ベジタブル・ラブ

歌垣丈太郎

        ベジタブル・ラブ

             ベジタブル・ラブ


                             倉垣丈太郎

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 「これからはあまり会えなくなるわね」高樹恭子がそういってやや目を伏せたとき、「そうだね、これまでとは違いすぎるものね」と筒井守は凝っと足もとを見つめながら虚ろな声で答えた。

 それは二人が高等学校を卒業したばかりの昭和三十九年の春のことだった。

 「わたしはこれから銀行勤務だしマモルは大学でしょ。歩む道がまるで違うんだからしかたないわよね」

 「でも、恭子はすぐに銀行員として働くけど、ぼくはまだ大学生にはなれてないんだよ。一つしか受験しなかった大学が不合格だったわけだし」

 浪人が決まったばかりの守はなかば自棄的な口ぶりになってそういった。

 だが恭子はそう受け取らなかったようだ。

 「わたしもマモルと一緒の大学へ行きたかったな。でもそんなのはもうとっくに諦めているわ。妹はともかくとしても弟だけは大学へ行かせてやりたいから」

 〈だからわたしは辛抱するの〉というあとの言葉を呑みこんで、恭子は木洩れ陽が淡く翳を落としている沓脱ぎ石の上に視線を落とした。

 春の陽射しは欝蒼と繁る常緑樹のわずかな隙間をかいくぐって、広い庭園に囲まれた「離れ家」の縁側にまで弱々しい光を投げかけている。その光は、木製の雨戸を無理に開閉することによって出来た筋状の痕あとが残るレールの辺りに手をついて、軽く腰を浮かせるようにからだを支えている恭子の細い両腕にも、かすかに青い痣のような斑点を映し出していた。

 この離れ家は父の妹、つまり叔母の屋敷内にあって、母家のほうは生い繁る植木や神社仏閣も顔負けする大灯籠の向こうにある。

 守はその頃この離れ家の一室を借りて下宿していた。

 守が生まれた町は叔母の家からだと十キロメートルほど離れたところにあったのだが、交通の極めて不便な山間の町だったから、彼が入学した市内の高校へ通うにはかなりな無理があった。そこで母と守は入学を前にして幾つかの下宿やアパートを見て回ったのだが、母が気に入るような適当な物件は見つからずに途方にくれていたところ、そのことを人づてに知った未亡人の叔母が事前に何ひとつ相談も持ちかけなかった父の要らぬ遠慮に対して〈兄さんも随分水臭いことをするのね〉などとさかんに恨みごと述べながらも、喜んで守を迎え入れてくれたのである。 

 「恭子の弟は確かまだ小学生だったよね」

 「そう、この春でやっと四年生になったばっかり。前にも話したからマモルもよく知っているように、工務店をつぶしてしまってからの父はいつも飲んだくれているでしょう。ずっと内職ばかりをしている母が可哀そうで」

 「それで恭子が犠牲になるというわけか」

 「犠牲だなんて、それほど深刻には考えていないわ。高校に行けただけでも幸せだったと思うし。でなければマモルには会えなかったんだものね」

 さるすべりの枝の間を抜けてきた湿っぽい風が、障子を開け放っている広い和室の奥のほうにまでなだれこんでいった。

 守は十畳もあるその部屋に一人で住んでいるのだが、広いことを幸いに、ほとんど掃除や片付けをしたことの無い畳の上には、敷きっぱなしの布団や汚れた衣類、それに数十冊の本が乱雑に散らかったままになっていて、呆れるくらいの不精さをさらけだしている。二人はいま薄暗いその和室を背にして縁側へ並んで腰をおろし、お互いに足をぶらぶらさせながら庭園を眺めているのだった。

 その日、恭子は何の予告もなく守の下宿を訪ねてきた。

 電話も掛けてこないでいきなり訪ねてくることはこれまでにも無くはなかったから、守は格別に驚きもしなかったけれど、不合格の通知を受け取った直後だったということもあって、しばらくは誰にも会いたくない気持ちのほうが強かったので、たとえ恭子といえども本当は歓迎する気持にはなれないでいたのである。

 「K大はぼくじゃなく恭子だったら合格していたかもしれないね」

 守のその言葉で恭子はぴたりと足の振り子運動を止めて彼の顔を覗き込んだ。

 「どうしてそんな拗ねたようなことを言うのよ。二年生の初めから就職組のクラスを択んだわたしと、ずっと進学組に択ばれて、しかもその特別クラスにいたマモルとじゃ比較になんかならないわ」

 「いや、恭子がほんとうに大学へ行くつもりで特別クラスで勉強していたら、ぼくだけじゃなくて誰も勝てっこないことをよく知っているからさ」

 「上手に逃げるのね。まあいいわ。でもわたしはお世辞なんかじゃなくて心からマモルの学力を信じている。来年は絶対にだいじょうぶだよ」

 「何だか母親か先生みたいな励まし方をするんだな」

 「またそんなふうに茶化す・・」

 恭子はそういって微かに眉をひそめた。

 守は、恭子の言葉に他の誰から掛けられるよりも嬉しい思いやりを感じていながら、またもや拗ねた反応を返して彼女を困らせてしまった。これから経験しなければならない高校生でも大学生でもない浪人というあやふやな生活への不安が、その時の守を自分でも惨めになりそうなくらい頑なにさせていたのだ。

 大阪池田市の北部にある叔母の屋敷は、三方が高い土塀に囲まれており、残る一方が低い山に面している広大な敷地を持っていた。敷地の西側と南側には巨大な武家造りの門構えがあって、その門や土塀に守られるように二棟の土蔵を従えた母屋が建っており、母家の前面には敷地の半分を占めるくらいの前庭が広がっている。またその前庭はちょうど真ん中あたりで枝折り戸と板塀によって二つに区切られていて、西の半分には昔は脱穀作業などに使われたテニスコートほどの広さの玄関アプローチ部分があり、東の半分には鬱蒼とした仙裁といま守が住まわせてもらっている東屋風の離れ家が位置しているのだった。  

 つまりその離れ家は、前庭の東側にある枝折り戸を潜った仙栽の中に建っているわけで、飛び石伝いに進んで大きな沓脱ぎ石の前に立つと、いま守と恭子がその一部に腰掛けているコの字型の渡り廊下に囲まれた十畳と六畳の部屋を持っているという造りなのだ。その十畳の部屋のほうを守が使わせてもらっているわけだが、襖で仕切られている隣の六畳間はただの物置がわりになっていた。離れ家を囲繞している仙栽の樹木はどれをとってみても古木で、茂った枝葉はほっと安堵するような静けさと夏にはこたえられない涼しさを保証してくれたが、日当たりはあまり良くなかったから、梁や天井にまで沁み込んだ湿っぽさと冬の寒さは結構つらかった。

 「ねえ、ちょっと散歩しない」

 恭子がおかっぱ頭を突き出して守の耳もとでささやいた。

 その髪が卒業を終えてから少し長くなっていることに気がついて、守はまたわけもなく苛立ちを覚えた。

 二人は飛び石を伝って仙栽を抜けると、傷みが目立っている枝折り戸を引き開け、広い前庭のアプローチをたどってから、西門の右隅の下半分に設けられた小さな潜り戸をガラガラという大きな音を立てて押し開けた。観音びらきの大扉の方は二つともいつも閉じられていて、普段の屋敷への出入りは隅の潜り戸を利用するのだが、潜り戸にはさらに重い分銅のついた太い鎖が下がっているから、開閉するたびに鎖と戸の上部が嚙み合って途方もなく大きな音を立てるのである。だからその音はこうして屋敷を出て行く時だけでなく、来訪者が来たことを離れた母屋にまで報せてくれる玄関チャイム代わりにもなっているのだった。

 そのうえ潜り戸には赤錆びた掛け金が付けられているから、その掛け金を落とすだけで、もはやこの屋敷へ入り込むことはできなくなってしまう。そんなことを知らなかった守は、住み始めのころ気晴らしに夜の散歩へ出掛けたことがあったが、30分ほど経って戻ってみると、彼の外出に気がつかなかった叔母がつい掛け金を落としてしまっていたために、完全に閉め出しをくらってしまったという経験がある。その時はどんどんと必死で大扉のほうを叩いたら、飼い犬がさかんに吠え出して母家へ報せてくれたから、何とかこと無きを得たのだが、それからの守は好きな夜の散歩があまり出来なくなってしまっていた。

 西門を出て六段ほどの石の階段を下りると、すぐ前を狭い国道が走っている。

 その国道沿いには、北摂の山塊を縫うように下ってきた余野川が、そのあたりで久安寺川と名を変えて流れていた。池田市の外れになるこのあたりは、急速に谷あいが狭隘になっていく北摂山塊への入り口部分と言えたから、離れ家に接する裏山をその裾の一部とする山塊と国道や久安寺川を挟んで対岸に迫っている山塊の間は、すでにかなりな狭さになっていた。

 また久安寺川のほとりには「伏尾の鮎茶屋」と呼ばれる料亭があって、国道に面した本館の他にも麓の斜面には山小屋のような茶屋が幾つも点在していた。

 アユが獲れ始める初夏ともなれば、それらの茶屋を数珠つなぎするロープに吊り下げられた鈴なりの提灯に明かりが灯って、酔客たちの濁声や歌声、また三味線の音などが夜遅くまで途切れることがない。そのうえ、茶屋の障子類はすべて開け放たれているから、真昼のように明るい座敷で浮かれている千鳥足に半狂乱の男女が、立ったり座ったりしながら騒いでいる様子さえ手に取るように見えるのだった。そんな夜は清らかな久安寺川の流れに色とりどりの提灯の灯が映えて、まるで虹のようにひときわ美しかった。

 勉強に疲れて叔母の家敷の西側の門前に立ち、夕涼みを兼ねながら眺めるその光景は、思春期にあった守にはひどく刺激的ではあったけれど、中学を出た十五歳の春から親元を離れて暮らしている守が抱きつつあった夜ごとの人恋しさを、幾分かなりとも慰めてもくれるのだった。 

 守はこの叔母の家にもう二年あまりも世話になっている。

 適当な時期に他の下宿をみつけて移るつもりだったけれど、つい叔母の優しさと好意に甘えてきてしまった。だが同居している叔母の長男、つまり守の従兄がまもなく結婚するのを良い機会に、今度こそ引っ越しをしなければならないと決心していた。ただそんな守にとっては、大学受験に失敗してしまったことは大きな計算外だったから、それまでに目処をつけていたK大学の近辺へ移るというのは諦めて、新たな下宿先をようやく探し当てたばかりだったのだ。

 「どこへ連れていってくれるの」

 近所の人たちの視線を感じたのか、繋ぎかけた手をそっと離して恭子がたずねた。

 「久安寺の悲母観音を見に行こう」

 「いつか貰った手紙の中に書いてあったあの観音さまね。わたしもずっと見てみたいなと思っていたの」 

 「観音さまをあんなふうに感じるなんて、恭子はきっとぼくのことを不潔だと思っただろうな」

 「そんなことないわ。でもマモルが一瞬で虜になってしまうような観音さまが何となく憎らしかった。嫉妬心というやつかな・・」

 しかしそう応えた恭子の言葉の半分以上を、後方から地響きをたてて追い越していったダンプカーの騒音が搔き消してしまった。

 二人は山間部に向かっている国道を遡って、久安寺川に架かった橋を渡った。

 この国道423号は大阪市の北区を起点としているが、ここからさらに北上を続ければ京都府の亀岡市へと達するいわゆる摂丹街道と呼ばれている街道だ。その昔ながらの狭い街道を、今は大小無数の車が爆音を響かせながら突っ走っているのである。だから二人が一列になって路肩のぎりぎりを歩いても、走り去っていく大型車の風圧でついよろめきそうになり、思わず互いに手を握り合ってはまた離すという動作を繰り返した。やがて小さな門前町の名残りをとどめる古い家並みが続きはじめると、まもなく左手に朱塗りの巨大な楼門があらわれる。久安寺である。

 境内に入るとその一角に小さな遊園地があって、誰かが乗った直後なのか遊動円木が揺れていた。参道のあちこちには、去年のうちに刈り揃えられ、いま花芽が僅かにふくらみかけた丸いつつじが、どんな木々よりも勢いを強めはじめていた。 

 「おにいちゃん」

 ふいに傍らのつつじの一つから声がかかった。守が驚いて覗き込むと、盛り上がった繁みのうしろに小さな頭が見えた。

 「なんだ和也くんか、かくれんぼかい」

 「探偵ごっこだよ。あとでおにいちゃんのところへ遊びに行っていい?」

 和也は亀のように首を擡げて押し殺した声でそう言うと、ちらと横にいる恭子を見やってからまた慌てて頭を引っ込めた。

 「ああいいよ、おいで」

 探偵役らしい子どもが遠くから大袈裟な身振りで近づいてくるのを目の端にとらえながら、守も小さな声で答えると急ぎ足でつつじの前を離れた。

 「あの子、叔母さんの家の子どもなの?」

 急ぎ足になった守に遅れまいと、小走りになりながら恭子がたずねた。

 「いや近所の子だよ。妙にぼくになついてくれてね。よく遊びにくるんだ」

 「あとで遊びに行くと言ったって、もうすぐ暗くなるじゃない」

 「あの子、両親がどちらも働いているから、帰ってくるまでの時間によくぼくのところへ来ることがあるんだ。その日の宿題なんかを持ってね」

 「ふぅーん、そうなんだ。なかなかしっかりしたいい子ね」

 恭子は弟のことを思い出したのか、歩調をゆるめてうしろを振り返った。

 高い木立の間に悲母観音の像が見えたとき、和也が捕まってしまったのだろうか、彼が隠れていたあたりから歓声があがった。二人は高い台座の上でゆらりと揺れているような悲母観音を仰ぎみて、たがいに申し合わせていたかのように傍にある俎板石の上へ腰をおろした。

 「これがマモルの好きな観音さまなのね。確かにきれいだわ」

 長い沈黙のあとでぽつりと恭子がつぶやいた。

 それは台座を含めると六~七メートルくらいの高さがある銅像で、長身の豊かなからだは何処を取ってみても溢れるばかりの美しさを湛えている。やわらかな微笑、波打つ衣の襞、心持ち後ろへ反った艶麗な肢体。さらに木漏れ陽が銅錆色の肢体に縞模様をつくるとき、陽のあたった白くて明るい部分は、ちょうど衣の破れ目から覗く白い肌のような錯覚をもたらす。そういうときの観音が見せる媚態は、どんな魅力的な女性にも負けないほどのなまめきを持って守に迫ってくるのだった。だから守はまさに女性そのものに見えるこの観音に対して性的な興奮すら感じてしまうのだった。

 観音を訪れるたびに覚えたそういう眩暈がするような感動を、守はいつだったか恭子への手紙の中に書いたことがあったのだ。 

 「背が高い上にグラマー、マモルはこういう女の人が好きなのね。それにくらべるとわたしなんか小柄だし、出るところも出てなくて、おまけに足まで短くて太いときている。とてもかなわないわ」

 恭子は守の手紙を思い出したのか、そう言って紺のカーディガンの下に着た白いブラウスをつまんでみせた。彼女の胸はたしかに豊かとは言えないけれど、スカートから伸びている足はべつに短くも太くもない。

 「もう銀行に通っているんだってね」

 観音をみつめたままで守はわざと話題を変えた。

 同時に陽が翳って観音の縞模様も消えた。

 「うん。研修期間というのかな、銀行業務についての教育や指導は言うまでもないけれど、接客マニュアルを教わったり、なぜかテーブルマナーの実習があったり、そのうえにお化粧の講習まであるのよ」

 「恭子が化粧をするのか・・」

 考えればあたりまえのことが、そのときの守にはなぜか大きな衝撃だった。

 「おとなの女性って山ほどの化粧品を使うのね。でもちっとも綺麗にならないの。お化粧というのは、自分の欠点をカバーして長所を引き立て、その上でなるべく自然な感じを出すことだって先生が言っていたけれど、どっちみち素材の悪い者はメッキしたってダメ。よけいに見苦しくなるような気がするの」

 「ふーん」

 守の中でこれまで経験したことのないような感情がうごめき出していた。嫉妬と寂寥が綯い交ぜになったような、いや、それだけでもない複雑な感情だった。

 「わたしはそれでもあえてお化粧をするわ。白粉をべたべたに塗って、口紅やアイシャドーなんかもつけて、わたしの顔の上にもう一つの顔をつくるの。面白いでしょうマモル。そうは思わない?」

 しかし守は黙ったまま恭子の足首のあたりをみつめている。白い木綿のソックスが、そのときとても守の目に沁みた。

 「そのうちお化粧をした顔が自分の顔だと思うようになって、もっと時間が経つと自分の本当の顔を忘れてしまうの。そういうの悪くないんじゃないかな。わたし女に生まれてきてよかったわ」

 そんなふうに自虐的な言葉を続ける恭子の本心と苛立ちの在りかが、男である守にも分からないわけではなかった。だがいまの守には口惜しいけれど自分より大人びた恭子の言葉にどう答えてよいのかが分からない。

 「誰かが言っていたわ。ああ、あなたがだんだん化粧を落としていくとき、なんと美しくなっていくことか、って。わたしもきっとそんなふうになっていくのね」

 高校時代の三年間に果たしてこの種の会話があっただろうかと守は思い返す。いや会話とすら言えないほどのこんな一方通行のやりとりが・・。

 これまでなら唐突にどんな話題を持ち出しても、お互いがただちに理解しあえたはずだった。受験に失敗して落ち込んでいるといういまの自分の鈍感さを割り引いたとしても、恭子が抱いている微妙な心の揺らめきをどうしても捉えきれない現実と、いまある二人を隔てている距離が、守には途轍もなく寂しい。

 「一週間前だったかな、わたしマモルをバスの中から見かけたのよ。少し上り坂の道をマモルは一生懸命に自転車を漕いでいたわ。窓を開けてハンカチを振ろうかと思ったけれど、周囲をみたらやっぱりできなかった」

 「この前に会ったのはいつだったかな」

 「わたしのほうから誘ってボーリング場へ行ったときよ。ほんとうはわたしボーリングなんかあまり好きじゃないんだけど、受験を前にして苦しんでいたマモルにちょっとでも息抜きをしてほしかったからね。ほら、マモルは初めてだというのに百八十点も出したじゃない」

 「ああ思い出したよ。ボーリングに行こうという恭子に、ぼくは成人映画が観たいって言い張ったときだろう。結局、反対されてボツになったけどやっぱり観たかったなあ、あの女優が大好きなんだもの」

 「あの女優は裕子さんに似ているからわたしは嫌いなの。それに未だわたしたちが観てはいけない映画だったんだもの」

 「裕子になんかどこも似てないよ、この悲母観音になら似ているけれど」

 裕子というのは守が一年ほど前までつきあっていた下級生で、高校生とは思えない大人びた肢体と美貌でつねに校内の話題をさらっている存在だった。しかしデートをするたびに新たな嫌悪感に襲われて、守はとうとう短期間で裕子から逃げ出してしまった。そのことは恭子もよく知っている。

 「だったらあの女優さんの裸が観たかったわけね」

 「うん、そう。観たかった」

 「じゃあどうして一人きりででも観に行かなかったの」

 「それは恭子と二人で観たかったからさ」

 「それだけかな。マモルはあの女優さんの裸が観たいのか、それともわたしの裸が観たかったのか、いったいどっちなの?」

 まるで予想もしていなかった恭子の詰問を浴びて、守のほうが素裸にされたような狼狽におちいった。

 「そんなこと言えないよ」

 「言えなくても言ってよ。いまここでどうしても聞いておきたいんだから。でないとわたし今日は帰らないからね」

 「帰らないってどういう意味さ」

 「マモルの下宿に泊めてもらうということよ。それ以外の意味なんてないわ」

 「無茶苦茶な我がままだな。そんなことぼくには出来っこないよ。いくら離れ家といっても叔母さんの目があるわけだし」

 「だったらわたし梅田へ出て男を拾っちゃうから、それでもいい?」

 「もう分かったから。恥ずかしいけど正直に言っちゃうよ。あの女優の裸を観ることで、すぐ傍にいる恭子の裸を想像したかったんだ」

 「正直に告白してくれてありがとうマモル、わたしすごく嬉しいわ。我がまま言ったりして本当にごめんね」

 そう言うと、恭子はいきなり顔を寄せて守の口許にキスをした。

 不器用なキスは守の唇の上半分を一瞬包んだだけで終わった。そのあとにはソフトクリームに触れたような感触と、なぜか子供のころに畦道で虎杖をかじったときのような青臭い香りが残った。

 悲母観音に夕陽が射していた。

 守のからだにも夕陽が射したような烈しい熱線が貫いて走った。

 すると観音の肢体が火照ったように赤みを帯びはじめ、やさしげだった眼差しが一瞬にして媚びを含んだものに変わって、戸惑っている守を射竦めるのだった。

 そのとき東の方角から生暖かい風が吹いてきて、早咲きの桜の花びらが二人の足もとへ舞い落ちた。スカートの膝上にも落ちかかってきたピンクの花びらを、恭子は摘み上げるとそっと口に含んでから守の口もとへ差し出した。僅かな羞恥心と躊躇いのあとで守はその花びらを自分の口で受けとった。更にそのとき守は、差し出された花びらと共に恭子の親指と人差し指までをわざと口に含んだ。しかし恭子は別に驚くわけでもなく、冷たかった指先がマモルの口の中で温かくなるまで、二本の指を預けたまま塑像にでもなったかのように身じろぎもしなかった。

 やがてときどきは聞こえていた子ども達の歓声が消えて、境内に灰色の翳りがさしてきた。二人は俎板石からようやく立ち上がると悲母観音に背を向けた。

 「叔母さんの家にお世話になるのもあと僅かな期間なのね。次はどこへ住むのか、もう決めているの?」

 守が口に含んだ日本の指を見つめながら恭子がたずねた。

 「阪急電車の石橋駅に近いところで素人下宿を見つけてある。あの近くに住んでいる同級生が教えてくれたんだ。これから1年間、土佐堀のYMCA予備校へ通うことに決めたから、少しでも梅田に近いほうが良いかなと思って。二階建ての三軒長屋なんだけど、そのうちの一軒に未亡人のおばあさんが住んでいてね。二階にある二部屋のうちの一つを大学生に貸しているんだ。だから空いている残りの部屋を借りようと思ってる。今より半分くらいの広さだけど贅沢は言ってられないものね」

 引っ越しをする日までにこうして恭子と会えるとは思っていなかったので、このことは昨夜のうちに書いた恭子への手紙の中にも詳しく記してあった。

 「食事はつくってくれるの?」

 「おばあさんは病気持ちだからね。食事の用意は出来ないそうだ」

 「それじゃあだめよ。マモルは受験生なんだから。わたしがもっと良い下宿を探してきてあげるから、そこは断っちゃいなさいよ」

 「どこだって同じさ。食事くらいは自分でつくれるよ」

 「そんなこと言って、叔母さんに作ってもらっている今だってお掃除一つろくに出来ないくせに。栄養失調になって死んでもわたし知らないから」

 「そんな冷たいことを言わないで、たまには会社帰りに何か美味しいものでも持ってきてくれよな。絶対に感謝するから」

 「わたしだってお勤めをやりだしたら凄く忙しくなるんだから。マモルのことなんか構っていられないわ。まあでも月に一度くらいは期待してくれてもいいわよ」

 「何だ、恭子ってそんなに冷たい性格の女だったのか。それならもういいよ、当てになんかしないから」

 そんな憎まれ口を叩きながらも、実際当てになど出来ないな、と守は思う。

 これからはお互いに未知の新しい生活が始まるのだ。しかも守にはラストチャンスと決めた再度の大学受験が一年後に待っている。恭子でなくとも何事であれ誰かに頼ったりしてはいけないのだと改めて自分に言いきかせた。

 「それでいつごろ引っ越しをするの」

 「四月の中ごろに従兄の婚礼があるから、それが終わったらすぐかな。ぼくの田舎と同じで、まだこの辺りは自宅で婚礼をやるんだよ。長いこと世話になってきたんだから、それを見届けてから出ていこうと思ってる」

 「日曜日にしなさいよね。それならわたしも手伝ってあげられるから」

 「できればそうするよ。でも分からないなあ、予備校が始まるとはいってもぼくの方はずっと暇だから」

 辺りを威圧しているような叔母の家の西門が見えてきた。

 狭い谷間の町は急速に日が翳って、あちこちに灯が点りはじめている。するとこのまま恭子を帰さなければならないことが、突然の寂しさとなって守を襲ってきた。

 「バス停まで送ってくれる?」

 そんな守の気持が伝わったらしく、寂しそうな声で恭子がいった。複雑な気持ちを顔に隠せないまま守は当然だという思いをこめて大きく頷き返した。 

 「すぐまた会えるじゃない」

 すると恭子が母親のような温かな声で守を慰めてくれた。

 恭子の眼にはそんなに落ち込んでいるように見えるのだろうか、と守は少なからずショックを受けた。そして自分でも無駄な言い訳だと思う言葉を探しているうちに、市内の中心部へ向かう乗合バスが後方からどんどん迫ってきた。気づいた二人は慌ててまだ十メートルほど先にあるバス停まで全速で駈けた。

 さよなら、も、またね、も言う暇がないほどのあっけない別れだった。

 

                  2

 近畿地方を直撃するかもしれないという台風が迫っていた。

 ぎしぎしと嫌な音を立てている古い下宿の二階の部屋で、筒井守は長い時間をかけてハイデガーの「存在と時間」を読み続けていた。

 五月ころから通い始めた教会で、河野さんという若い信者から是非にと勧められたキェルケゴールの「不安の概念」を読んでから、守は何かに憑かれたようにこの二人の思想家の本を読み漁っていた。守が引っ越してきた下宿のある町は、三月までずっと通っていた高校のあるところで、しかも大阪大学のキャンパスもあったので、小さな市の鄙びた町には似合わないほど多くの古書店がある。守は親から仕送りしてもらっている金を、食べる物を切り詰めて惜しげもなくその古書店へ注ぎ込んだ。受験勉強から逃避していたわけではなかったが、同じ学習を何回も繰り返しているうちに、そういう作業に飽きてきつつあったことも事実だった。

 しばらく通っていたYMCA予備校は、ほとんど高校の授業の延長のようなものだったので、一年の予定を取りやめて夏を迎える頃には退学していた。だがその往復の阪急電車の中で暇つぶしに読んだイギリス作家などの外国文学と、下宿を移った直後の頃に思いがけず起きた父の緊急入院と手術という出来事が、守の中にあった何かを衝き動かしたのかも知れない。

 気がついたときには守を教会の椅子に座らせていたのだ。

 キリスト教を知らなければ外国文学など理解できないという少々打算的な動機と、癌かもしれないと母から内密に聞かされていた父の病気で触発された人間の生死に対する思いなどが入り混じって、守は下宿から歩いても十分とはかからない教会へ日曜日の朝になると必ず通うようになっていたのだ。

 幸い父の病気は手術の後で胃潰瘍と判明してこと無きをえた。しかしあたかもその代償を求められたかのように、台風が近づきつつあったこの日の前日に、守は教会で知り合ってすぐに親しくなり、「不安の概念」を読むようにと熱心に勧めてくれた河野さんという大切な人を喪っていたのだ。

 午後からずっとカーテンの無いガラス窓へ大粒の雨と強い風が吹きつけていた。

 だが守がそういう騒音を耳に受け付けないくらいハイデガーらの著作に没頭しようとしていたのは、台風の接近を告げている黒い雲が低く垂れこめ、重苦しくて生臭さを含んだ強い風が吹き抜ける教会墓地で、この日の午前中に執り行なわれた河野さんの葬儀のことをもう思い出したくない、という強い気持に囚われていたからでもあった。ところがいくら目を凝らして活字を追ってみても、守の意識は本のページをただ意味もなく横滑りするだけで、僅か数カ月にしか過ぎなかった河野さんとの思い出が次々と脳裏を駆けめぐって、彼の意識を捉えて離さないのだった。

 「守くんは神さまの存在を信じているのですか?」

 四度目の日曜礼拝が終わったときだった。

 まだ信者の誰とも言葉を交わしたことのない守はいちばん後方にあるベンチにぼんやりと座っていたのだが、それまでは最前列にいたはずの河野さんがいつのまにか横に座っていて、そう言って話し掛けてくれたのである。

 見るからにひ弱そうな体躯をしている河野さんは、その教会の若い信者たちの中ではリーダー的な存在だったけれど、生まれながらに心臓に持病があって余り無理のきかない身体なのだということは、まだ新入りの守でもすでに副牧師から聞かされて知っていた。そしてまたその河野さんが、いま信者たちの間を献金袋を持ってにこやかな顔で回っている若い女性信者の坪井さんと、一カ月後には結婚することになっているのだということも知っていた。

 「いえ、ぼくにはまだ神さまという概念そのものが分からないのです」

 綺麗に澄んだ河野さんの目が守の素直な答えを引き出してくれた。

 「そうでしょうね」

 河野さんはそう相槌を打ってからちょっと胸を押さえる仕草をして、

 「本当のことを言うとぼくもそうなんですよ」

 と不遜な答えを返した守のほうが耳を疑うような言葉を続けたのである。 

 「でも河野さんはこの教会ではかなり古い方で、その中でもいちばん熱心な信者さんだと副牧師さんから伺っていますが」

 「長く教会に通っているからといって、熱心な信者だとか誰よりも神さまを信じているとかということにはなりませんよ。だって教会に来ない人の中にだって神さまを信じている人は沢山いるでしょう」

 「それはまあそうなんですが、まさか河野さんからそういう言葉をお聞きするなんてまるで考えてもいませんでした」

 半袖シャツを着ていても暑く感じる時期だというのに、まだ分厚いジャケットを着て、痩せた膝の上にきちんと組んだ河野さんの白っぽい手がとても印象的だった。

 「でもね守くん。ぼくはイエスさまの存在だけは信じているのですよ」

 「・・」

 守はちらと詭弁を疑う不信の表情になって河野さんの顔に視線を戻した。だが河野さんはそういう守の反応などにはお構いなしに話の先を続けた。

 「というよりも二千年ほども前に、人間が生まれながらに持っているあらゆる罪障をそのからだ一身に引き受けて死んでいった男の存在というものを信じているのです。守くん、いいですか。人間は確かに猿よりも賢いかもしれないけれど、そういうのはあくまで相対的な比較にしか過ぎない。それなら人間が猿と絶対的に違っているのは何だと思いますか? 罪という概念を持っていることなんですよ。そのことをイエスという男が初めてぼくたちに自らの命をかけて教えてくれたのです」

 「・・」

 「人は生きている限り他の存在に影響を与え続けています。それを罪という一つの切り口からみれば、ぼくたちはいつも無意識に使っている言葉で相手を深く傷つけていることもあるし、道を歩くだけでいつの間にか蟻や虫を踏み殺しているのですからね。神父さまといえども罪障にまみれずには生きていけません。少なくともそのことをぼくたちは常に自覚していなければならないのです。だからイエスさまはぼくたちに罪の意識というものを教えて下さることで、どんどん傲慢になって暴走しようとしている人間にブレーキをかけて下さった。同時に他の動物とは違う人間の尊厳の在り処というものを教えて下さった。イエスさまはそのためにこの世に生まれ、そのために死んでいかれたのです」

 「それでは人間は罪の意識を持つことで他の動物と区別されるようになった、と河野さんはおっしゃるわけですね。そしてあえて十字架に架けられることで、そのことを教えて下さったのがイエスさまだと・・」

 「そうです。もっと難しく言えば原罪の認識です」

 「ゲンザイですか」

 「そうです。人が生まれながらにして背負っている罪のことです・・」

 河野さんの話はそれから一時間ばかりも続いた。

 牧師が語る型にはまった説教とは違って、河野さんの話はどちらかと言えば思想家的な内容で、時にはキリスト教や神や宗教そのものを否定する部分もあったりして、守はかえって素直に耳を傾けることができた。そのうちに献金集めを終えた婚約者の坪井さんも加わってきて、他にはもう誰も居なくなった礼拝堂の最後列のベンチで、守ばかりか坪井さんまでが河野さんの話にときどき質問をはさんだり、異議を唱えたりしながら色々なことを語り合った。

 坪井さんはこの春に神戸女学院を卒業したばかりの、清楚という言葉は彼女のためにあるのではないかと思われるようなお嬢さんで、この日は体調を崩したために顔を見せていない母の坪井夫人とともに、守がこれまでイメージしていたクリスチャン像に最も近い人というか、それ以上の雰囲気と人柄を持った人だった。山の手に邸宅を構えている実業家の次女だったが、古い信者である夫人に連れられて幼い頃からこの教会に通っているということだった。

 いっぽうの河野さんは二十七歳で、大学は卒業したものの心臓に不安があったのであえて就職はせず、家庭教師をやりながら父親が経営している零細な書店を手伝っていた。持病のせいでそうなったのか、ほとんど感情が表に出ない表情と抑制の利いた話し声は、本来なら人に冷たい印象を与えるはずなのに、かえって接する人を暖かく包み込み、引き込んでしまうような不思議な魅力を持っていた。だがいつも死をみつめているような瞳は、綺麗に澄んではいるがどこか寂しげで、大勢の信者たちの中に紛れ込んでしまうと掻き消されたように目立たなくなる人でもあった。

 三人は正午に近くなってから教会を出た。 

 「お二人はいつ結婚されるのですか」

 教会の横を流れている小川に沿って歩きながら守がたずねた。

 辺りはまだ住宅も疎らで、ところどころに水田が広がっている。寄り添った二人は、坪井さんのほうが河野さんを支えるような格好で腕を組んでいた。

 「六月に予定しています。あの教会で」

 河野さんをちらと見てから坪井さんのほうがさりげなく答えた。

 「もうすぐじゃないですか。ぼくにもぜひお祝いをさせていただきたいのですが、どういうものがご希望でしょう。これまで下宿をしていた家の従兄がこの前結婚した時は親のほうがお祝いをしたものですから、ぼくとしては結婚のお祝いなんて差し上げるのは初めてで、どんなものが良いのかまるで見当がつかないんです」

 「とんでもありませんわ。親がかりの守さんからお祝いをいただくなんて・・。祝福していただくだけでじゅうぶんです」

 「そうだよ守くん、そんな心遣いはいらない、それにぼくたちは、・・・」

 河野さんはそう言ったけれど途中で言葉を呑み込んでしまった。

 少し荒くなってきた河野さんの息遣いも心配だったが、途中で呑み込んでしまった言葉の先のほうが守にはひどく気になった。

 やがて小川に沿っていた道は、そのまま山の手へ続く道と右に折れて下町へ向かう道に岐れる。ちょうどその岐路にさしかかったとき、いきなり立ち止まった河野さんが坪井さんに向かって優しく声をかけた。

 「今日は守くんに家まで送っていただくからここでお別れしよう」

 「わかりました。わたしも家においてきた母のことが心配ですから。また明日にでもお家のほうへ伺いますわ」

 坪井さんはそう言ってそっと腕を解くと、守に対してもひどく丁寧な会釈をしてから、薄いパープル色をした日傘をひらいた。

 透き通るような五月の風を受けて、ゆらゆらと揺れているその日傘とワンピースの裾が、やがて遠くの電柱の陰に隠れてすっかり見えなくなるまで、守と河野さんは道路の真ん中に横並びになって見送った。

 「綺麗で上品で、坪井さんは本当に素敵な人ですね。ぼくも結婚するならあんな女性と出会いたいな」

 守はあの悲母観音や高樹恭子とはまた違う種類の女性を発見した思いだった。

 「実はね、守くん。ぼくは少し前からあの人との結婚を取り止めようかと真剣に考えているのですよ」

 坪井さんの姿が消えた辺りをずっと見つめていた河野さんがぽつりとそう言った。守は驚いて横に立っている河野さんの顔を覗き込んだ。そしてさっき呑み込んだ言葉の先はこのことだったのかと思った。

 「そんなばかな。いったい坪井さんのどこが気に入らないというんです」

 「ぼくは守くんも知っているかも知れませんが、心臓が悪くていつ突然に死が訪れるか分からないからだです。まして結婚とか子どもをつくるとかが出来るようなからだではないのです。だからそういうことが分かっていながら結婚しようとしている自分が許せないのです。彼女を不幸にすることは目に見えているのですから」

 「でも坪井さんのほうは何もかも承知された上でのご結婚なんでしょう。ご存知で無いというのなら話は別ですけれど」

 「もちろん知っていますよ。でもぼくは最近とても不安になるのです。彼女は本当にぼくを愛してくれているのだろうかと。愛してくれているとしても、もしかするとその愛はクリスチャンとしての隣人愛で、男と女の愛ではないんじゃないかと。だとするとこの結婚は間違っているとぼくは思うのですよ」

 十歳近くも年令の離れた守に対しても、河野さんの丁寧な言葉遣いと真摯な態度はどこまでも変わらなかった。しかしその時の守にはそのどちらもが嫌悪を催すくらい独り善がりなものに感じられた。

 「では坪井さんの愛はエロスではなくアガペーで、もっと言えば同情に近いものじゃないかと河野さんは考えておられるのですね」

 少しばかり顔を顰めた河野さんはそれでも守の言葉に小さく頷き返すと、ようやく山の手に向かう坂道からの視線を外してそろそろと歩きはじめた。

 守は慌てて坪井さんがそれまでやっていたように河野さんの右腕を抱え込んだ。

 実際に自分がやってみて分かったのだが、確かにそのかたちは愛し合っている男女の腕組みではなく、介護の姿に近いとも受け取れることに守は気がついた。すると河野さんの心の痛みがその腕からびんびん伝わってくるようだった。

 「ぼくは心から彼女を愛しています。その気持は誰にも負けたりしない。しかし結婚したとしてもぼくはおそらく彼女を抱くことすら出来ないでしょう。もちろん子供だって出来ない。そんな結婚をしても良いのかどうか、そして彼女が本当に望んでいることなのかどうか、とぼくはずっと悩んでいるのです」

 「まだキリスト教のことすら僅かな聞きかじりで、しかも今日お知り合いになったばかりのぼくに何も申し上げる資格などありませんが、お二人の結婚は神さまが、いや神さまという言い方を河野さんが厭だと仰るのなら、イエスさまがお決めになったものだとは考えられないでしょうか」

 「ほう、イエスさまが決められた結婚ですか」

 「そうです」

 「なるほどそうかも知れませんね。こんなぼくを彼女のような女性が好きになるというのも不思議なら、その二人が結婚しようとしているなんてもっと不思議であり得ないことです。それが現実のものとなって目の前にあるのは、イエスさまの意思が働いているからだと守くんは言うのですね。そういうことならぼくにも納得ができます。ありがとう守くん、ずいぶん年下のきみに素晴らしいことを教わりました」

 河野さんはそう言って、守が抱え込んでいた腕を離して前へ押しやると、あらためて両手を差し出して握手を求めた。

 そのとき、それまでほとんど生色の無かった河野さんの顔に、ぽっとかすかな血の色がさして、子供のようなはにかみの表情が浮かんだ。何げなく口にした守の言葉が、思いもかけずそのときの河野さんを救ったようだった。

 だがそれで良かったのだろうか、と守は思ってしまうのだ。なぜならそれから約一カ月後に結婚した坪井さんと河野さんは、さらに二カ月後の二日前、その年二度目の台風が近づきつつある日に、突然亡くなってしまったのだから。


 雨と風はますますひどくなったようだった。

 二つの部屋を仕切っている薄い壁越しに聞こえてくる隣室のテレビニュースが、緊迫した声で台風の動きを刻々と伝えているようだ。だがその音量は小さくて細かな内容までは分からない。ラジオやテレビを持っていない守の部屋は、何らの情報も得られないままに、嵐の中で孤立した山小屋のようなものだった。古くてしかも建てつけの悪い下宿は実際に大きく揺れはじめていた。もし三軒続きの長屋づくりでなかったら、二階建てのその下宿はあえなく倒壊していたかもしれない。

 間もなく階下の玄関の辺りが急に騒がしくなった。

 玄関脇の部屋に住んでいる家主のおばあさんと誰かがやりとりする声が、強風が惹き起こしている様々な外部の音と入り混じって守の部屋にまで届いてきた。やがてその声が静まったあと暫くしてトントンと階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。軽やかな足音はもちろんおばあさんのものではない。階段を昇りきったところには小さな踊り場がある。その正面と右手には二つの襖があって、右手の襖のほうが守の部屋への入り口になっている。正面の襖は大学生が住む隣室のものだ。

 足音はその踊り場で止まると、同時にぎこちなく襖を叩く音がしたが、ガラス窓に吹き付けている雨風などの騒音のために、守はどちらの襖が叩かれているのか判別がつかなかった。

 「いるんでしょマモル、恭子よ。入ってもいいかな?」

 潜もった高木恭子の声がしたので、守は驚いて椅子から立ち上がった。

 そのとき手の先に引っ掛かった机の上のカップが落ちて、畳一面に食べ残しのインスタントラーメンの食べ残しとスープが撒き散らかされた。

 「どうしたんだよ、こんなひどい台風の中を。しかもこんな時間だというのに」

 襖を開けるなり転がり込むように部屋へ入ってきた恭子は、手に持ったレインコートだけでなく全身がまったくの濡れねずみの状態だった。 

 「お願い、まずバスタオルがあったら貸してくれないかな」

 以前よりずっと長くなった髪を指先で梳りながらそういって恭子が懇願した。その髪の先からもしきりに雨滴が落ちている。

 「そんなもの無いよ、フェイスタオルで我慢してくれるかな」

 そう応えた守はのろのろと窓際まで行って、カーテンの掛かっていないカーテンレールに干してあったフェイスタオルを引き外した。恭子は待ちきれなかったのらしく守の傍まで走り寄ってきてそのタオルを受け取った。雨滴で胸に貼りついたブラウスを通してブラジャーの形状がくっきりと浮かんでいるのが分かる。そんな恭子から急いで目を逸らして後退りをはじめた守の足が、畳の上に無様に散らばっていた食べ残しの麺を踏んでずるりと滑った。

 「あら、食べかけのラーメンを落としちゃったんだ。汚いわね」

 「だって恭子がいきなり驚かせたりするからだよ」

 「ごめんなさい、あとでお詫びにわたしが綺麗に掃除してあげるから」

 「そんなの自分でするからいいよ」

 所在の無い守にとって散乱したラーメンの後始末は格好の仕事だったのだ。その作業を続けている間は自然に視線を下へ向けていられるから、半裸の状態に近くなってからだを拭いている恭子を見なくても済むからである。

 「じゃあ、しばらくそうしていてね。わたしストッキングも脱いじゃうから」

 そんな窮余の思い遣りも知らないで、あっけらかんと命令してきた恭子の態度に、守は少しばかり腹立たしさすら覚えた。

 ふやけて拾い難くなったくず麺を丹念に指先で集め、そのあとスープで濡れた畳を雑巾で拭き終わった頃にようやく恭子の許可がおりた。

 「もう顔を上げてくれてもいいわよ。ご協力ありがとうございました」

 「そんなことより一体どうしたっていうんだ」

 まだ畳の上に這いつくばったままの守は、カーテンレールへレインコートとストッキングを干している恭子の後ろ姿に向かって、苛立ちながらちょっと声を荒げた。

 「うん、ちょっとね・・」

 守に背を向けたままで恭子はしばらく口ごもっていた。

 その次にはみるみるそれまでの元気さを失って、融けた雪だるまのようにその場に座り込んでしまった。それを見た守は些細なことで腹立ったり苛立ったりしてつい声を荒げてしまったことを後悔した。

 「別に怒っているわけじゃないよ。こんな台風の日にいきなり現れたから吃驚しただけなんだ。そんなに悄気ないでくれよ」

 守はそういって機嫌をとると、畳の上へ座り込んだままの恭子に向かって、部屋の隅に柏餅みたいに畳んである夜具の上へ腰を下ろすよう手招きをした。

 「わたし逃げてきたの」

 「逃げてきたって、いったいどこから」

 「台風が来ているから厭だって答えたのに、帰りは車で送ってやるからと言い張られて断り切れなかった職場の先輩から食事へ連れて行かれたの。でも詰まらない長話を聞かされながら食事を終わってみたら、その人が窓の外で大きく揺れている銀杏の樹を見ながら、こんなに雨風がひどくなっては車でも危険だから今夜は一緒にホテルへ泊まろうよ、って言い出したのよ。だから慌てて逃げてきた」

 そんなことがあったのか、と守は膝を抱えながら改めて恭子をみつめた。

 恭子は畳んだ布団の上に横座りになって両脚を左へ倒し、上体を反対側へ傾けて右手で支えている。そして相変わらず守には半ば背を向けたまま、萎れたチューリップのように重そうに頭を傾げながら、弱々しい視線を畳の上へ落としていた。守には、聞かされた出来事の内容とともに、焦げ茶色のタイトスカートからはみ出ている素足の丸い膝頭がとてもまぶしかった。

 「いいからもうこっちを向けよ。久しぶりだろう。しっかりぼくに顔を見せてくれないと」

 守は精一杯の明るい声を出して恭子の気持ちをなごませようとした。

 ほんの少し前には苛立ちを覚えていたことも忘れて、守の胸には恭子に対するほんらいの愛おしさがふつふつと湧き上がっていた。やはり目の前にある膝頭よりもはるかに強烈に恭子の話がその心を掻きむしっていたのだろう。

 叔母の家がある町のバス停で慌ただしく別れてからも、日時を報せなかった引っ越しにはむろん来てくれなかったものの、恭子はあのときの約束の通りに月に二回ほどは食べる物を持ってこの下宿を訪ねて来てくれた。だがそれはいつも日曜日の昼ころと決まっていて、銀行の帰りに立ち寄るということはこれまで一度も無かったのだ。ほかの企業より残業の多い銀行勤務はとても疲れるし、帰る時刻も遅くなってしまうから立ち寄る余裕なんて無いの、と会うたびに恭子はこぼしていた。

 その日曜日すらも、守が教会に通い始めたことや恭子の仕事疲れもあって、六月に入った頃には月に一度となり、八月は今日まで一度も来なかったのである。 

 「からだが冷えてるんじゃない? 熱いコーヒーでも淹れてやるよ」

 守はそういって小さな食卓から電気ポットを持ち上げるとコンセントをつないだ。その作業の間に恭子はようやく守のほうへからだを向けた。

 「なんだ、まだあちこち濡れているじゃないか。困ったな。そのままだと風邪をひいちゃうし、かといって着替えるものなんて無いし」

 「パジャマは持っていないの」

 「あるにはあるけど、夏になってからはずっと着てないし、洗濯もしないで衣装ケースへ突っ込んだままだから臭うんじゃないかな」 

 「いいわよべつに、マモルの臭いなら」

 「この際だからまあ風邪をひくよりはましか。そのケースに入っているから引っ張り出してくれるかな」

 守は二つしかないカップを小さな食卓から取り上げながら応えた。 

 「カップを食卓に出しっぱなしだったから埃を被ってるかもしれない。一階にある流し台で洗ってくるから、そのあいだにパジャマへ着替えたらいいよ」

 「いろいろ気を遣わせてごめんね」

 小さく首を振ってそういう恭子の声を背にして守は階段をおりた。

 手洗いを兼ねた流し台はこの家に一つしかない便所の手前にある。守はその水道栓をひねりながら、やっぱり恭子は今夜ここへ泊まっていくことになるのだろうか、とぼんやりとした頭で考えた。ガラス戸越しに見える小ぶりな庭の花菖蒲に、今もなお叩きつけるような雨が降り続いている。

 カップを洗い終わってから玄関のほうを覗いてみると、すでに門灯は消されて、おばあさんの部屋も静まり返っている。こんな日にいきなり押しかけてきた恭子のことは明日になったら謝ろうと決めて、守はゆっくりと階段を上って部屋へ戻った。恭子はすでにパジャマへ着替え終わっており、脱いだスカートやブラウスを針金のハンガーに掛けているところだった。

 電気ポットが彼女の足もとでカタカタと音を立てて沸騰しかかっている。

 「コーヒーはわたしに淹れさせてね」

 そう言って即席コーヒーの瓶を引き寄せた恭子の姿は、身に着けたパジャマが上も下も異様なくらい大きすぎたから、守は可笑しくて思わず笑い転げてしまった。

 「そんなに変かな、とっても楽なんだけどね」

 「変だよそりゃ、手の先も足の先もぜんぜん見えないんだもの。転ばないように気をつけないとね」

 「そんなに笑われるとなんだか恥ずかしいな。でもこのままでいいよ、うん」

 恭子は自分だけが納得してコーヒーをつくりはじめた。

 守が勉強机の上に読みかけになっていた本や参考書を片付けていると、立ち上がった恭子が食卓よりは僅かに広い机の空きスペースへ粉末コーヒーを入れたカップを並べてくれた。

 「マモルはいまどんな本を読んでいるの」

 カップの中へポットの湯を注ぎながら、横に押しやった本を恭子が覗き込んだ。

 「このハイデガーって著者はどういう人なの」

 「ドイツの哲学者だよ、実存主義の」

 「実存主義か、最近のマモルってすごい本を読んでいるのね。わたしなんか毎日がお金の勘定と伝票の整理ばかり。たまに電車の行き帰りに小説くらいは読んでも、読み終わるまでに一カ月もかかってしまう。高校時代とは大変な違いだもの」

 「それは仕方がないさ、恭子はもう社会人だもの」

 守は自分でも変な慰めかただなと思いながらそんな応えを返した。

 恭子は自分のカップを手に持ってまた畳の上にきちんと正座した。そして椅子に座っている守を見上げるかたちで、カップを口へ運びながら哀しそうにつぶやいた。

 「こうしてわたしとマモルの間にはどんどん差が広がっていくのね」

 だが守には、いまの恭子が何よりも辛く感じている心の裡など分からない。だから彼女が言った「差」が実は教養などの差ではなく、二人の間をだんだん広げていってしまう「距離」のことだとは無論気づかなかった。

 ガラス窓には恭子が着ていた衣服が掛かっている。

 その間から見える外の景色は、相変わらず闇と雨風ばかりだが、風が少しおさまったのかギシギシという嫌な家鳴りの音は聞こえなくなった。

 守は不意に襲ってきた欠伸を慌てて嚙み締めた。

 「眠いんでしょう。そろそろ寝ましょうか」

 それを見た恭子はクスリと小さく笑いながらそう告げると、守に畳んであった布団から腰を上げるように促してからそれをどんどん延べはじめた。追いやられた守は小さな押入れから夏の間は使わない掛け布団を引き出してその傍に敷き詰めた。

 「それを敷き布団にしたらマモルが上に掛けるものが無くなっちゃうじゃない。こちらでわたしと一緒に寝ようよ」

 「でもシングルサイズだから狭苦しいよ」

 「平気、平気。ほらその布団もこちらに持ってきてくれる。そうそう、それでいいわ。でもわたしがマモルのパジャマを奪っちゃってるのよね。いっそシャツとパンツだけになりなさいよ。夏なんだから寒くはないわ。」

 恭子は思いがけない展開に戸惑っている守の胸の裡などお構いなしにてきぱきと指示を飛ばしてきた。

 小さく頷き返した守は、下着だけで眠るのは何時ものことだし、実は掛布団すら使っていなかったのだから、何も言い返さないまま指示に従って布団の中へもぐりこんだ。吊り下げてある衣服の乾き具合を確かめて、電灯を豆球へ切り替えてから、恭子はそっと守のそばへからだを横たえた。するとお互いのからだの一部が触れ合って、離れようとすると敷き布団から別の一部がはみだしてしまうのだった。

 二人はしばらくそのままからだを固くして薄暗い天井を見つめていた。

 「マモルはさっきの話を聞いて嫉妬しなかったの」 

 恭子のほうが天井を見つめたまま低い声で守にそう訊ねた。

 「もちろん嫉妬したさ。その男をぶん殴ってやりたいと思ったよ」

 「そう、それなら嬉しいわ」

 「これからも気をつけるんだよ。男ってみんなそうなんだから」

 「マモルもそうなの」

 「そうかも知れないけど、その男ほど卑怯じゃないつもりだよ」

 「だったらこういうときはどうするの」

 「どうって、そりゃ恭子を抱きたいに決まっているじゃないか」

 「だったら抱いてくれてもいいのよ」

 あっさりとそう応じた恭子の手が同時に守の胸の上へ伸びてきた。

 疑いようもなく自分が期待していたことだったから、守の手は躊躇い、震えながらも恭子が着ているだぶだぶのパジャマのボタンをまさぐっていた。そしてすべり込ませた手のひらが恭子の胸のふくらみと、つんと尖った乳首に触れたとき、なぜか守の頭の中に河野さんの顔が浮かんで消えた。それはほんの一瞬のことだったけれど、綺麗に澄んでいるのに寂しそうだったあの瞳が凝っと守を見つめていた。

 〈河野さん、あなたは一度も坪井さんを抱かずに逝ったのですか〉

 守は上半身を起こして恭子の上へかぶさりながら河野さんに向かってそう問い掛けた。もちろん河野さんは答えてはくれない。すると、守のからだの中で熱く滾りはじめていた血が、河野さんの顔へ吸い込まれるように冷めていった。

 「どうしたのマモル」

 あどけない顔に不審げな表情を浮かべて、それまで目を閉じていたはずの恭子が守を見あげながらそういった。その顔がまた一瞬だけ坪井さんの顔と重なった。

 「ぼくにはまだ恭子を抱く資格なんて無かったんだ。さっき聞いた卑劣な男の話のせいで別に善人ぶっているわけじゃないけど」

 「そう・・」

 恭子はそう答えると顔を逸らしてふっと泪ぐんだ。

 しかし垣間見たその泪は守さえ気づかないほどの素早さで、豆球だけの仄かな部屋の灯りの中へ消えていった。

 「いまのマモルの気持ち、わたしにもよく分かる気がするわ。だからわたしも大切にとっておく。でもその時が来たらきっと抱いてくれるわよね」

 「もちろんだよ」

 「それなら今夜はマモルにわたしの乳房だけをあげる。だから胸に入れた手はそのままにしておいて・・」

 「うん」

 その夜、守と恭子は台風一過の空が白みはじめるまで語り合った。

 布団の中でからだが触れ合ったまま話していると、同級生として過ごしたこれまでの三年間と何ら変わるところがなく、大学浪人と銀行員という今ある大きな隔たりすら感じることがなかった。そして守と恭子は、いずれ必ず結ばれるのだからという確信と、そのときに得られるであろう至福を想像することで、その手と乳房を通じて幾度となく襲ってくる熱い性欲を朝まで自制しつづけた。


                  3

 「もうすぐ仕事が終わるからここで待っていてね、帰っちゃだめよ」

 小走りでロビーにある受付に現われた紺の制服姿の高樹恭子が筒井守の姿を見つけるなり早口でそう告げた。

 御堂筋本町にあるS銀行の本店ロビーは、あまり物怖じしたことがない守ですら圧倒されるほどの威厳に満ちていた。しかしよく見れば何の変哲もない大理石のビルは、コケ脅しの意匠だけが目立っている趣味の悪い空間なのだが、初めて訪れた守には鳥肌が立つほどの威圧感と冷ややかな無機質感が迫ってくるのだった。

 そして、恭子はこんなところで働いていたのだという驚きと、就職してからの彼女については哀しくなるくらい何も知らなかったのだという現実を突きつけられた衝撃が、その場に立ち尽くしている守をさらに強く打ちのめした。目の前にいる恭子との距離が、これほど遠く感じられたのは初めてのことだった。

 「こんなところで待っているのは厭だよ。大江橋の上にいるから、ゆっくり支度してから来ればいい。何か重い荷物があれば先に持っていってやるよ」

 「だいじょうぶ、今日はもう何も荷物は無いから。分かったわ、大江橋の上ね。出来るだけ早く行くわね」

 つるつるとした大理石のフロアに靴音を響かせて、恭子はそう告げるなりくるりと背を向けてエレベーターのある方角へふたたび足早に去っていった。

 守は急いで銀行のロビーを出ると、いま歩いてきたばかりの御堂筋を北へ向かって引き返した。四十四メートルの幅員を持っている御堂筋を挟んで、この辺りには一流企業の本社ビルが犇めいている。だから退社時間も近くなったこの時刻になると、両側のビル群から吐き出されてきたビジネスマンやウーマンたちで歩道は溢れんばかりになる。名物の銀杏並木はすっかり黄葉して歩道一面に落葉を散り敷いていた。ところどころに踏みつけられて果肉を飛ばした白っぽい実も転がっている。

 守は後方から押し寄せてくる人波に流されないように、淀屋橋を渡って中之島へ入り、市役所の建物を右に見ながら大江橋へと向かった。

 淀屋橋は土佐堀川に架かる橋だ。

 その橋の名は、江戸時代に西国大名の蔵米を一手に商ったり米相場を始めて余りの豪富を築き過ぎたために、幕府の突然の処分によって闕所追放となった悲劇の豪商淀屋が私費で架けたことにちなんでいる。またもっと西に架かっている常安橋も淀屋の始祖といわれる岡本常安の名に由来している。そして土佐堀川と堂島川に挟まれた今の中州こそその淀屋が中心になって開削した中之島で、この島を足場にするかたちで南北の対岸を結ぶ橋がいくつも架けられているのだ。

 守が恭子に待っていると告げた大江橋は、その中之島をはさんで北側の堂島川に架かっている橋で、南側の土佐堀川に架かる淀屋橋とは一対になっている。えんえんと続いた御堂筋の銀杏並木は淀屋橋のたもとで途絶えてしまうが、大江橋の北詰めから始まるプラタナスの並木のほうが守は好きだった。

 守はその大江橋のほぼ真ん中で立ち止まって欄干ごしに川の上流を眺めた。

 夕靄がおりはじめた堂島川を、ぽんぽん船の曳くタグボートが遡っていく。末広がりの波が静かな沼のような川面にゆっくりと広がり、その細かな波頭につるべ落としの秋の残照が映えている。府立図書館のある中之島側も、裁判所のある堂島側も、すでに今日の勤めを終えたかのように灰色の世界に包まれようとしていた。そして間近かに見える水晶橋に点った灯りが、暈のかかった月のようにボウと霞んでいた。水晶橋の向こうには、高校生だった頃の守と恭子が夏休みの自由研究のために通った府立図書館の帰りに、何度も立ち寄ったことのあるライオン橋と中之島公園がある。大江橋から見えるこの風景と、上流のライオン橋から見返した風景がある限り、人はどこまでも大阪を愛し続けることができるに違いないと守は思う。

 守は欄干にくっつくようにして人の流れを避けながら恭子を待った。

 それでも背中や脇腹にぶつかっていく人やカバンが絶えない。この人たちは一刻も早く我が家へ帰ろうとしているのか、それとも一刻も早く会社から遠ざかろうとしているのか、どちらなのだろうかと守は考える。

 一昨日の夜、守の下宿へ恭子からの電話があった。

 若い女性にはめずらしく、恭子は電話をするのもされるのも余り好きではなかったから、初めて受けた彼女からの取次電話に、守は理由もなく不安に駆られた。だが下宿のおばあさんに礼を言いながら受け取った受話器から流れてきた恭子の声は、電話では聞き慣れていないこともあって多少の違和感があったけれど驚くほど張りのある明るい声だった。

 《もしもしマモル? こんな時間に電話なんかしてごめんね。いよいよもうあと残り四カ月ほどになったのね。新聞なんかによると、国立のK大学は今年よりもっと倍率が上がって難しくなるんだそうよ。わたしたち、戦後のベビーブームに生まれた世代だから、しかたがないけどね。でも負けないで頑張ってね》

 「心配いらないよ。さすがにもう外国文学なんて読んではいられないからね。キェレケゴールもハイデガーも、それに教会だってしばらくお休みさ」

 《ところでねマモル。そういう大変な時期だというのに悪いんだけど、近いうちに会えないかしら》

 「いいよ。明後日なら土佐堀のYMCAで模擬試験があるから、その帰りに銀行へ寄ってやるよ。受ける教科が多くて夕方になりそうだから一緒に帰ればいい」

 《無理を言ってごめんね。よかった。明後日ならなんとか間に合うわ》

 「なんとか間に合うってどういう意味なんだ。いま説明してくれよ。いつだって恭子はぼくを驚かせてばかりいるんだから」

 《詳しいことは会ってから話すけれどね、わたし入行して余り日が経っていないんだけど、いろいろ考えた末にやはり銀行を辞めることにしたの。これはまったく偶然だけど明後日はその最後の日。じゃあ待っているわ、きっと来てね》

 とんでもない話を早口でさりげなく告げて、恭子は守が制止する間もなく一方的に電話を切ってしまった。

 そのあとのツーツーという断続音が様々なことを想像させて、守は下宿のおばあさんが怪訝な顔で見つめているのも構わずに、しばらくの間ぼんやりと受話器を握り締めていた。そして守は、なぜか一陣の冷たい風が身体の中にぽっかりと空いた大きな風穴を、音も無く通り抜けていくのを感じたのだった。

 「お待ちどお、わりと早かったでしょ」

 ゴムまりのような太腿が守の右手にぶつかると同時に恭子の声が横で弾けた。

 真っ赤なツーピースへ着替えた恭子が、勢い余ってハイヒールの先で守のズック靴を踏みつけそうになった。それを避けようとする気持ちより、とても恭子とは思えない一人の女を見たことへのたじろぎで、守は思わず大きく後ずさってしまった。群衆の中にぱっと咲いた花のような恭子の艶麗さと、その相手である自分のみすぼらしさが守の脳裏で一瞬のうちに対比されて、恥ずかしさで頬のあたりが熱くなってしまうのだった。そして実際いぶかしそうな顔で振り返っていく通行人の視線を浴びながら、守はやすやすと恭子の頼みに応じてここまで会いにきてしまった迂闊さに、やりきれないほどの後悔と腹立たしさを感じるのだった。

 「このスーツちょっと派手すぎたかな。でも退職する日なんだから、湿っぽくなくてこのほうがいいんじゃないかと思ったの」

 やはり恭子の敏感さは相変わらずだ。守の戸惑いの一部始終をあっという間に掬い取って、早くもその掌の中に入れている。

 「いやよく似合ってるよ。すごく大人っぽいからちょっと驚いただけさ。ぼくが知っている恭子は、白いブラウスと地味なスカートが多かったからね。そのうえハイヒールなんか履いてるものだから、いつもの恭子より凄く背が高く感じてしまって、一瞬、人違いじゃないかと思ったくらいなんだ」

 「そうね。こんな種類の洋服を着はじめたのは十月の衣替えからなんだけど、そのときわたし自身が鏡をみて戸惑ってしまったくらいだもの。でも人間って不思議ね、そんなのも時が経つと麻痺してしまうのかしら」

 「それに顔だって、さっき銀行で見たのとは印象が違っていた」

 「だから前にも言ったでしょう。女はお化粧で自分の顔の上にもう一つ別の顔をつくるんだって。わたしなんかまだ新人だから控えめなほうで、先輩なんかが帰るときにはもっともっと濃いお化粧にしなおすのよ。そのうちわたしも麻痺してしまって、どんどん境目が無くなっていくのかしら。そして濃いお化粧をしたほうの顔が自分の顔だと思うようになるのでしょうね。でもそんなに違うかしら」

 よくよく考えてみれば、守は化粧をした恭子の顔を見るのは初めてなのだ。

 夏までの日曜日にときどき下宿を訪ねてきたときの恭子はせいぜいが薄化粧だったし、台風の夜に現れたときも全身が濡れネズミの状態だったから、たとえ化粧を施していたとしても守などには分からなかったのだから。

 「いや綺麗だよとても。ぼくの格好があまりにみすぼらしいから、見る人にはアンバランスなカップルに見えるんじゃないかと思っただけさ」

 「変なことを言うのね。マモルがどんな格好をしていても他人には関係の無いことじゃない。そうでしょう。あっ、もしかするとわたしに気を遣っているわけ?」

 「・・」

 「やっぱりそうなんだ、馬鹿ねマモルは」

 恭子はそう言うとわざとらしく守の肩へぶつかるように擦り寄ってきた。

 守の膝に密着した太腿も、上腕部のあたりに触れてくる胸も、わずか数カ月前の台風の夜とはまるで違う女のもののようだった。

 「それで銀行を辞めてこれからどうするつもりなんだ」

 内心の動揺を隠して、守は親が子どもを詰問するような口調で話題を逸らした。

 やや大声になったその言葉を聞きつけたらしく、中年の男が驚いたように二人を振り返り、しばらくその場に立ち止まった。男はその服装や全体の雰囲気から察すると、まず二十年くらいは勤めあげて、今やどっぷりと会社にその身を預けているサラリーマンに違いない。男がしばらく足を止めたのは、〈銀行〉という言葉だったのか、それとも〈辞める〉という言葉だったのか、守はなぜかそんな詰まらないことに関心を持ってしまった。だが立ち止まって見たその声の在りかが、関心の対象にすらならない若い男女のカップルだったからだろう、男はつまらなさそうにすぐさま背を向けると、また足早に梅田方面へ向かう人混みの中へ消えていった。

 「これまでいろいろ考えていたんだけど、二ヶ月ほど前だったかな、知り合いの人から広告会社のコピーライターの仕事があるけれどやってみないかって誘われたの。高校生の時からわたしがいちばんやりたいと思っていた仕事だし、そう簡単に一人前のコピーライターになれるとは思わないけれど、ともかくその人の話を聞いたときにこれだって閃いたの。正直に言うとその人がわたしの持っている僅かな才能を見つけてくれて、生かせる仕事を勧めてくれた気持ちのほうが嬉しかったということもあるかもしれないわね。だからわたし思い切って決めちゃった」

 「その人というのは男性なのか」

 「違うわよ、銀行の先輩で女の人よ。あ、やきもちやいているんだマモル・・」

 「それにコピーライターって何なんだ。ぼくにはさっぱりわからない」

 「広告の見出しとか宣伝文を考えて書く人のことよ。知らないのも無理はないわ。まだそんなに知られた職業ではないから」

 「確かに恭子は文章を書かせたら誰にも負けないものね」

 「わたし、女の子としてはおしゃべりが下手なほうなの。それで小さい頃から書くことが好きなのかな。マモルだってそうでしょ」

 「ぼくたちの言語中枢はおしゃべりに向いていないように出来ているんだよ。相手へ訴えたいことを、何度も自分の感性や脳のフィルターを通して言葉を選んでいたりしては、気楽なおしゃべりになんかなりはしないからね」

 「でもねマモル。今度お世話になる会社は東京にあるの」

 「そうか、東京か」

 「あまり驚かないのね」

 「おとといの夜に下宿へ電話があったときから、ぼくもある程度の覚悟はしてきたつもりだよ。コピーライターだとか東京だとか、一つ聞くたびに驚いていたんじゃ身がもたない。それでいつ行くんだ」

 「明日」

 「ほらね、これだものな。もしぼくがあの電話のとき、一週間くらいは会えない、と答えていたら、黙ったままで行くつもりだったわけだ」

 「違うわ。そのときは無理にでもマモルの下宿へ押し掛けてたと思う。ただあまり前に会って打ち明けちゃうと、わたしの決心が鈍りそうな気がして・・」

 気が付くと堂島川はすっぽりと宵闇に包まれて、かなたのライオン橋はもちろん手前の水晶橋ですらもう定かには見えなくなっていた。

 「ちょっと歩こうか」

 そう言うと守は梅田新道の方角へ歩きはじめた。

 急に肌寒くなってきた夜気と、道行く人々が着はじめているコートの数が、都会の季節の移り変わりを告げている。

 「オリンピックが開かれるおかげで今では東京も近くなったからね。会おうと思えばいつだって会えるさ。それにぼくだって四年後に大学を卒業したら東京にある会社へ就職することになるかもしれない」 

 「そうか、そうなったらいいわね。あと四年かあ。その頃にはわたしのほうも一人前のコピーライターになっているかもしれないわ」

 黒々とした堂ビルの影が二人の上に覆いかぶさってくる。

 その無言の圧力と同じ種類のものが相手なら、今の守には恭子を引き止める力など一欠けらも無いのだ。守はそういうことを思い知らされた上での虚しい自分の強がりが、そばに石ころでもあれば思い切り蹴飛ばしたいくらい悔しかった。

 「でもよかったよ」

 「え、なにが」

 「もしかすると誰かと結婚するって言い出すのかとも思っていたから」

 「してもいいの」

 「もちろん嫌だよ、そんなの」

 「そうでしょ。少なくともマモルが大学を卒業するまでは、わたし、絶対に結婚したりなんかしないから安心していて」

 そう言ってプラタナスの並木を見あげた恭子の横顔は、梅田新道を流れる車のヘッドライトを幽かに受けとめて息を呑むような美しさだった。

 そして結婚という言葉と恭子の横顔の両方が、この夏の終わりにいきなり亡くなってしまった河野さんと、涙も見せないで墓地の十字架の前でひたすら祈り続けていた坪井さんのことを、また守に思い出させた。

 もしいま守へ預けられている恭子の手がその胸の前で組まれたら、プラタナスを見あげている恭子の姿は、教会で行なわれた河野さんの通夜に、仄かな燭台の灯りに浮かんだ祭壇を凝っと見つめていた坪井さんそのままだった。あのとき坪井さんは何を河野さんに語りかけていたのだろう。わずか数カ月の結婚生活で二人が得たものは何だったのか。恭子の横顔を見ながら、守はいまそれが知りたいと思う。

 《愛してくれているとしても、もしかするとその愛はクリスチャンとしての隣人愛で、男と女の愛ではないんじゃないかと》

 そう言って寂しそうに顔を伏せた河野さんは、結婚によって坪井さんの愛のほんとうの姿を確かめられたのだろうか。

 教会での二人は結婚後もそれまでと少しも変わらなかった。

 連れ立って来てまた一緒に帰る相手がお母さんから河野さんへ変わっただけで、坪井さんは相変わらず清楚なお嬢さんのようだったし、河野さんのほうもせいぜいアイロンがかけられてしゃきっとしたワイシャツに変わったくらいで、寂しそうな目と丁寧な言葉遣いと控えめな態度はどこまでも同じだった。

 守は退院した父の様子を見るために田舎へ帰ったりして、何度か日曜礼拝を休んだことがあるために、亡くなるまでの間に河野さん夫婦に会えたのは数えるほどだったから、とうとう河野さんたちとはあれ以来ゆっくり話せないままに終わった。

 だが亡くなる日の二週前の日曜日、帰りぎわに擦れ違った守に向かって、

 《イエスさまはやはり正しかった》

 と呟いてにっこりと笑った河野さんの笑顔だけが、その後の守には大きな支えになっている。あれはその日の青年部会で戦わした神による救済の議論に対して河野さんが下した結論などではなく、坪井さんとの結婚はイエスの意志だ、と言った守への感謝のメッセージだったのだと思いたい。

 「どうしたのマモル、いきなり黙り込んだりして。お願いだから、いまは他のことを考えたりしないで」

 ぼんやりと歩き続けていた守の耳に、いきなり恭子の声が飛び込んできた。

 いつのまにか二人は国道1号線を前にしていた。

 少し非難の響きを持っているその声に、守は夢から醒めたようにあわてて周囲を見渡した。その先には歓楽街として知られる曽根崎新地の色とりどりのネオンの輝きとその通りを行き交う人々の喧騒があった。 

 「わたしすこし寒くなってきちゃったな。あったかいおうどんでも食べようよ。近くにあるおいしいお店を知ってるから」

 「いいね、どのあたりにあるの」

 「ほらそのお初天神の近くよ。そうだついでに天神さまへも寄っていかない?」

 梅田新道に沿った舗道が右に枝わかれして曽根崎の歓楽街へと伸びている。

 その入り口のすぐ右手に、通称「お初天神」と呼ばれる露天神社(つゆのてんじんじゃ)がある。この神社が「お初天神」の名で呼ばれるようになったのは、近松門左衛門の名作「曽根崎心中」が大坂竹本座で上演された元禄時代以降のことだといわれている。いまや歓楽街のど真ん中にあるこの神社の近くには、その頃うっそうとした深い曽根崎の森があって、その森の中で北の新地の遊女お初と醤油屋平野屋の手代徳兵衛が心中をした。その事件を題材として書かれたのが「曽根崎心中」で、上演のたびごとに当時の人たちの泪を絞っただけでなく、いまも世話物浄瑠璃の最高傑作として伝えられているのだが、この神社はそれ以来お初天神と呼ばれるようになったのである。もともとは少彦名命と菅原道真を祭神としていたこの神社を、そういう名で呼び続けてきた大阪庶民の心根が嬉しくなってしまうくらい守は好きだった。

 「今度はいつここに来れるのかな」

 狭い境内を歩きながら恭子がつぶやいた。

 今度またこの天神さまを訪れる日は、二人が久しぶりに再会する日になるのだろうが、そんな日のことは守にも恭子にも予測すらつかない。いきなりうどんを食べようと言い出したのも、その前にお初天神へ立ち寄ったのも、明日にはこの大阪を離れようとしている恭子の感傷がもたらしたものだったのだろう。

 出来るものなら恭子を東京へ行かせたくない、と守は拝殿に向かって叫びそうになった。それまで一時的に拝観者が絶えていた拝殿に、そのとき北門のほうから入ってきた水商売風の若い女がひざまずいた。お店へ出勤する前なのか綺麗に結いあげた髪とうなじの白さが、どちらかと言えば雑然としていて薄汚れた印象を与える神社の中でひときわ際立って見える。商いに関わっている者なら境内には水天宮や稲荷社もあるのに、本殿に向かって祈るその女の願いが守には分かるような気がした。

 〈この世も名残り、夜も名残り・・〉

 いきなり拝殿の横の薄暗がりから、地を這うような低い声が流れだした。

 すぐそばで祈っていた女がまず驚いて立ち上がり、次にはその後方にいた守と恭子もつられて暗がりを覗き込んでいた。

 〈死にゆく身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足ごとに消えていく、夢の夢こそあはれなれ・・・〉

 お初・徳兵衛の道行きの場を謡っているのは、拝殿の横で胡坐をかいたまま目を閉じていた浮浪者だった。髪の毛も髭も伸びるにまかせて、ありたけの衣服を重ね着した彼は、お釈迦さまのように瞑想して膝の上で手を組んでいる。その薄汚れた腹のあたりから絞り出されている義太夫節は、詞や物語の細部まではよく知らない守と恭子にも、からだを揺さぶられるほどの旋律で迫ってきて、二人をその場に釘づけにしてしまうほど素晴らしかった。これほどの思い入れができるこの浮浪者には、おそらくお初・徳兵衛の恋と同じような人生の一場面が、遠い過去にあったに違いないと守は確信する。再び社前に膝まづいてしばらく聞き惚れていた女が、財布から引き出した紙幣の一枚をそっと浮浪者の膝の上へ置くと、なおも名残り惜しそうに振り返りながら、さっき入ってきた北門を急ぎ足で出ていった。

 佇んで聞くうちに、守の脳裏を四年に近い恭子との思い出が駆け巡った。

 入学式の朝、守が石橋駅のホームで初めて見かけていらい脳裏へ焼きついてしまった恭子の姿。その恭子が思いがけなくも同じ高校の新入生で、しかも9組もあった最初のクラスで一緒だったことを知った時の驚きと喜び。

 半年足らずでクラス替えがあったから、その直後の短い期間だけは裕子と付き合ったりもしたけれど、改めて恭子へ交際を申し込んでからは、箕面公園に始まって須磨浦や明石にまで足を伸ばし、数限りのないデートを重ねてきた。さらにそのまた何倍にもなる手紙の交換や日常の語らいと、卒業後も続いた久安寺観音の前や台風の夜の出来ごとなど。そういったことの数々が、いまも境内に流れ続けている義太夫節に乗って、ネオンが瞬く繁華街の空へと浮かんでは消えていく。どうにもならない世間の定めと運命がお初・徳兵衛を追い詰めたように、どうにもならない大人への旅立ちと別離が十八歳の守と恭子をいま苦しめているのだった。

 物語が終わったのか、それとも気紛れに終わらせたのか、浮浪者の声がふいに途切れた。からだを固くして聞いていた恭子が、ふーと大きな溜め息をつく。すると守の腕を抱えていた恭子の胸のふくらみが急速にしぼんでいった。

 「あら、溜め息なんかしてしまった。また一つ幸せが逃げて行ってしまうわ」

 「逃がさないでこの天神さんへ預けていくんだよ。今度きたときにきっと返して下さるから。そう二人でお願いすればいい」

 「そうね。わたしの幸せ、まだこの辺りにいるわ。マモルも一緒につかまえて」

 「よしまかせておけ」

 そう言いながら二人は蛍でも捕まえるように空を掴み続けた。

 めずらしく参詣人が途絶えてしまった境内に守と恭子の影だけが踊っている。

 そのときまた浮浪者の謡う義太夫節がゆっくりと流れはじめた。

 物語はまだ終わっていなかったのだ。

                                  〈了〉







 







    「ベジタブルラブ」梗概


 昭和三十九年の春、大学入試に失敗した守には同級生で恭子というガールフレンドがいた。恭子は家庭の都合もあって銀行に就職が決まっていたが、卒業まもないある日、彼女はいきなり守を訪ねて叔母の家の彼の下宿を訪ねてくる。落ち込んでいる守と社会の入り口でとまどう恭子。それでも二人は、散歩した久安寺の悲母観音の前でおさない愛を確かめあう。守もまたそれまで世話になっていた叔母の家を出て、新しい下宿に移ることになっていた。

 素人下宿に移った守は、ふとしたことからキリスト教会へ通うようになっていた。そこで知合った河野さんという心臓の悪い若い信者が守の心を揺さぶる。河野さんは同じ信者の坪井さんというお嬢さんと結婚が決まっていたが、自分の病気や坪井さんの愛への疑いもあって迷っていた。だがちょっとした守の言葉に決心のついた河野さんは、まもなく坪井さんと結婚するが、二カ月も経たないうちに亡くなってしまう。その葬儀を終えた夜は台風だった。吹き荒れる嵐の中を、男に食事に誘われて帰れなくなった恭子が下宿に転がり込んでくる。思いがけない再会と社会人のにおいを感じさせる恭子に守はとまどう。そして肌を触れ合いながらもとうとうふたりは結ばれないままに夜をすごす。

 銀行を辞めるという突然の電話で守は恭子に会いにいく。だが恭子はすでに東京の会社に転職を決めていて、明日にも大阪を離れるというのだった。台風の夜に引き戻せたふたりの距離が、わずかのあいだに大きく広がっていることに守は愕然とする。それでもいつか結ばれることを信じるふたり。立ち寄ったお初天神の境内で、浮浪者が謡う曽根崎心中の浄瑠璃節を聞きながら、守と恭子はその手から逃げようとする幸せを夢中になって追うのだった。
















あとがき

      

 狭き門より入れ。ほろびにいたる道は広くその門は大なり。これより入るもの多し。いのちに至る道は狭くその門は小さし。その道を得るものまれなり

 新約聖書のマタイ伝にあるこの言葉は、アンドレ・ジイドの「狭き門」の主題となって有名なことばですが、ジュリエットとアリサそれにジェロームたちの悩みと、今のぼくの気持ちがどこかで重なっているようです。いのち、つまり自分がほんとうにこの世で歩むべき道を発見して生きる、ということはそう簡単ではないということを聖書は言っているのですが、だからこそ挑まなければならないとも言っているのです。

 

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ベジタブル・ラブ 歌垣丈太郎 @jo-taro

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