちのクラスは1-4である。この棟には1-1から1-4までがあって、中庭越しに見た別の棟には1-5から1-7があるようだ。見上げると四階が見えたので、小学校の間取りと同じようにそこに美術室があるのだろうと推測した。開いている四階の窓からは下手な合唱曲のソロが聞こえる。音楽室はあそこだろう。
「四階かな」と廊下の窓から上階を見上げる浮田を尻目に階段へと向かう。小走りで横に追い付いてきた彼女と会話しながら階段を上った。
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