エンドツーエンド

 ⑨



 昨日はなんとなくアパートに帰る気にならず、雛木の同意もあり、俺達は結局運動公園の駐車場で車中泊をした。

 朝の陽射しに照らされて目覚めると「おふぁようほぁいまふ」雛木が肉まんを頬張っていた。

「あ、心配しないで下さい。勿論時雨さんのも買ってありますから」という無駄に気の利いた彼女の配慮を受け取って、俺は朝から恋人でもない異性と風変りな朝を過ごした。



「これが俗にいう朝帰りというやつですね」


 アパートに着いた頃には朝も九時台に差し掛かっていた。


「俗にいうには色気が足りないけどな」


「色気って、なにかやらしいことでも期待してたんですか?」


 彼女はそう言ってからかうように、ニタニタと笑みを浮かべる。


「バカいえ」


「釣れないなあ」


「釣れたら釣れたで困るだろ」


「さあ?」


 自室の扉の前まできたところで、財布に取り付けている家の鍵を取り出そうとポケットに手を入れると、隣のドアが開く音がした。


「朝からお盛んだね」


 ゴミ袋を片手に持った派手髪の女子大生が、眠そうな目でこちらを見ていた。寝癖の惨状具合から、丁度さっき起きたというところだろう。


「君って彼女とかいたんだね。教えてくれてもよかったのに」


「違いますよ。彼女は……なんというか……」


 ――殺す予定の女の子なんです。


 とは言えないからな……どうしたものか。

 俺は白目を広げて斜め上を見ながら、適当な言い訳を考えた。


「……年の近い従妹です。実家が両親共々燃え尽きたとかで、シェルターを探して俺のところに流れ着いてきたんですよ」


「君さあ、それってもはや嘘吐く気あるの?」


 派手髪の彼女は呆れたように、しかし楽しそうに笑った。


「お初にお目にかかります。時雨さんの従妹の、雛木と申します」


 黒いロングヘア―の彼女もまた、俺の軽口に笑いをこらえているようだった。


「そんな堅苦しいのいいって、ただのお隣さんだし。あー私は埜上っていうよ。ていうか君、時雨っていうんだね。めっちゃかっこいいじゃん」


「からかわないで下さいよ。さして興味もないでしょう」


「んなこともないけどね。それじゃ、なんか困ったことあったらいってね。譬えば、女の子の扱いとかね」


「お気遣いどうも」


 無駄な立ち話も程々に、俺達はやっと部屋に入った。

 派手髪の彼女が一階のゴミ捨て場に続く階段へ向かう際、雛木は淑やかに腰を折っていた。


 俺はそのときまで、雛木紫蘭という女の子を殺されたい願望を持つ変わり者だと思っていたが、それは誤解のようだった。彼女は顔に目立つ痣があるというだけで、基本的にはごく普通の出来た女の子なのだ。



 ⑩

 

「今日は休暇日にしましょう」


 俺が髪を乾かして風呂から部屋に戻ると、先にシャワーを浴びてくつろいでいた彼女が言った。


「……分かった。昨日は俺も久々の長距離運転で疲れたからな、今日は体を休めて明日に備えるとしよう」


「……怒らないんですね。初日はあんなに急いでたのに」


「今のところそんなに悪いペースでもないからな。焦って足を滑らせるよりかは、一つ一つ着実に進めていくべきだと気付いたんだ」


「そうですか……」


 彼女はどこか納得のいかないような表情をした。



 ⑪


 開け放たれたカーテン、むき出しになった掃き出し窓から、暖かい西日が差し込んで、部屋全体を照らしている。俺は何をするでもなく、ただ無感情に窓の向こうの青空を眺めていた。


「時雨さん、暇じゃないんですか?もし私に気を遣っていつも通りに過ごせていないのであれば、そんなの全然気にしなくて大丈夫ですよ」


「気なんか使っちゃいない。俺はいたって普段通りにしてるさ」


「いつもただぼーっとしてるんですか?」


 彼女はきょとんとした顔で言った。当然といえば当然だろう。二十歳手前のいい歳した男が、還暦を迎えた老人でもしないような休日の過ごし方をしているのだから。


「何も考えずにいる方が楽だからな。それに、こうして空を眺めているのも、案外悪いものじゃない。一見同じように見える空でも、毎日見ていると些細な変化が分かって面白いんだ」


「今更かもですけど……時雨さんって、結構病んでますよね」


 彼女は哀れむような、蔑むようなそんな中途半端な表情で目を細めた。


「ブログに誰か殺してなんて書くような奴に言われたくないな」


「うーん……重いカウンターパンチだなぁ……」


「お前のほうこそ、適当に本でも読んで暇を潰せばいいんじゃないか?無理に俺に合わせて晴天観測に耽る必要はないぞ」


 雛木は雛木で、特にやることがなく手持無沙汰のようだった。


「読書する気分でもないんです。それに私だって、好きでこうしてるんですよ。あと、ちなみにいうと、私が見てるのは青空じゃなくて時雨さんですよ」


「分かりにくいジョークはやめてくれ」


「冗談じゃありませんよ。ただ、変な意味でもないですけどね」


「じゃあどういう意味なんだ?」


「新鮮なんですよ。こうして人前で心置きなく寛げる空間が、思っていたよりずっと、心地いいんです。そして私をこんな気持ちにさせてくれた時雨さんに少し興味が湧いたので、絶賛観察してるところなんです」


 ――聞きたくもなかったクラスメイトの陰口が、ずっと耳に残っている。

 ――父も、私がいなくなって清々することだと思います。


 俺は彼女が以前言っていたことを思い出していた。この真っ暗な髪色をした真っ暗な目の少女は、もしかすると生まれてこの方、誰にも気を許したことがなかったのかもしれない。

 周り全てが敵のような環境で、孤立無援の戦場で、彼女は一人勇ましく戦っていたのだろう。誰にも気を許さず、常に警戒心を張り巡らせながら生きることが、どれ程疲れるのかは俺も身に染みて知っている。


「好きなだけ見てもらって構わないが、その観察とやらで、なにか収穫はあったのか?」


 いくら恥も外聞も捨てて開き直ったところで、俺には彼女に同情して共感してやれるほど、弱さを曝け出すことは出来なかった。だから俺は何も知ったこっちゃないって面で、浅い問いかけを飛ばした。


「はい、時雨さんの意外な一面に気付くことが出来ました。たとえば、気を抜くとすぐ優しい顔になってしまうところとか、以外と整った顔立ちをしているところとか」


「分かった分かった、もういい」


 聞いてるこっちがむずがゆくなってしまった。というかこいつ、どこまでが本音で、どこからが冗談なんだ?全く……よくもまあ堂々とこんな気恥ずかしいことを言えるもんだ。


「照れなくてもいいのに」


 どうやらこの女の子は人をからかって笑うのが好きらしい。俺は彼女のペースに飲まれまいと、妙な思考を遮断し、コーヒーカップ片手に立ち上がった。


「もう冷めただろ。淹れなおしてやる」


 ベッド正面の座卓に置かれた雛木用の赤いコーヒーカップには、数十分前に淹れたホットコーヒーがまだ残っていた。


「あ、ありがとうございます。すみません、残してしまって」


 俺は彼女から赤いカップを受け取り、キッチンに向かい、水入りの薬缶を火にかけた。


「……なんだか今日は、ゆるやかな時を過ごせている気がします」


 ポンコツの暖房が職務放棄を決め込んだ薄寒い十二月の部屋で、太陽に顔半分だけ照らされた彼女が言った。


「こんな日は、もう今日で最後かもしれない」


 俺達の未来は、明るいものじゃない。それだけが、今確かに分かっているものだった。俺は彼女を殺す為に、彼女は俺に殺される為にここにいるのだ。決して人肌の温みを求めて戯れている訳じゃない。

 

 俺も彼女も、それぞれ違った形で、ただ死を求める狂人同士で、言わば共犯者なのだ。どれだけ距離が近づいたとしても、そこに純粋な感情はない。互いにとって都合のいい捨て駒、それが俺達の真の関係性だ。


「でも私、死ぬ前に誰かとこんな穏やかな時間を過ごせて、よかったと思います。痛みも悩みも全部忘れて、ただ楽しくお話をして、些細なことで笑い合う。きっとこういうなんでもない時間を、幸せと呼ぶんだと思います」


 ……こんなものは、幸せじゃない。俺は彼女の悲しい無知を哀れんだ。

 笑い合える人間がいるのも、一日中、一秒たりともその身を掴んで離さない、不幸という業に苛まれないのも、多くの人間にとっては当たり前のことだ。 

 

 彼女はずっと、苦痛で満ちた“マイナスの世界”で生きてきて、安楽で満ちた“プラスの世界”を知らない。故に彼女は“ゼロの世界”という、苦楽もないただの日常を、まるで幸福かのように感じ取ってしまうのだろう。


「腹が空いていればなんでも美味く感じるものさ」


 俺は水道水で濯いだコーヒーカップに黒い粉末を入れて、甲高い音を立てながら小刻みに体を震わせている薬缶を手に取った。


「どういう意味です?」


 俺は薬缶からコーヒーカップに熱湯を注ぎ、スプーンで混ぜ、彼女のほうにだけ、砂糖を入れる。二つのコーヒーカップを両手に持ち、片方を雛木に手渡した。


「ありがとうございます」


 デスクの椅子に腰を下ろし、出来たてのコーヒーを一口飲んでから、俺は彼女に向き直った。


「世間では、こういうなんでもない時間を、幸せなんかじゃなく、日常と呼ぶんだ。俺達のような極度の薄幸人間は、ただ苦痛がないというだけで、まるでそこが楽園かのように誤認してしまうことがある」


「……つまり、私が小さな幸せを過剰にありがたく思ってしまうのは、それだけ今までが悲惨すぎたからで、手放しに喜べることじゃないと?」


「あぁ。あと、コーヒー、冷めるぞ」


「あ、はい、頂きます」


 彼女はふーふーと数回息を吹きかけて、慎重に温度を確かめると、音一つ立てずにコーヒーを飲んだ。


「砂糖、増やしてくれたんですね」


 雛木は優し気な顔で微笑んだ。特に気を遣った訳ではなく、ただ自分が淹れたコーヒーを残されるのが癪だった為に、俺は一杯目より砂糖の量を多くしていた。


「いや、分量を変えたつもりはないが、甘すぎたか?」


「いえ、こっちのほうが、飲みやすいです」


 そういうと、彼女は満たされたような顔で、またコーヒーを飲んだ。そんな彼女を見て、俺はどうしてか、後ろめたい気分になった。


 ――どうせなら悪役になりきってくれ、気まぐれに優しさを振り翳さないでくれ。


 そんな言葉が頭を過った。これじゃあまるで、あいつと同じじゃないか?


「…………自分の存在を許してもらえる場所があれば、私はそれでよかったんですけどね」


 膝上に置くようにして、両手で持ったコーヒーカップの中を、俯いて覗き見ながら彼女はか細い声で言った。

 数十秒の沈黙があった。返答に困ったという訳じゃなかった。こっちのほうの俺を選んでいいのかと、葛藤していたのだ。


 固く結んだ筈の殺意が、揺らいでいた。何故よりにもよって、俺は彼女を選んでしまったのだろう。雛木に出会うまで、一度だって人を好いたことがないというのに、何故こんな形で、俺は知ってしまったのだろう。彼女のような人間が、生きていることに。


「すみません。急に変なこ――」


「ここにある」


 理性より先に声が出ていた。自分が何を言っていて、何を曲げようとしているのかは、分かっているつもりだった。


「俺がお前の存在を許してやる。お前が俺の存在を許さなくてもだ」


 彼女は悲しそうな目をした。そこに喜びや受容は感じられなかった。寧ろ、それだけは言ってほしくなかったと訴えかけるような表情だった。


「……時雨さんだって、分かってる癖に」


 彼女はそう言ってまた、優し気に微笑んだ。それで取り繕ったつもりなのか思う程に、無理やりな笑みだった。

 彼女の周囲を浮遊する絶望の翳は、出会った当初よりも、色濃くなっているようだった。

 それでも俺は引かなかった。ここで引いたら、こっちの俺を選んだ意味が消えることになる。出来る限りの説得をするべきだと思った。


「なあ、今が“あのとき”だと思わないか? お前が書いた並行世界の話だ。今ならまだ、俺達は引き換えせるんじゃないか?  お前があの日語っていた、笑える……明日だって…………」


 自分で言っていて、現実感がなかった。話せば話すほど、陳腐な与太話のように、言葉が軽くなっていく感覚がした。俺の問題も、雛木の問題も、一時の情動で解決出来るようなものじゃない。それは俺が一番よく分かっていた筈だった。


「もっと早く出会えていれば、別の未来があったのかもしれません。でももう、遅すぎるんです。なにもかも」


 そうだ。遅すぎるんだ、彼女も俺も。

 俺は一体何に熱くなっているんだ? 彼女に同情でもしたのか? それともなんだ、ここに来て怖気づいたとでもいうのか?

 

 雛木紫蘭は、殺す為の女だ。俺の欲求を満たす為、巨大な胸の空洞を埋める為に、利用するだけの道具だ。

 ……頭を冷やしたほうがいい。この数日で、俺は平和ボケしてしまったんだ。

 何より、あの日決めたじゃないか。心なんて不確かなものに振り回されるのはもう辞めようと。


「時雨さん、忘れた訳じゃないですよね。私達の契約」


「…………俺は、お前を殺す為にここにいる」


「はい。私も、あたなに殺される為に、ここにいます。もう、揺らがないで下さいね。でないときっと、どちらも逃がしてしまうことになります」


 彼女の言う通りだ。このままでは、どちらも掴めずに終わってしまう。笑える明日も、存在の証明も。

 幸せに手を伸ばすには、俺達は失いすぎた。寄り添って暖め合うには、この肌は冷たくなりすぎてしまった。

 

 彼女と話をするうちに、彼女の顔を眺める時間が増えていく度に、無意識中に新たな選択肢が浮かんで、俺はそれを、実態のある希望だと錯覚してしまった。

 

 いざこうして雛木紫蘭との未来に手を伸ばしてみて、俺はやっと気が付いた。

 蜃気楼に化かされ、ある筈のない幻影を追って、届かない声を振り絞っていたんだということに。


 ⑫


 *


 あれから俺は、現実性の欠いた思弁を捨てて、出来る限り機械的に彼女に追従した。

 彼女のやり残したことはどれも風変りしたもので、その中でも印象的だったのは、

“命の音を録る”というものだった。彼女のいう命の音というのは、多種多様な生物の鳴き声のことだった。

 

 駅前の交差点で雑踏に揉まれながら社会の喧騒を録った日もあれば、都市部から離れた田舎町で虫や鳥の声を録音したこともあった。

 その奇行とも取れる不可思議な行動について俺が訊ねたとき、彼女はこう言っていた。


『 思考を煎じ詰める為です。頭を使わない集中力というのは、考え事をするのに最適なんですよ。まあ考え事といっても、大体は妄想なんですけどね。もしこうだったら、もし私の人生にこんな幸せなことが起きていたら。みたいな妄想に耽っていると、知りたくもない現実のことなんて忘れていられるんです 。命の音を録るというのは、それらの素敵な想像を邪念なく満たす為の、謂わば形式的な儀式なんです』

 

 彼女らしい、自己完結で根暗な趣味だと思った。とはいえ俺も、人のことをいえた質じゃないのだが。

 

 彼女のやり残したことには、他者の存在を必要としなかった。俺は基本的に送迎のドライバーとして、彼女に付き添っていた。呪いを解いて欲しいなどといったわりには、彼女は俺に殆ど頼ることはなかった。

 そうしてあっという間のうちに、一週間が過ぎていった。

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