第3話

 智昭さんと付き合い初めても、あたしの音楽ベタは相変わらず。

 ギターの腕だってちっとも上達しなかったけど、それでも彼は熱心に教えてくれて。楽しそうに語る音楽の話を聞いていると、心地よい気持ちになっていく。


 そんなあたしたちがデートの時に行くのは、大抵が智昭さんおすすめの喫茶店。

 レンガ造りの壁には青々とした蔦が伸びていて、店の入り口のアーチ型のドアが、なんとも可愛らしい。

 中に入ると天井からぶら下がった傘型の照明が店内を照らして。壁にかけられた絵画やカウンターの奥に並べられたアンティークな小物が、オシャレな雰囲気を作ってくれていて、そして智昭さんが愛してやまない、ジャズが流れている。


 最初に行って以来、あたしもそこがすっかり気に入ってしまい。無理をして目新しい所に行こうとはせずに、いつもの場所に行こうかって感じで、何度も店を訪れた。


 二人とも注文するのは、決まってメロンソーダ。

 特別なことをするわけでもなく、音楽の話や講義の話をしては、まったりとした時間を過ごすのが定番。

 智昭さんはたまに、突然何かを思い付いたようにノートを開いていては、新しい曲のアイディアを書く事もあって。ある日あたしは、彼に聞いてみた。


「ねえ、いつも譜面とにらめっこしてるけど、いったいどんな曲を作りたいの?」

「実はというと、僕自身よくわかっていないんです。だけどいつか、誰かの心に響くような曲を完成させたい。それが僕の、生きた証になるんです」

「生きた証だなんて、大袈裟ね。だけど智昭さんの曲はもうちゃんと、あたしの心に響いているよ」


 クスクスと笑いながらメロンソーダに口をつけ、智昭さんも照れたような顔になる。

 だけどこの時、あたしは気づくべきだった。彼が言っていることが、決して大袈裟じゃないってことを。




 あたしたちが初めて会ってから、2年が経った初夏のある日。

 いつもの喫茶店で智昭さんは唐突に、別れようって言ってきた。


「えっ……そんな、ウソでしょ。あたし、何か気に触るようなことした?」


 それはまさに青天の霹靂。

 告げられた言葉が信じられずに、メロンソーダに伸ばしていた手を止め、呆然とする。


「違う、明子さんは何も悪くありませんよ。ただ僕が……」

「他に好きな人ができたの!?」

「違いますって」

「それじゃあ何。進路? それとも親に反対されたとか?」


 動揺するあまり、焦って答えを急かしてしまう。

 すると彼は申し訳なさそうに顔を歪ませながら、ポツリと声をこぼした。


「明子さん、最近の僕の演奏、どう思います?」

「えっ? まあ、良いと思うよ。相変わらず素敵だもの」

「本当に? 心からそう思ってくれていますか?」


 強い眼差しでじっと見つめられて、思わず萎縮してしまう。

 ウソはつかなくて良い。正直に言ってほしいって、目で訴えかけてくる。


 本当を言うと、少し前から違和感はあった。

 音に微かにブレがあるというか、いつもある凄みが、今一つ感じられないと言うか。

 だけどあたしは音楽に関しては素人。きっと気のせいだろうと思って黙っていたのだけど。智昭さんは悲痛な表情を浮かべながら、そっと右手を前に出した。


「実はね、少し前から手が思うように動かなくなってるんです。今はまだギターが弾きにくい程度だけど、そのうち生活にも支障を来すようになる。いつかはこうなるって分かってたけど、いざなってみると少し怖いな」

「ちょっと待って、どう言うこと? 今の言い方だと、まるで手が動かなくなるって分かってたみたいに聞こえるんだけど」

「その通りです。僕はそういう病気なんですよ」


 そうして彼は、ポツポツと自身のことを語り出す。

 幼い頃から病に冒されていて、治療を続けていたこと。だけどそれは根本的な解決にはならずに、いつかは身体の自由がきかなくなるって、早いうちに限界を迎えると、医者から言われていたそうだ。


 大好きなギターを弾くことはおろか、ノートに文字を書くこともままならなくなる。

 誰かの手を借りないと生活もできないし、長くは生きられない。それが彼に約束された、残酷な未来。しかもそれはずっと先のことではなくて、おそらくもうあまり時間が残されていない。


 打ち明けられた事実に言葉を失う。

 あたしは何も知らなかった。会ってからずいぶん経つのに、病気のことも、治療しながら大学に通っていたことも。

 彼女なのに、何も。


「黙っててごめんなさい。明子さんには、余計な気を使わせたくなかったんです。だって知ったら、絶対に気にするでしょう」


 そんなの当たり前。

 話を聞いて、前に智昭さんが言っていた、曲を作って生きた証にしたいという言葉を思い出す。


 あれは大袈裟でもなんでもない。自分の命が長くないって知っていたから、彼は何かを残したいと必死だったんだ。


「ごめんなさい。大切な時間を、あたしなんかにギターを教えるのに使わせていて」


 特別音楽に興味があるわけでもないし、いつまで経っても上達しない。にもかかわらず彼は熱心にギターを教えてくれていたけど、事情を知った今はそれがとても申し訳なく思えてくる。

 店内に流れるバラード調の曲が、まるであたしの心を音にしているみたい。だけど智昭さんは、慌てたように首を横に振った。


「それは違います。僕は明子さんにギターを教えられて、良かったって思っていますよ。作曲は楽しいけど、それでも時々焦りを感じていたんです。本当に死ぬまでに、心から満足いく曲を作れるのかって。だけど明子さんに教えている時は、そういった後ろ向きな考えを忘れることができたんです」

「だったらどうして、別れるなんて言うの。あたしのことが、重荷になったからじゃないの?」

「違いますよ。重荷になるのは僕の方。これからはもう満足にギターを教えることもできないし、付き合っていたらきっと、たくさん迷惑をかけてしまうでしょう。アナタの負担になってしまう事が、僕は嫌なんです」


 だから別れる、か。実に彼らしい考え。


 だけど神妙な面持ちの彼とは違って、あたしの中ではある感情がふつふつと沸き上がっていた。

 それは怒り。さっきまでは話を聞いて、ショックで沈んだ気持ちになっていたけど、迷惑かけたくないから別れるって、なによそれ。

 そんなの一方的過ぎるじゃない!


 ああ、だんだんとムカついてきた。

 気持ちを抑えきれなくなったあたしはジロリとガンを飛ばして、途端に彼はぎょっとした顔になる。


「アナタが病気でよかったわ。でなかったら、このメロンソーダを顔にぶっかけてたもの」

「えっ? ご、ごめん」

「理由も分かってないのに謝らないでよ。智昭さん、あたしがどうして怒ってるかわかる?」

「え、ええと……」


 発せられる圧に押されたように、しどろもどろになる彼。

 あたしはメロンソーダを一気に飲みほし、言い放った。


「負担をかけたくないって何よ! あたしだって、今まで智昭さんにたくさん負担かけてきたじゃない。何のメリットもないのに、作曲の時間を削ってギターを教えてもらってたでしょう!」

「いや、だからそれは。明子さんに教えるのは、別に嫌じゃなかったから」

「だったらあたしだって同じよ。なのにどうして迷惑だなんて決めつけるの! 悩んでいたら話を聞くし、困ったことがあったら支える。あんまり役に立たないかもしれないけど、作曲だって手伝うわよ。彼女なんだから、少しは頼りなさいよバカァ!」


 目尻に涙を浮かべながら、思いの丈をぶちまける。

 いつの間にか声を張り上げて騒いでいるアベックに、店内にいた人達の視線が集まっているけど、そんなことを気にする余裕もない。


 絶対に、別れてなんかやるもんか。

 智昭さんは困ったようにオロオロしていたけど、やがて息をついて、何かを決めたみたいな目になった。


「ごめんなさい。明子さんの気持ちも考えずに、一人で話を進めてしまって。あの、舌の根も乾かないうちに言うのもなんですけど、さっきの別れようって発言、取り消しても構いませんか? どうやら思っていたよりもずっと、僕にはあなたが必要みたいです」


 照れくさそうに言う智昭さん。あたしはぷくっと頬を膨らませながら、意地悪く返事をする。


「メロンソーダ、もう一杯奢ってくれたらね」

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