第2話

 昭和も終わりに近づいていたある年の初夏。あたしは通っていた大学で、智昭さんと出会った。


 入学してしばらく経ち、大学生活にも慣れてきたある日。キャンパスを歩いていた時に、ふとどこからか聞こえてきたギターの音。

 あたしは音楽に興味があるわけでもないし、聞こえてきた演奏が特別上手だったわけでもなかったのだけど。哀愁を漂わせるそのメロディが、カチリと心にハマった気がしたの。


 素敵な曲。この演奏はいったい、どこから流れているのだろう。

 誘われるままに音のする方へと歩いて行くと、たどり着いたのはギター愛好家の集うサークルルーム。


 部屋のドアは僅かに開いていて、音はそこから漏れていた。あたしはそっとドアノブに手をかけて、半開きだった扉を、手前に大きく開く。

 すると部屋の中には痩せ型で眼鏡をかけた、人のよさそうな男子学生が一人、ギターを演奏していたけど。入ってきたあたしと目が合って、それまで聞こえていた音が止まる。


「ええと、見学ですか?」


 突然の来訪者に、きょとんとした表情を浮かべる彼。

 それがあたしと、智昭さんとの出会いだった。



 ◇◆◇◆



 ジャズという音楽ジャンルの名前くらいは知っていたけど、それがあたしの知識の限界。仕方がないでしょう、今まで音楽になんて、全く興味がなかったんだから。

 だけど少しのきっかけで人は変わるということを、強く思い知らされる。


 大学でたまたま耳にした、儚げだけど綺麗なメロディ。それ以来あたしはよく、サークルルームに顔を出すようになっていた。


「こんにちは。今日も見学していいですか?」

「どうぞ遠慮なさらずに。観客がいると、僕も気合いが入りますから」


 見るだけのあたしに嫌な顔をせず、いつも素敵な演奏を聞かせてくれる彼は、高嶋智昭さん。


 童顔で小動物を彷彿させる、悪く言えば頼り無さそうな、良く言えば可愛げのある顔をしていて。背もそんなに高くないし、敬語で話しかけて来るもんだから、最初は同い歳かと思ったけれど。話を聞いてみると、一つ歳上の先輩だった。


 彼はあたしと違って、大変な音楽好き。講義が無い時は大抵ここに来てギターを弾いているか、オリジナルの曲を作るべく、ノートとにらめっこしているのだとか。

 ギターを弾くのも作曲するのも、あたしにとってはまるで宇宙の話。

 だけどそんな音楽ベタなあたしにも、先輩の演奏が良いものだっていうのはわかるよ。


 邪魔にならないよう先輩から少し離れた位置に立って、演奏に耳を傾ける。

 その音は喫茶店やスーパーでBGMとして流れる曲よりも、ずっとずっと心に響いた。


 生の演奏なんて聴いたことがなかったから、もしかしたら慣れない目の前での演奏に、良いものだっていう錯覚を起こしているだけなのかもしれない。

 だけど仮にそうだったとしても、あたしが今まで聴いた中で一番素敵な音楽であることに代わりはない。


 音が空気を震わせて、奏でられる旋律が胸に響く。

 今日は初夏には似合わない、じっとしていたら汗をかくような暑い日だったけど、彼の音はその暑さすらも忘れさせてくれて。まるで演奏している間だけ、別空間にいるみたい。


 ゆったりと流れる、心地よいメロディ。指を動かしながら、コードを押さえる彼の目は真剣で。音だけでなくその凛々しい表情にも、思わず見とれてしまう。


 そんな夢のような時間は瞬く間に過ぎ去っていき。演奏が終わると、先輩はニッコリとした目を、あたしに向けてきた。


「聴いているだけでは退屈でしょう。どうです、岩瀬さんも弾いてみませんか?」

「あたしが、ですか? けど、ギターなんて触ったこともないですし」


 演奏はおろか、どこを押さえたらどんな音が出るのかも、まるでわからない。

 だけど先輩は、そんなあたしを笑いはしなかった。


「最初は誰でもそんなものですよ。けど音を出すことができたら、それがどんな出来であっても楽しいですよ」

「それじゃあ、ちょっとだけ……」


 そうは答えたものの、やっぱりちょっと緊張して。忘れていた暑さがぶり返してくる。

 先輩からギターを受け取り、演奏していた時の様子を思い出しながら適当に弦をはじいてみたけれど。出てきたのは何とも張りの無い、間の抜けた音だった。


「うう、やっぱりダメだー」

「まだコツを知らないだけですって。ほら、こんな感じで押さえるんです」


 先輩はそう言ってあたしの後ろへと回り、かぶさるようにしてギターを持つ手に自分の手を重ねてくる。


「————っ!?」

「ほら、こっちの指でしっかり押さえてやれば、音に張りが出ますよ。けど、ちょっと動きが固いですね。肩の力を抜いて、リラックスしてください」


 そんなこと言われても。

 背中に先輩の体温を感じて、ギターではなく心臓がドキドキとリズムを刻む。

 先輩に他意はないのだろうけどこの密着具合、年頃の乙女にとってはかなりハードだ。

 それに先輩、きゃしゃに見えるのに重ねてきた手は意外とゴツゴツしていて。やっぱり男の人なんだって、否が応でも意識してしまう。


 ただでさえ初めてギターに触れたばかりだというのに、こんなんでまともに弾けるはずがない。

 あたしが出す音はさっきまでの演奏とは似ても似つかない、ぎこちないものだったけど、先輩は呆れることなく指導してくれる。


「今度はしっかり押さえられたみたいですね。さっきよりも上手ですよ」

「あ、ありがとう……ございます」

「ふふふ、さっきまで僕が演奏していた曲、あるでしょう。あの独特の音階は昔、白人の奴隷としてアフリカからアメリカに連れてこられた黒人達が作ったものなのです。悲し気だけど、人を惹き付けてやまないそれは、ブルーノートって言うんですよ」


 ブルーノート。初めて聞く名前。

 先輩の言うとおり、あたしはまんまとその音に、惹き付けられてしまったということね。


 だけどそんな解説を聞いている間にも、先輩の声が耳に触れて、全身から汗が吹き出しそうになる。

 こんなにくっついちゃってるけど、心臓の音、聞こえてないよね?


「あの、先輩」

「何ですか?」

「もうちょっと離れてくれても大丈夫ですよ。こんなにくっついていたら、先輩も暑いでしょう」

「あっ」


 ようやく気づいてくれた先輩は、慌てて距離をとる。

 だけどあたしは自分で離れてって言ったのに、感じていた体温がなくなった事に寂しさを覚えた。


 そんな残念な気持ちやドキドキを悟られないよう、平然を装いながら振り返ると、先輩は顔を赤くしていた。


「たしかに、今日は少し暑いですね。そうだ、よかったら喫茶店に涼みに行きませんか。良い店を知っているんですよ」

「は、はい。お供させていただきます」


 お互い照れ隠しをしているようで、でも全然隠せていないあたしたち。

 だけどそんな二人で過ごす時間は、とても心地よいものだった。


 それからもあたしは、先輩の元を訪れては演奏を聞いて。時にはギターの弾き方を教えてもらって、喫茶店でデートもして。

 そうしている間に呼び方が『先輩』から『智昭さん』に変わり、先輩もあたしのことを、『明子さん』って呼ぶようになって。

 付き合うようになるまで、時間はかからなかった。

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